第4話 求愛行動は命懸け
「…どうされたのですか?」
穏やかな昼下がり。クリストフェルを見るが否や、アンナはぱちぱち瞬きを送り、ヘルガはその眠そうな顔を不思議そうに傾けた。
「なんかハゲたぁ?」
「は、ハゲ…!?貴様は言葉を慎むと言うことを知らんのか!」
ヘルガの明け透けな物言いに、彼が慌てて文句をつける。しかしながら事実として、頭部の羽毛の一部が抜け落ち、地肌がさらけ出ている。クリストフェルが疲れきった様子でため息を吐いた。
「何か分からんが…ここのところ毎日陛下に殺気を当てられて…」
「まあ…。一体どうされたのでしょう…」
まさか自分のせいとは思いもしないアンナが、労うようにそっと彼の肩を撫でる。こんなところをエドヴァルドに見られれば、今度は全身をずるむけにさせられそうな事案である。
だがストレスのせいで大事な羽根が抜け落ちていると言うのに、クリストフェルの心に前回のような翳りはない。
(僕の陛下がお戻りになった…)
彼の主人がここ最近奇行に走っていたが為に、一時はその忠誠が揺らぐこともあった。だがしかし、ならば通常時のエドヴァルドはどんな男かと問われればそこは魔王。非情で冷徹、常に殺気を撒き散らした物騒極まりない男であった。
(あの殺気はそう、まるで王になる前の、昔の陛下のような…)
禿げながらもそう嬉しそうに頬を染める彼に、アンナとヘルガは少し引いた目を向ける。
「ところで…ベルマン秘書官。本日はどのようなご用件でございましょう?」
「あ、ああ」
クリストフェルが脇から纏まった資料を取り出す。そして傍にあった机の上に広げた。
「ほら、持ってきてやったぞ。最新の東オリアン王国の地図だ。生息する魔族の種類についても書き込んである」
「まあ…」
「べっ別に貴様のような人間に肩入れする気はないがな!四六時中暇そうだし勉強熱心ではあるようだし!暇で暇で仕方なくだ!」
今日も今日とて彼女は図書室に居た。脇には大量の本や新聞。言い訳を並べ立てるクリストフェルに、アンナは弾けるような笑顔で彼の手を取る。
「ベルマン秘書官殿!ありがとうございます!」
「む…うむ」
エドヴァルドが見れば羽毛をむしられるどころか焼き鳥にされそうな現場であるが、当然彼も彼女もそのことを知らない。
「ところで、一部の魔族の方が理性を失い暴走する事件。まだ解決には至っていないようですね」
アンナが新聞を指し示す。そこには既に灌漑工事よりも大きく取り上げられた、国の西側を中心に発生している事件の詳細。クリストフェルの表情が苦いものになった。
「国をあげて調べているが、一向に原因が分からん。解決策も見つからず、西地区の住人が不安を訴えていて…」
「そうですか…。可能であれば…事件の担当の方からお話しを伺いたいのですけれど」
「それは…止めておけ」
眉間に紫波を寄せ、その顔が更に渋いものへと変わる。言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「なんというか…あれは第2騎士団の管轄だ」
「ああ…あのオジサン」
ヘルガが納得したように頷き、べえっと舌を出した。
「ご存知なのですか?ヘルガ」
「私は大嫌いですね」
「き、嫌…。団長のアウレリウス卿は少し…その、偏屈な方だから」
クリストフェルがごほんと咳払いをする。その返事に無言で何事か思案していたアンナは、やがてゆっくりと口を開いた。
「あともうひとつ…お聞きしたいのですけれど」
そう言う彼女の頬を汗が流れる。眉間にはクリストフェル以上に皺が寄せられ、黄金の瞳には今までにない真剣な光が宿っている。
「…なんだ?」
思わずクリストフェルが、その喉を動かした。辺りを見回して、アンナはじっと彼を見つめる。そう、これは何を差し置いても重要な問題なのだ。それでいて、もう自身の力では解決しようのない切迫した案件である。
