夜になった。鈴虫が鳴いている。きっと外では涼しい風が吹いているけれど、あたしは空調管理された室内で、眠ろうとしている。消灯の時間はすこし前に過ぎたから、本は読めないし、月明かりに照らされた病室で一人、カタツムリが這った跡をそのまま黒くしたような天井を見る。この天井の柄って誰が考えたんだろう。窓辺に目を移すと、やせた半月が沈もうとしているのが見えた。月明かりは、中庭を照らしているのだろうか。

 このサナトリウムには昔はたくさんの患者さんがいたらしい。中庭を囲う建物のほとんどは病室で、あたしはそのうちの一つを使っている。二〇七号室。でも、あたしの物心がつく前にみんないなくなってしまって、夜になると二〇七号室と一階の診察室だけに明かりが灯る。看護師さんはサナトリウムの近くにある山荘に寝泊まりしているから、夜に向かいの棟のガラス窓に映る光は二つだけだ。時々先生があたしの部屋に遊びに来るときは、その光が一つになる。

 サナトリウムにいた患者さんたちは、あたしのことをかわいがってくれていた、といつだかに看護師さんが言っていた。その人たちがどこに行ったのか、どこにもいないのか、幽霊になったのかは知らない。あたしをかわいがってくれていた、とは言ってもあたしはその人たちを覚えてはいないし、もし万が一会うようなことがあって向こうから話しかけられても、あたしはその時「はぁ」くらいにしか答えられないのだから、空虚な思い出でしかない。空っぽの病室の前を通ってサナトリウムの中を散歩するたび、先生のところ、つまり診察室に向かうたびにそう思う。患者さんたちが集えるようにと開かれた中庭にだって、あたし以外の患者は来ない。

 とか、考えていたらすこしずつ眠くなってきた。この眠気を逃さないようにうまく眠りに落ちなければならない。そうしないと、いつまでもぐるぐると考えて朝になってしまう。だから、目を閉じて、体を動かさないようにして。息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。繰り返し。くりかえし。吸って、吐いて……。

 すこしずつ、頭の中にあるものがぼんやりとしてくる。ぼんやりとしたものを、それでも頭はぼんやりと動かそうとする。不明瞭。緩慢。そうしたものたちの意味も分からなくなっていって、そうして、そうして。体を動かすのがひどくだるくなっていく。寝返り一つ打つのも、物音に反応して目を開けることもままならなくなって、沈むように、落ちるように。

 沈んでいく、落ちていくそこには、誰もいない。夢か現実かもわからない、あたしだけがそこにいる。眠りに落ちるとき、きっと死ぬ時もこんな感じなんじゃないかなとそれだけははっきりと、思う。あたししかいないその場所で、あたしがいなくなる時が、消えていく時が、きっとその時だ。ひとりきりの場所で、ひとりがいなくなる。

 消えながらでも、沈みながらでも。最後のその場所では、あたしはいつものように呼び掛けたい。たとえ、ひとりきりでも。

「先生」

 と。


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