20. 深夜会議
羊が見えなくても、この赤さは蓮たちにも感じられる。
何が起こったか把握できないまま、みんなはオレと同じく、床に手を突いてうめき始めた。
「やめろよ……なんでみんなまで……」
「全員の記憶を食べてしまえば、お前を助ける邪魔者もいなくなる。単純明快な解決法だ」
脳を叩くハンマーの音が、次第に大きくなろうかというその時、部屋の扉が勢いよく開かれた。
「おうっ、お前ら大丈夫か!」
「ケン……」
「クソッ、頭が
重りを
そこに座り、光を発する黒い羊へ。
「食らえっ!」
ケンにも赤光の影響はあったのだろうが、いきなり乱入したため、ラルサに直接狙われてはいなかった。
羊の赤がケンの体を染め上げるより早く、氷結ジェットのボタンが押される。
両手持ちしたスプレーから、必殺の毒霧が噴き出した。猛烈な殺虫剤の刺激臭に、涙が出そうになる。
しかし、ラルサはそんな程度で済まなかったらしい。
「ギュエッ! なにコレッ!」
子羊の口調に戻ったラルサが、新鮮な空気を求めて、部屋の中を駆け回った。
効いてる!? まさか殺虫剤が弱点?
光が淡く、ピンク色に薄れたおかげで、体のしびれが軽くなる。
「鏡を押さえろ!」
ケンの怒鳴り声に応じて、手鏡へ飛びつく。
鏡は氷結ジェットの霧の中。そこへあえて駆け込み、ゲートから帰ろうとするラルサより、オレの手の方が早かった。
「ちょっと、鏡を置きなよ!」
「いやだ。山田!」
放り投げた手鏡を山田がキャッチして、すぐに蓮へ手渡す。
蓮はオレに投げ返し、鏡を追うラルサは右往左往して走った。
ここはケンのアイデアを採用すべし。ガムテープで封じ込めて、殺虫剤でトドメだ。
鏡を汚すことに少しためらったけど、思い切ってぐるぐると鏡面に貼り付け、出入り口を
もしかして、これで退治できるのか? そんな期待は、少し甘過ぎたようだ。
手鏡が使えないと見て取ったラルサは、山田へ向かってジャンプする。
山田の胸ポケットからは、スマホが四分の一ほど飛び出ており、銀色の背面がのぞいていた。
つややかな本体は、
ラルサが見えない山田に、スマホへ潜り込むラルサを止めることはできなかった。
「羊はどこだ!」
「もう逃げたよ、ケン」
残ったのは、部屋に充満した殺虫剤だけ。
窓を開けて換気しながら、誰とはなしにオレはつぶやく。
「これで終わり、じゃないよな」
「また明日も来ると思う。食べ物が欲しいもの」
答えてくれたのは波崎だ。
ケン以外の四人は赤い光にさらされたせいで、いくぶん動きが鈍い。
「明日もこの作戦でいくか?」
「いや……」
缶を振って、聞いてきたのはケン。
確かに殺虫剤作戦は有効で、ラルサは逃げ回った。これで判明したことが、いくつかある。
ラルサは他人には見えないものの、存在まで消えているわけじゃない。殺虫剤は効くし、実体はちゃんとあるみたいだ。
手鏡でなくとも“ゲート”にはなる。これはラルサの言葉が正しかった。
正式な鏡ではないスマホの背面でも、姿が写るなら利用できるらしい。
瞬間移動したり、反撃したりもしなかったから、羊の対抗手段は赤い光だけだとも思われる。
その光が厄介なんだけど。
一度こうやって追い回した以上、次からはラルサも警戒してくるだろう。
殺虫剤だけで、いつまでも闘うのは、あまり現実的とは思えない。目の光を浴び切ったら、こっちが先にアウトだ。
騒動の前にラルサと何を話したのか、波崎が知りたがったので、しばらくその内容を皆に話して聞かせた。
考え込んでいた彼女は「私だったら」と前置きして、自分の意見を述べる。
「ミューズを怒らせるのは、やっぱり怖い。殺虫剤で脅すくらいにして、交渉できないかな」
「何を交渉するんだ?」
「ノルマを減らしてもらうとか」
百万字を値切って、一万字にすれば、既にクリアってことだ。
そこまで減らせなくても、十万字くらいならゴールが近くに感じる。
「なんだよ、弱気だな。氷結ジェット、よく効くのに」
「今日は助かったけどさ。ケンは記憶を消されてないから、そんな簡単に言えるんだ。まともにやり合うのは避けたいなあ」
風呂に入れと母さんが呼びに来たのは、その直後だった。
波崎から順に一人ずつ、着替えを持って一階へ下りる。
ジャージになったみんなでの会議は、この後も夜遅くまで続いた。
◇
五人のうち、ケンは最強硬派、羊なんてやっつけてしまえと気勢を上げる。
ケンに聞こえない小声で、山田が「脳筋」と評していた。
対して、波崎が穏健派。百万字を書くのが順当なのではという意見だ。
ラルサを完全に信じた蓮と山田は、その二人の中間くらいの立ち位置だろう。
有効な対策を練りつつ、餌は書いて様子を見ようと言う。
蓮は羊に関する記述を探すために、他の作家の技法書をもっと読んでみようと提案する。
山田はネットが一番だと、情報提供を呼びかけることを主張した。
いずれにしろ、ラルサの光の影響がなかなか抜けず、十一時を回った頃には、皆の顔に疲労の色が浮かぶ。
記憶を消されていないか、お互いにチェックしたところ、特に何かを忘れた様子は無い。
一連の“羊事件”の経緯も、彦々の著述も覚えたままで、記憶喪失の被害者がいなかったのは幸いだった。
ケンがさっさと寝に行ったあとも、オレは明日の分の
ケンの次に脱落したのは山田で、隣室の物置へ移動した。夜更かしを一番楽しみにしていたはずが、頭痛が治らなかったらしい。
波崎はオレの隣で“千呪”のアイデアを出す手伝いを
鉛筆とメモを貸してくれと蓮に頼まれ、何を書くのかと聞き返す。
「考えをまとめたいんだ。どうも引っかかる」
「どこに? まだ信じてないのか?」
「違うよ。羊と話したことを、教えてくれただろ。ラルサは正直に喋ってるのかなあって」
「嘘をつかれても、確かめようがないんじゃ」
「そうなんだけどさ」
結局、零時半くらいには、蓮もギブアップして物置へ。
頭が働かないと愚痴っていたけど、経験上、朝には回復してるだろう。
波崎は一時まで頑張り、原稿用紙五枚を仕上げた頃合いで、一階の和室へ案内した。
まだイケるなんて言い張っていても、目にクマを作られたらオレが叱られる。
「おやすみ」と言い合うのを、少し気恥ずかしく感じながら、二階へ戻って二時半まで執筆を続けた。
原稿用紙九枚、ちょっと少ないだろうか。これくらいがオレも限界で、まぶたが重くなってくる。
明日も時間はあると、ベットに身を投げ出した。
眠りに落ちるのは一瞬で、羽の生えた文字が頭の回りを飛び交う夢を見る。
部屋の扉が閉まる音を聞き付け、目を覚ましてしまったのは、日の出直前の暗い時刻だった。
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