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「まあ、あなた方がここに来る途中で声だけ聞いたというその鬼魔――恐らくね――ここ何か月かの間、私の家の周りに時々こっそり近づいて来たわ」祖母は真面目な話を続けた。


 私とユエホワは一瞬目を合わせ、それから祖母を見た。


「私もまずは様子見と思っていたのだけれど、特に悪さをしかけてくるでもなく、ただ周りをうろちょろしているだけでね。キャビッチや他の畑の作物を盗むでもなく」


「ふうん」私は唇をすぼめた。「何なんだろね、一体」


「どんな声だったんだ?」ユエホワが私に訊いた。


「うーん……すごく小さい声だった」私はおでこに手を当てて思い出そうとした。「人間の子どもの声に似てたけど。あとかさかさって、逃げるときの音も小さかった」


「小型の鬼魔か」ユエホワは腕組みする。「モケ類……は人間の言葉を話せないしな。あとはキュオリイ類とか」


「あのリス型鬼魔ね」祖母は頷いた。「彼らは人間の言葉を話せるの?」


「うーん」ユエホワは眉をしかめた。「あんまり聞いたことはないけど……でも頭のいい鬼魔だから何かのきっかけで人間の言葉を学んだとしても不思議はないかな」


「まあ、そうなのね」祖母はまた大きく頷いた。「なんて聡明なのかしら」


「うん、なりは小さくても馬鹿にはできねえ」ユエホワはもうすっかりユエホワ本来の言葉遣いと仕草に戻っていた。疲れたんだろう、気取っていることに。


「ううん、キュオリイ類ではなくてあなたがよ、ユエホワ」祖母は微笑んだまま首を振ってそう言い、とても愛おしげに緑髪を見つめた。「美しい上に、なんて考え深いの」


「ええー」私はまた思わず口にしてしまった。


「う」ユエホワは口の端を下げ、顔を赤くして何も言えなくなっていた。


「うふふ」祖母は楽しそうに笑いを湛えた瞳でユエホワを見つめながら、お茶を口に運んだ……けど、その次に「あら」と言ってグラスを置き、外の方に首を向けた。


「どうしたの?」私も祖母の見ている方に目を向けてみたけれど、何も変ったものは見えなかった。「鬼魔?」祖母を見て訊く。


「ぷっ」祖母は可笑しそうに口を押さえて吹き出した。「本人にそう訊いてみてあげて」


「ん?」私は意味がわからず目をぱちくりさせた。「本人?」


「畑の方にいるわ」祖母は立ち上がった。「まあ、今日のランチは賑やかになるわね。嬉しいわ」キッチンの方へ向かう。「私は準備をするから、ゆっくりしていてね」ユエホワに微笑みかける。


「畑?」私も立ち上がる。「見に行ってもいい?」


「もちろん」祖母は私にも微笑みかけた。「でも、キャビッチを投げるのは相手が何者かをよく確かめてからにしてあげてね。あなたのキャビッチスローももう大分力強くなったから」


「うん」頷いたのは私じゃなくてユエホワだった。


「はーい」私は横目で緑髪鬼魔を睨みながら、祖母の背中に向かってしおらしく返事した。


 それからすぐに、畑の方に向かって走った。


 私には全然わからなかったけれど、祖母にはそこにいる“誰か”の気配が感じられたんだ。


 けれどあの様子では、悪さをする――ユエホワみたいな――鬼魔ではない、ということなんだろう。


 とはいっても人間なんだったら、ちゃんと出迎えてあいさつとかするはずだし……一体、何者がいるんだ?


 すぐに投げるなとは言われたけれど、私はすぐにキャビッチを取り出せるよう片手をリュックの下の方に当てたままにしていた。


「誰なんだ?」後ろで声がしたので走りながら振り向くと、ユエホワが一緒に走ってついて来ていた。


「お仲間じゃないの?」私は逆に訊いた。


「いや……鬼魔の気配じゃない」ユエホワは走りながら首を振る。「人間だ」


「人間? でも」私は少し驚いた。「じゃあなんでおばあちゃん」




「やっほう」その時、目指す畑の方から声が聞えた。




「えっ」私はさらに驚いて、前に向き直り立ち止まった。


 私の二、三メートル先に、“その人”は立っていた――キャビッチを両手に持って。


「パパ!」私は叫んだ。


「えっ」背後でユエホワのキョウガクの声がした。


 パパ――私の父は、最後に見た時と同じ服を着ていて、最後に見た時よりも髭がたくさん生えていて、最後に見た時よりもかなり陽に焼けて泥んこになっていて、でも最後に見た時よりもすごく嬉しそうに楽しそうに、顔全体で笑っていた。「ポピー」キャビッチを持ったまま両手を広げて私を迎え入れる体勢を作る。


 ……正直私は、その泥んこの父の中に飛び込んで行くことを、少し、ためらった。


 けれど次の瞬間にはもう一度走り出して、父に抱きついた。「お帰り、パパ!」


 正直、一瞬抱きついたあとすぐに離れればいいや、と思ってたんだけど、父はすかさずぎゅーっと私を抱き締めてしまい、結果として私のお出かけ服も、泥んこになってしまった。


「君は、鬼魔?」父は私を抱き締めたまま、後ろで立ちすくんでいるユエホワに訊いた。


 その声は特に怪しむ風でもなく、普通に、例えば私の親友のヨンベに声をかける時とおんなじように陽気で気さくな声だった。


「──そうだけど」ユエホワは祖母の時と違って最初からいつものままの口の利き方で返事した。


 私は父の胸に押し付けられたままだったので父を見上げることもユエホワに振り向くこともできなかった。「パパ、苦しいよ」訴える。


「あ、ごめんごめん。ははは」父はすぐに解放してくれ、また陽気な顔で笑った。それから「へえー」と言いながらユエホワの頭から足下までじろじろ全身をながめ回した。「ふうーん」


「なんだよっ」ユエホワはいつもの、礼儀のれの字もない態度(まあそれは父も似たようなもんだけど)で、少し身を遠ざけた。


「いやごめん、まさかポピーが鬼魔と友達になってるなんて思わなくてね、ちょっと驚いただけさ」父はそう説明してまた、はははと笑った。


「いや、違うよパパ」私は泥んこの全身で首を振った。


「友達じゃなくて、天敵だよ」ユエホワは頭の後ろで手を組みぷいと横を向いた。


「はははは」父は何故か、とても楽しそうに笑った。「じゃあその天敵同士と一緒に、おばあちゃんお手製のランチを頂くとするかな。行こう行こう」私たちの方に手――の中のキャビッチを差し出す。


 すると私とユエホワの体は勝手にくるっと、祖母の待つ丸太の家の方に向き直ってしまい、足が勝手に歩き出してしまった。


「えっ」私はずんずん歩きながらびっくりして自分の足を見下ろした。


「うわ」ユエホワも同じくびっくりして自分の足を見下ろしている。


 でもその“強制歩行魔法”は、十歩も行かないうちに解けてしまった。


「ふう、疲れた」後ろで父が大きく息をつく。「まだ僕の力ではここまでだな」


「え、今のパパの魔法? どうやったの?」私は振り向き、後ろ歩きしながら父に訊いた。


「ふふふ」父は少し勿体つけて笑う。「今度ね」


「うん!」私は、父の使った不思議な魔法――これももちろんキャビッチを使って発動させたものだ――に俄然興味が湧いて、わくわくした。


「ちっ」横でユエホワが小さく舌打ちしたので見ると、彼は眉をぎゅっとしかめて不機嫌そうだった。「マハドゥか」

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