6 七月二十五日、二十六日
21. やるべきことは?
夢か現実かはっきりしない、寝ぼけた起床。
そりゃそうだ、目覚まし時計はまだ四時半を指している。
部屋の中はみんなが出て行った時のまま、空のグラスや氷結ジェットも、隅に固めた状態で動いていない。
耳を澄ませても、物音一つ聞こえは――。
バタン。
玄関ドアの閉まる音がした。
誰かが入って来た?
起き上がり、照明をつけたオレは、机の上に目が留まる。
書いた原稿用紙の上に、手帳のページをちぎったメモが置いてあった。
“先に帰ります。波崎アカネ”
さっきのは、波崎の出て行った音だ。
こんな早くに帰るなんて、何かあったんだろうか。
服を着替え、家の外に出たオレは、通りの先を見通す。
それなりに急いだつもりだったのに、波崎は電柱の陰でも歩いているのか、どこにも見えない。
手ぐらい振ろうというアテが外れ、背伸びしたり、頭を左右に動かして遠くを探していると、またドアが開く音がする。
玄関ポーチには、学校指定のジャージを着た蓮が立っていた。
「早起きだな、修一。ちゃんと寝たか?」
「波崎の帰る気配で、起きたんだ。早起きはアイツだよ」
「見送ってたんだな」
別にそういうわけではない、そう否定しようとしたオレに、蓮が歩み寄ってくる。
「あのさ、ズバリ聞くけども」
「なんだよ」
「修一と波崎は、付き合ってるんだよな?」
「なっ!?」
どうしてそうなる。クラスの女子には、恋愛話が好きなヤツもいるけど、蓮の口からそんな質問が出るとは思わなかった。
真剣に尋ねられるのは、冗談半分でからかわれるよりタチが悪い。
波崎とは羊の一件から話し始めただけで、まだ親しいとも言いづらいと説明する。
何だか恥ずかしいから、
「これからってことなら、オレは応援するよ。花火大会とかに誘ったらいい」
「なんてことを言い出しやがる。誰かと付き合うつもりなんて
「でも、普通は家に泊まらせたりしないぞ?」
「アイツが勝手に来たんじゃないか。責任を感じてんだろ」
元はと言えば、波崎が召喚方法を教えたのが事の発端だ。
彼女が元凶、オレは被害者だと強く主張した。
「するのは羊の話だけ、一緒に遊びにいったりもしない」
「いや、せっかくなんだし……あっ」
「本好きの波崎とは、趣味も合わないじゃん。図書委員と親しくなったりするかよ」
「修一っ」
蓮の視線は、オレの背後に向いている。
ただならぬ雰囲気に振り返ると、半開きの口で立ちすくむ波崎がいた。
十メートルほど先、昇り始めた朝日が彼女の横顔を照らす。
蓮との話を聞かれた?
「波崎……忘れ物か?」
返事は無く、くるりと
「おいっ、追いかけなくていいのかよ、修一」
「あ、ああ……」
聞かれたなら、謝った方がいい。
そんなことは分かってる。
波崎が原因なのは本当だし、少しは文句だって言いたいが、蓮に言ったのは男同士の軽口だ。
だけど、オレの足は、二、三歩踏み出したところで動きを止めた。
腕をもがれて悲鳴を上げるかのような、グニャリと
大したことは言ってないじゃないか。悪口でもないし、そんなことくらいでショックを受け過ぎだろう。
謝るにしても、何て言えと? 「ゴメン」でいいのか?
これだから、女子はイヤなんだ。
なんで泣かせたかなんて、わかりやしない。そう、波崎の目元は光っていたように見えた。
オレは悪くないと、心の中で繰り返したものの、気持ちはざわついたまま
「二度寝してくるよ。まだ眠い」
余計な口出しはしないと、蓮は家の中に戻っていく。
オレだって、もう外にいても無意味だ。
日の出にもかかわらず、光は既に熱を帯び、額が軽く汗ばんでくる。
今日も暑い日になるだろう。
学校への道に背を向け、自分も涼しい家の中へ入ることにする。
波崎をひどく傷つけたのだと、それくらいは、オレにも理解できた。
◇
もう一度着替える気にもなれず、部屋に戻ったオレはシャツのままベッドへ寝転んだ。
その体勢で横を向くと、机の脚に立てかけたノートが目に入る。
ピンクの表紙は、波崎が持って来た二冊目の創作ノートだ。
これを忘れて、取りに帰ってきたということか?
必要なら、電話なり、また家へ来るなりする――だろうか。オレから届けないと、もう夏休み中は会わない気すらする。
うつらうつらとはしながらも、本気で眠ることはなく、ぼんやりと八時近くまで横になっていた。
二階に上がって来た母さんに言われ、物置の三人を起こし、洗面所へ向かわせる。
「波崎さん、いないのよ」
「先に帰ったよ。日の出くらいに」
「忙しい子ねえ。ラジオ体操……じゃないか、さすがに」
一人分、食事の予定人数が変わったけれど、男子四人がかりならさして問題は無い。
朝にしては豪勢なスイカやフレンチトーストを、みんなはペロッと食べ切った。
ケンが一番大食いだったのは印象通りで、いい食べっぷりに母さんが喜ぶ。
お泊り会は、これでお開き。
十時前に、皆は自分の家へ帰っていく。
蓮たちは一晩明けて頭がすっきりしたらしく、それぞれ何やら考えるところがあるようだった。
帰り際、蓮と山田はまたすぐに電話すると言っていたし、ケンもより強力な武器を探すと言う。
「心配すんな、何とかなる」この同じセリフを、三人から聞かされた。
一人になった夏休みの初日。
自室の机の上には、原稿用紙以外にも、ドリルやプリント類が積んである。
どれも九月に提出する宿題で、一昨日の予定では算数のドリルに手をつける予定だった。
どうせラルサのために机に向かうなら、宿題も進めて、夢の“七月に全部終了”を目指したい。
執筆の気分転換にもなるだろう。
しかし、未だかつて達成したことがない偉業に挑戦、そんな意気込みは、記憶を消される恐怖でしぼみっぱなしだ。
その上、今朝の波崎の顔がちらつくせいで、やる気は地に落ちた。
ドリルの下には、社会と理科の課題が書かれたプリント、そのさらに下に、単行本の青いカバーがちらりとのぞく。
オレが今、やるべきことは何だ?
まず最優先が、ラルサの餌を用意すること。あと二千字は書かないと、羊が不満を言う可能性がある。
昼飯を食べる時間以外は、夜まで全て書くことに
やる気が無かろうが、字を書くことにもいい加減慣れてしまい、スピードは悪くない。
作文が大嫌いだった一週間前を思うと、天と地ほど心持ちが違う。
原稿用紙一枚、四百字が、ただの通過点だと感じられた。
夕飯の時点で、十八枚を書き上げ、ここで鉛筆を置く。
真っ黒になった手を洗い、ハンバーグを食べ終わった時間が六時半。
鏡を手に取り、ガムテープを綺麗に剥がした。どこから出てくるか分からないより、いつも通りの方が心臓に優しい。
この夜は書くのを中断して、読むことに費やそうと決心していた。
背もたれ代わりに枕を使い、ベッドの上へ足を投げ出し、本の表紙を開ける。オレにも面白く読めればいいけど。
二段に組まれた細かな文字の洪水には、書くのに抵抗が減った今も威圧感を覚えた。
児童書だと聞いていたのに、難しい漢字や表現が多く、プロローグからつまずきそうになる。
『サリーと妖精の騎士』
波崎の評価を信じ、ただ黙々と目で字を追っていった。
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