三
「蔓みたい」
滅多に話しかけないから、看護師さんはちょっと驚いた顔をした。あたしの視線の先にあるものに気づいて、看護師さんは微笑みながら答える。あたしにしかしない笑い方。
「血管のこと?」
話しかけなければよかった、とすこし後悔する。あたしはこの人の作り笑いが苦手だ。この人はきっと、こうやって笑いながら、子ども扱いも大人扱いもできないあたしに、どう接すればいいのか困っている。
「そう、血管。」
あたしは言葉を返す。
「緑色で、中庭のレモンの茎にまとわりついた蔓に似てる」
レモン。
中庭に生えている、一本の小さな木。
それから、あたしの名前。
先生がつけてくれた、あたしの名前。
檸檬。
「はい、おしまいです。」
看護師さんはいつものようにてきぱきと、針を抜いて止血テープを貼る。その上からバンドをまく。
「バンドは十五分後に取るから、それまでゆっくりしててね」
「はい」
いつも通りの会話。ちょっとの血をとるのでも、バンドをまかないといけない。普通はテープだけでいいみたいだけれど、一度テープだけ貼っていたら血が止まらなかったことがあったらしい。だから、念のため。
「ねぇ、看護師さん」
「何?」
「あたしの血管は、あと何本注射に使えますか?」
看護師さんは困ったように微笑む。いっそ、困った顔をしてくれていいのに、そうじゃなかったら、笑って答えてくれればいいのに。
「数えたことがないから、わからないわ」
「じゃあ、数えてください」
言葉に棘があるのを自覚しながら、それでも、言ってしまう。
左手のひじの血管は、もう使えない。右腕ももうすぐ使えなくなるだろう。注射をしすぎたせいだ。手首の血管だって、点滴をするからだめになってしまう。ちょっとの血なら耳からとれるけれど、耳から注射はできない。いろんなところの血管を使うけれど、そのたびに使えなくなっていく。でも、注射をしないと、あたしは生きてさえいられない。看護師さんは、あたしを生かそうとする。それは看護師だから。あたしを患者として見ようとする。それは間違ってないけれど、あたしの求めることじゃない。
この人がわかっていなくて、先生がわかっていること。
このサナトリウムも、治療も検査も、注射や点滴の痛みも、その副作用も、使える血管の本数も、全部あたしの日常。あたしは確かに患者だけれど、患者としてのあたし以外にあたしがいるわけじゃない。ここにいるあたしが全てなんだ。他のどこかに、あたしはいない。看護師さんはあたしを生かしたいかもしれないけれど、あたしはきっとすぐにでも死んでしまうことをわかっているし、その中で生きているのだから。その日常の外なんてない。このサナトリウム以外で生きているあたしなんて、いない。
あたしはきっと、大人になれない。これは、どうしようもない単なる事実で、日常。悲しくなるものでもなんでもなくて、先生も、この日常の中にいる。看護師さんはきっといない。もしかしたら、いないふりをしているのかもしれないけれど。
だからきっと、看護師さんは悲しそうに笑って言ったのだ。
「今度ね」
その顔が、あたしはきらい。あたしが、悪いことをしたみたいな気分になる。困ってよ、あたしの求める答えはそうじゃないって怒ってあげるから。それができないなら、笑って何本って答えてよ、あたしも笑って「そうなんだ」って言うから。見て見ぬ振りしないで、あたしはあたしのことが知りたいだけなのに。
あなたの言う「今度」は、いつ? その時あたしは、生きてないんじゃない?
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