「ベルマン秘書官殿は…女性と一夜共にしたことがおありでしょうか?」
「…は?」
「……」
(珍しいな…)
寝室に入った瞬間、エドヴァルドは普段と違う部屋の様子に片方の眉を上げた。巨大な天蓋付のベッドは毎度のように美しく整えられ、床には塵ひとつ存在しない。小机の上に置かれた水差し、蝋燭や窓から射し込む月光を最大限に活用し絶妙な明るさに設定された雰囲気も通常通り。
ただひとつ。扉の前で立ち、彼を迎える妻の姿がなかったのだ。
毎夜毎夜灯りを持ち待機する小さな妻の姿は大変に可愛らしく、それでいて何かしらの重圧を彼に与えていたものだ。だが今夜はその恒例の行事はない。
見ればベッドの片側。彼女の定位置の布団部分が、下から押し上げられこんもりと膨らんでいる。
(疲れて寝てしまったのか…)
そう判断しなるべく音を立てないように、いや彼の体格的にずんずん重厚な足音が飛び出してしまう為に現実には不可能なのだが、それでも比較的静かにベッドの逆側へと回る。布団に手を掛けたところで、予想外の音が降ってきた。
「…エドヴァルド様」
口から心臓が飛び出しそうになった。視線を動かせば、アンナの姿。首元まで布団を被った状態で、仰向けになっている。そしてその瞳は爛々と開き、天井を見つめていた。
「……なんだ」
心臓をなんとか定位置に戻し、彼は必死で平静を取り繕う。
(起きていたのか…)
嬉しいような、一気に緊張が昇ってくるような、複雑な気持ちになるエドヴァルドに、アンナはそのままの体勢で静かに口を開いた。
「諸事情できちんとしたお迎えができず、申し訳ございません」
そう、アンナは起きていた。彼女の中ではエドヴァルドとの共寝は最優先事項。毎夜毎夜繰り返していた出迎えを急に止めたのは、先に寝たかったからでも、面倒になった訳でもない。
アンナの脳裏に昼間の会話が甦る。
『何!?エドヴァルド陛下に、未だ夜伽が出来ていないだと!?』
驚くクリストフェルに、アンナは神妙な顔で頷いた。
『ええ、ですから是非お話しを伺いたいのです。魔族の男性から見て、同衾に対する理想の誘引とはどうあるべきものであるかを』
『な、なんと言うことだ…』
衝撃を受けつつ、クリストフェルが顎に手を当てた。思案を巡らせる。
『そうだな…。僕の場合は…互いの爪を握り合い、螺旋を描くように空を滑空しながらと言うのが常識だが』
ヘルガとアンナが固まった。互いに目配せし合い、動揺を確認する。
『ベルマン様はずいぶん…特殊なご性癖をお持ちですね…』
『なんつーマニアックで犯罪性の高いセックスを…』
『ちっ、違う!これはその前の段階の話だ!』
クリストフェルが必死で訴える。アンナがぱちぱちと瞬きをして彼を見つめた。
『前の段階、ですか…?』
『これは求愛行動だ!』
『求、愛…?』
聞き慣れない単語に戸惑うアンナとは裏腹に、ヘルガが納得したように声を漏らした。
『ああ、鳥類だから…』
『いっしょくたにするな!僕の一族に伝わる、互いの勇気と信頼を示す格式ある文化なんだぞ!』
『いやあ、アンナ様。女の子の前でいきなり踊り出したり派手な装飾をし出したり、付き合う前から勝手に家用意してきたり、鳥類って全体的に重いんですよぉ』
『重いとはなんだ!愛情表現だろう!貴様のような女がいるから鳥人男性の結婚率は年々下がってきていて』
そのままヘルガとクリストフェルがわちゃわちゃ喧嘩を始めたが、アンナは聞いてはいなかった。
(求愛行動…)
そう、彼女の頭には青天の霹靂のような衝撃が落ちていた。
(わたくしときたら…手を出されたいとただ待つばかりで…こんなことでは事が起こる筈がございません!)
