第5話 撲殺王からの刺客

{絶対王・パート}

 闇夜の中に薄く照りだされる城の外壁は、静かな月の妖力を吸い取った青白い露を伴って冷え切っていた。ごつごつした岩の斜面が滑らかな曲線を描きながら延々と続く中、ぽつりぽつりと窓穴から城内の乾いた空気と僅かな明かりが漏れていた。そしてよく見れば黒い影がひとつ、開け放たれた窓に取り付いている。

 その影の姿は人間とは酷くかけ離れていた。

異様に細くて長い腕、ウサギのように関節の三つある足、頭は肩から直接前に突き出し山羊のようで、その口はのど元まで割け、目は酷くいびつで死んだ魚の様であった。

 影は不明瞭な低い声でぶつぶつと呪文を唱えながら窓の周囲に描かれた妖文字を消しとっていた。血を含んだ人骨の墨で書かれたそれら象形文字は、茨のように複雑に絡み合って妖術陣を形成している。端からひとつずつ解きほぐし孤立させ隠語で中和して消し去っていく。不意に妖文字のひとつが牙を向く。

 「荒らし、キターッ」

 左の脇下の脂肪に噛み付き、食いちぎる。

ねばねばした体液の飛沫が飛び散り、宙で燃え遥か下の闇の中に消えていく。妖怪は悪態をついて尚も貧欲に噛み付こうとするそれを掴み、呪文を唱えて溶かし消す。妖文字は掻き消えながらもがなりたてるが音は微弱であった。影は面倒臭いとばかりに顔をしかめる。

 (畜生、報復してやる)

 何の変哲もない廊下が暫く続いている。石の壁には彫刻の類の装飾はなく、隠し戸も石に仕掛けられた罠すらない。狭い廊下を曲がるとタペストリから吸い寄せられる力。

 (ここにも)

 綴れ織りの壁掛けに縫いこまれた絹糸が妖の気配に触れて反応し始める。まるで血で染め上げたように赤い綴れ織りは風もないのに脈打ち、まるで大蛸か海蛇のように忍び寄る。妖怪は巻きつこうとするタペストリをその鉤爪で切り裂く。切り裂かれたタペストリは尚も触手を伸ばしてくる。妖怪は大きく息を吸い込むと、もごもごと口の中で呪文を唱え、火を吐く。炎は壁の表面を駆け抜け、妖怪はそれと平行して廊下を駆け抜けた。

 廊下の交差する角まで来て妖怪は例の感覚を受けて身体に緊張が走るのを意識した。

 (またか、ぞっとしやがる)

 どこかで悲鳴が上がる。彼らにしか聞こえない波長。

 (同族のものがやられたのか。他にも侵入者がいるわけか)

 誇り高き妖怪は

 (こんな目に合わせやがって)

 と、あの時のことを思い出す。何やら臓器がむずむずする……。

   ×   ×   ×

 眼前遥か下にどす黒い雲海の厚く広がるクレオンという名の山の断崖。キメラや大鷲の飛び交う天空の世界。目の前にサイを捕まえた双頭の大きなハゲワシが飛びすぎていく。 岩棚の住処には様々な餌が半殺しのまま放置され、その悲鳴は遥か谷底から吹き上がる風にかき消されている。

 この翼の世界に潜む妖怪は、ある時声を耳にした。忌まわしき“召喚の声”である。妖術師の契約ではなく、呪術によって行われる召喚師の技である。

 そして転移。凄まじい轟音をたてて流れ続ける混沌の中を突き抜けて、異郷の地。鼻を刺す奇怪な匂い。ぬめっとした土の感触。蟲の鳴く程の調子のある打音。暗黒に属する妖怪の目は明るすぎる月光に耐え切れず何も見えない。

時空を越えた感覚からヒトに近いの生き物のいる事だけを察知する。他の全ては、ここがどこであるかでさえも妖術によって潜められて分からない。爆発する激怒。唸り声を挙げて飛び掛ろうとするが雁字搦めに枷の嵌められている事に気付く。強烈な力の呪縛に感情は金縛りにあっている。思考の連鎖の中に紛れ込んだ呪術の声が複雑に絡んで意識を掴まえている。畜生。燃え盛る内側とは裏腹に大地に平伏して命令を受ける。

