2

 私ははっとして目を大きく見開いた。


 でもその前に、右手でリュックを叩いてキャビッチをすでに握りしめていた。


「誰?」叫ぶ。




 かさかさっ




 葉っぱの擦れる音がしたと同時にキャビッチスローの体勢に入る。


 けれど“そいつ”は、現れなかった。


 逃げたんだろう。


 私はキャビッチを構えたまま、しばらく周りの様子をうかがった。




 かさ、かさ、かさ




 やがて、もっと呑気そうな音が遠くから近づいてくるのが聞えてきた。


 でも私は、キャビッチを下に下ろした。


 その音こそが、私の知ってる“そいつ”の出す音だとすぐにわかったからだ。




「あっれーポピー、こんなとこで何やってんの」




 ユエホワ――本物の――は、ほんとに呑気そうに暇そうに、両手を緑髪の頭の後ろで組みながら地面の上を歩いてやって来た。


「ユエホワ」私は呼んだ。「あなた今、ここに初めて来た?」


「へ?」ユエホワは赤い瞳をくりっと見開いた。「――そうだけど?」それからぎゅっと眉をしかめる。「何だよ。そんなの持って、物騒だな」私の手の中にあるキャビッチを指差す。


「じゃあ、誰だったんだろ――てっきりユエホワだと思ってたんだけど」私はリュックの上の口からキャビッチをぽいと入れ直した。


「誰かいたのか――鬼魔が?」ユエホワは眉を持ち上げる。「つか俺だと思ったからキャビッチ投げようとしてたわけ? ひでえなそれ」


「いや、そうじゃなくて」私は首を振った。「ユエホワーって呼んだら、それ誰? って違う声がしたからびっくりして」


「お前さ」ユエホワは腕組みした。「びっくりしたら取りあえずキャビッチをぶつけてみようとか思うの、やめてくれる?」


「だって」私は口をとがらせた。「そうしろって教えられてきたもん。そもそも鬼魔のせいだからね、そういう、危険な世の中になっちゃったのは」


「あーそうですか、はいはい」ユエホワはぷいっと横を向いていいかげんに答えた。


「まあいいや。じゃあ、あたし行くから」私もかまわず先に進む。「あんまり変ないたずらとかしないでよ、町で」


「しねえよガキじゃあるまいし」ユエホワは当たり前のように私の後ろについて来る。「てかどこへ行くの? こんな森の中で一人で、危ねえ……普通の女の子だったらな」


「は?」私は歩きながら顔だけ振り向きムートゥー類鬼魔を睨んだ。「どういう意味ですか?」


「いえ、特に意味はありません」ユエホワは目を細めて答える。「最近キャビッチ技の方はどうですか」


「おかげさまで」私はまた前を向いて歩き続けた。「こないだ“シルキワスの呪文”覚えたよ」


「うわ」ユエホワは喉の奥で嫌そうに唸った。「また性質(たち)の悪いやつを」


「どこがよ?」私はまた頭だけ振り向いた。「すごいじゃん、あれ。キャビッチがいったん消えて、狙った奴の後ろからごんってぶつかるんだよ! 信じらんなかったよ最初見た時」


「誰が教えてくれたの?」


「――」私はすぐに教えず、じっとユエホワを見た。


「――何だよ」ユエホワは口を尖らせた。「お前の母ちゃんか」


「――」私は黙ったまま、にやり、と笑って見せた。


「違うのか?」ユエホワはすっかり気になって仕方なくなったようだった。


 ざまあみろ。


 私は前を向き、わざと鼻歌を歌いだしてやった。


「ちょっとお嬢さんって」ユエホワはしつこく食い下がる。「教えろよって。誰に教わったんだよシルキワスとか、あんな古っくさい魔法!」


「はあ? 失礼ね」私はまた頭だけ振り向いて怒った。「古くさいとは何よ。伝統ある魔法でしょ。うちのおばあちゃんの」そこまで言って、「あ、しまった」と口を押える。


「――おばあちゃ、ん?」案の定、ユエホワの茫然とした声が後ろからそう訊いてきた。「おばあちゃんって、あのガーベラって人? え、シルキワスってお前のばあちゃんが作った魔法?」


「ううん」私は歩きながら首を振った。「違う」


「え、じゃ何、うちのおばあちゃんの、何?」


「――教えてくれた魔法」


「――いつ?」ユエホワの声がますます茫然とする。


「だから、こ、な、い、だ」私は歩きながら、ゆっくりと区切って答えた。


「えっ……あんたのばあちゃんって、生きてんの?」ユエホワはもはや茫然のあまり、おじいさんのようにかすれた声で訊いてきた。


「生きてるわよ」私は口を尖らせた。「なんで死んでなきゃいけないの」


 そしてちょうどその時、私たちの目の前に、古いけれどよく手入れされた、ちょっと可愛らしい姿かたちの丸太の家が現れた。


 おばあちゃんの、家だ。


「え……こ、こ?」ユエホワの声が、少し遠くから聞えた。


 振り向くと彼は、とうに歩くのを止めて茫然とたちすくみ、私の祖母の家を真ん丸く見開いた赤い目で見上げていた。


「こんにちは――」私は構わず、大きな声で呼んだ。「おばあちゃーん」


「は――い」すぐに返事が聞え、数回呼吸をした後くらいに祖母が丸太の家のテラスに出てきた。「いらっしゃあい、ポピー。まあまあ、今日は暑かったでしょう」


「町はね。でも森の中は木陰で涼しくて気持ち好かった」私は紙袋を祖母に向けて差し出した。「これ、ママから預かってきた」


「ああ、これね」祖母は中をのぞいて「まあー、素敵!」感激の声を上げ、オフホワイトの生地を取り出す。「これは綺麗なドレスになるわね。フリージアもいいものを見つけたわ」


「すっごい、楽しみ!」私は祖母に、自分のいちばんの笑顔を見せた。


 祖母もとっても嬉しそうに微笑む。


「ところでポピー、シルキワスの呪文は練習しているの?」不意に祖母はそう私に訊いた。


「ん」私はテラスの木椅子に腰かけてバスケットをテーブルに置きながら答えた。「うん! 大分慣れてきたよ」


「そう」祖母は、私のいちばんの笑顔を見た時とは違う種類の、不敵な微笑みを浮かべた。「じゃあひとつ、その成果を見せてもらおうかしら」


「成果を?」私は首を傾げた。


「ええ」祖母は頷く。「シルキワスを使って見せてごらん」


「え、でも」私は戸惑いながらもリュックからキャビッチを取り出す。「何に向けて、投げるの?」


「あら」祖母はひょいと眉を持ち上げる。「あなたには、わからないかな? そうねえ、それじゃ」


 そうして祖母は右手を軽く握って肩の辺りにまで持ち上げ、その手首を軽く、くいっと曲げた。




「あいた――っ!」




 次の瞬間、悲鳴と、ガサガサガサーッという葉擦れの音と、どしーんという衝突音が響いた。


「えっ」私はびっくりして思わず立ち上がった。「何?」


 私の目に映ったのは、十メートルぐらい離れたところに生えている大きな木の根元に倒れ込んでいる、ユエホワの姿だった。


「ユエホワ?」私はあんぐりと口を開けた。

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