なぐさめの抱擁
雨伽詩音
第1話海の聖母
聖母を愛したあの人が逝ってしまったのは苺の実る春のことでした。庭には種々のハーブを植えて、ハーブティーにサシェを作り、アンティークピオニーに囲まれて笑うあの人はそれはそれは幸せそうに見えましたのに、愛する息子が海難事故で亡くなってからというものの、セイレーンが息子を攫ったのだと信じたあの人は、ヒトデを海から拾ってきては石で打ち砕き、そのかけらでネックレスやブレスレットを作っては涙に暮れるのでした。ペンダントトップには聖母マリアのメダイがあしらわれ、自らにピエタの聖母子を重ねておられたようですが、祝別されないロザリオを手にミサに参列しては、神父さまからたしなめられておいででしたから、もはや異端と呼んでも差し支えなかったのです。神父様はことのほか新約聖書に重きを置いて、聖母の威光を讃えるお方で、よほどあの人が憐れみ深く思われたのでしょう。
「神の御下に跪いて懺悔なさい」
とおっしゃいました。いびつなロザリオを握りしめ、あの人は主の祈りを口にして、深く頭を垂れました。するとさざなみの音が教会に満ちて、天使に導かれた彼女の息子が降りてくるではありませんか。あの人は神の秘跡を目にしたようにとめどなく涙をこぼして息子を仰いでいましたが、やがて彼の手が彼女のロザリオに触れて、辺りは光に包まれました。
「セイレーンとは恐ろしいものですね、母さん。美しい女たちの歌声にいつしか意識が遠ざかって、ああ僕は死ぬのだと思いました。精気を奪われ、この肉体も魂も、この妖しい女たちの生け贄となるのだと。血はワインとならず、肉はパンとならず、ただセイレーンの吐息となり、歌声となって次なる犠牲者を求めるのだと。甘美なる晩餐の主菜となるさだめに僕は生まれついたのだろうかと、神の御業すら疑いました。セイレーンは美しい肢体を僕にからませて、毒を宿した一粒の真珠を僕の口に含ませようとしたのです。唇を割開かれたそのとき、貴女の名前を呼んだら、こうして天使たちが迎えにきてくれたのです。母さん、貴女の信仰が僕を救ってくれたのですよ」
息子は微笑んだかと思うと、彼女の手を取って教会の小さな薔薇窓へと昇ってゆきました。こうしてあの人とその息子は天使に囲まれて、百年を経た今でも御子の御元で微笑んでいます。
ペーパーウェル お題「包む・贈る・添える」
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