 「絶対王モナキーンを殺せ」

 四百万の小鬼を従える大邪神“撲殺王”は宇宙を司る法に対して疎ましく思うが、二年前にモナキーンによって封印された身となっては、ただ呪う事だけしか出来ない。

 今ここに、撲殺王の命を受けた妖怪は執念深く憎悪を腹底でたぎらせながらいた。余りにも長い間、別の次元にいた為に恥辱よりももっと重要なそこに潜む危険性に気づきもせずに。

   ×   ×   ×

 幾つかの罠を避け、二つの防護陣を突破して慎重に近付く。だんだん神経質になっていくのが分かる。体中の感覚が過敏になり、ついぞ思ってもみなかった不安に襲われる。例の感覚が突然膨れ上がり、恐怖が心を満たしたかと思うと次の瞬間には消え去るということがまるで脈打つように繰り返される。影は己が震えているのに気付かない。

 長く広い回廊。ここも明かりは乏しい。柱から吊り下がった灯籠は小さく、中で燃える灯心は闇に押されて弱々しく震えながら燃えている。

 (しめしめ)

 “プニプニ”という肉球がたてる独特の音が近付く。

 (手筈通りだ)

 獲物は四人の護衛に守られた城の主。

 (早く仕留めてこの場所から離れ……)

 壁から天井へと流れる支骨に彫られた古代の戦闘の様子。唐草の文様に飾られた剣を手にした戦士の像、その窪みになった陰に身を潜める。

 ぐさっ。

 冷たい。何か動いたような。恐怖が巻き上がり、妖怪は恐慌を来たす。ゆっくりと見ると金属で出来た戦士の剣が深々と胸を貫いていた。

 どさっと肉塊の落ちる音。さらにそこへ守護騎士たちの投げた短剣が四本突き刺さる。

短剣の柄に刻まれた炎が実体化して燃え出し、肉塊は火に包まれる。王と下僕たちに動じる様子はない。

 不意に燃え上がる中から皮膚を食い破って何かが飛び出して来た。再び短剣がその内の何匹かを捉え壁に突き立てる。大きさは拳程の蜂のようであるが頭は髑髏であり、その二つの眼孔には狂気の赤い妖光がちらちらと見える。

 王の右側に立つ大蠍の紋の入った甲冑の守護騎士は、腕を挙げて王目掛けて矢のように飛び出した妖蜂の弾道を塞ぐ。腕をもぎ取ろうと噛み付いた髑髏の干乾びた顎は強く、みしっと骨の砕ける音がしたが、騎士は無表情のまま。櫛のようにずらりと並んだ牙は腕の甲冑に食い込んだが、エテルナの坩堝で鍛えられた鉄製の籠手は堅く破れることはない。ただ歪むだけ。

 後ろの蜘蛛の守護騎士は長剣を下から切り上げ、大蠍の腕に食らいついた妖蜂を弾き、そのまま短刀で串刺しにする。

 その間にも別の蜂が飛び出してくる。一匹が舞い上がり二匹が左右から。左手を守る龍の守護騎士は素早く小さな動作で長槍を構え、妖蜂を捉える。繰り出す槍が妖蜂の胴体を切断する。

 「ギャース!」

 転がった髑髏は叫ぶ。騎士は歯ぎしりのような音を立てるそれを叩き潰す。緑の体液が飛び散り床の石畳に吸い込まれていく。

 猛虎の守護騎士は既に燃える肉塊に外套を被せ呪文を唱えている。被せる間際に妖蜂の蛆が炎の中に湧いているのが見えたが吐き気のする光景にも表情を崩さない。外套を突き破ろうと暴れる孵化したての妖蜂の数は四○匹にはなろうか。うごめく外套は呪文により凍りつく。

 全てが僅かな間の出来事。その間に絶対王は廊下の中央でまるで劇を観るかのように見ていただけ。やがて静まると、王は左腕に装着されている青銅で出来た腕飾りの輪を外し放り投げる。

輪はこつんと氷の塊に当たると、砕け散ったのは巨大な氷の塊の方で、破片は蒸気となって石の壁に吸い込まれていった。

 輪は来た道を引き返すように転がり王の手元に戻る。王は成り行きをろくに見もせずに踵を返すと、一行は何事もなかったように隊列を整えて暗い廊下に消えていった。

“プニプニ”という音も遠くなっていく……。

 

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