祈り
舞子は布で包んだ赤ん坊に縄をくくりつけ、井戸の中へそっと降ろしていった。少しずつ少しずつ…。穴は深かった。縄を継ぎ足し、かなりの時間をかけ、ようやく底まで降ろすことができた。
重苦しい曇り空の下で舞子は祈った。ただひたすら祈った。その井戸についての言い伝えは『死んだ者を中に入れると生き返る』だけだった。これ以上彼女にできることは無かった。
井戸の底から赤ん坊の泣き声が暗く反響して、地上へと漏れ出していた。舞子はその真っ黒な穴を覗きこみながら何度も手を擦り合わせた。周囲の木々が風を受け、彼女の祈りに呼応するようにガサガサと騒ぎ始めた。
日が落ち、冷たい夜が訪れ、そして朝になった。舞子は赤ん坊を引き上げた。息子の熱は下がっていなかった。
もう一度井戸の底に入れ、そしてまた祈った。
涙が次から次に溢れ、穴の底へと落ちて行った。涙が枯れる頃、擦り合わせた手に血が滲み始めた。血の滴もまた、穴の底へと落ちて行った。
翌朝、赤ん坊をまた引き上げた。様子が変わっていた。病が嘘だったかのように生気を取り戻していた。彼女は再び涙を流し、我が子を抱きしめた。赤ん坊とそれを包んでいた布は母親の血で赤黒く染まっていた。
舞子は赤ん坊を連れ、故郷を捨てた。もうそこは彼女にとっては忌まわしい土地でしかなかった。ただ年に一度、井戸の周囲を手入れをする為に彼女は故郷に戻った。
子供は元気にすくすくと育っていった。それ以降大きな病気にかかることもなく、むしろ他の子より丈夫と言えるほどだった。好き嫌いもせず、何でもよく食べた。
結局あの穴は何だったのだろうか。時折、舞子はそう考えた。でも元気な我が子という目の前の幸せを噛みしめるうちに、あの井戸の事を思い出す事は少なくなっていった。
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