胸を大きく見せたり会話を弾ませる努力はしてきたが、直接的にセックスに繋がるような振る舞いを行ってきたわけではなかった。準備万端、いつでもこちらは対応可能であると伝えなければならない。文字通り、セックスアピールをしなければ。
だが彼女は鳥ではない。クリストフェルのように飛行することは不可能であるし、踊り出すのも何か違う。肌がぴかぴか光り出すような特質もない。家は既に用意されている訳で、絶妙な暗さに設定されたどこかムードのある寝室の雰囲気も、既にプロの使用人達により完璧に整えられている。
これ以上何ができるのか、そんな手詰まりの状況下で、アンナが考えに考え抜いたセックスアピールがこちらである。
「わたくし現在…布のほんの一切れも、身に纏っていないのです」
暗い室内で、アンナが静かに言い切った。そう、今の彼女は、布団に隠れてこそいるものの、すっ裸だった。
(これがわたくしの求愛行動でございます!)
どちらかと言えば猥褻行動に近いものではあるが、アンナは大真面目であった。
女性が男性の前で服を脱ぐと言うのは、そういうことである。自身の要求を明確に突き付けつつ、しかもあとは布団を捲るだけ。エドヴァルドに余計な手間暇を掛けさせることもない。これならば分かりやすい。驚きの明瞭性である。
(さあ!エドヴァルド様!)
アンナがぐあっと目を見開く。彼女とて、生まれてから一度も殿方に肌を晒したことのない淑女である。それでも羞恥心を捨て去り行ったこの行為。全ては唯ひとつの目的の為。エドヴァルドへの求愛を成功させ、共寝を果たすのだ。そう、今夜は絶対セックスしたいーーー。
「っ!?」
ところが次の瞬間室内に響いたのは、鼓膜を揺るがす轟音であった。
慌ててエドヴァルドを見ると、その頭が寝室の壁にめり込んでいるところだった。額から血が流れ、がらがらと壁が崩れ落ちていく。
「……」
「え…エドヴァルド様?」
固まるアンナを前に、彼は何も言わなかった。ただ暗がりに浮かぶ赤い瞳は、激情を表すかのように煌々と光っている。
「っ…!?」
(お、怒っていらっしゃる…)
「……」
アンナはそう寿命の縮まる思いをしていたが、そもそもエドヴァルドは激昂してなどいなかった。
何せ彼はアンナが好き。好きなのだ。恋慕する女性から、少し様子がおかしいとは言え求愛行動を受ける。これ以上に理想の状況などそうはない。だが致命的な問題点として、エドヴァルドはアンナのことが好き過ぎた。
手に触れる目標さえも未だ果たせてはいないのだ。そんな耐性がないエドヴァルドが、これを捲ればあられもない姿だなんてドスケベな状況を突きつけられて、正気でいられるはずもなかった。瞬時に血が昇ってくる頭、いや実際に血が集まっている部分はまた少し違う箇所かもしれないが、とにかく彼は冷静になりたかった。
そうして至った行為が、物理的に血を抜く為の頭突きである。
だがしかし竜鱗とは生物の作り出すものの中で、最も硬い物質のひとつ。彼にとって木製の壁は脆すぎた。壁は1枚丸ごと大破したが、エドヴァルドの頭蓋骨にはなんのダメージも無かった。額から流れた血もごく少量。こんな雀の涙ほどの液体で平静に戻れる筈がなかった。
(もっと…血を抜かねば…)
ふらふらとその場を後にする。いや、ふらふらとと言いたいところだが、いかんせんエドヴァルドは体格が良かった。どすんどすんと彼女から見れば確かな足取りで、扉の向こうへ消えていった。そう、まるで怒っているかのように。
「……」
残されたアンナと言えば、呆然と視線を動かす。そして壁に空いた穴を見て、ぽつりと呟いた。
「脱がせたい派だったのでしょうか…」
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