5 七月二十四日
17. お泊まり会
登校時間が遅くて助かった。前日、深夜二時まで起きていても、多少眠いくらいで済んだ。
出された目玉焼きを食べていると、テーブルの端に置かれたハガキに目が行く。
オレの視線に気づいた母さんが、ハガキを取り上げて裏面に印刷された三人家族の写真をこっちに向けた。
「妹の暑中見舞いよ。お盆にこっちへ遊びに来るって」
「表を見せて」
「大したこと、書いてないわよ」
渡されたハガキの
まだ四歳の
目を離せなかったのはその上、宛名の文字だ。
『手島涼子様』
「顔は妹似ね。小さい頃の修一にも、似てるかも」
「ああ、うん……」
姪の成長を楽しそうに話す母さんに、気のない返事をするので精一杯だった。
母さんの名前は“涼子”なのか、なんて聞けるはずがない。
“――不必要な思い出を食べるだけだよ”
自分の親の名は、覚えなくていい知識だとでも?
母さんの好きな食べ物、好きな色、誕生日に年齢。どれも答えられそうになかった。
最初から知らないのか、昨晩消されたのか、それすら
気落ちした態度で登校すると、九時三分前になってしまい、校門に立つ島瀬先生にテキパキ歩けと急かされた。
蓮も山田もオレを待っていたらしいけど、ゆっくり話す余裕が無く、すぐに体育館へ移動する。
みんなと話したのは、式が終了し、帰りの会も済んだ放課後だった。
どうせあとで会うからと、山田はさっさと帰る。バッチリ情報を集めたらしく、親指を立て、笑顔で去っていった。
蓮はオレの元気が無いのに感づき、心配してくれたものの、詳しくは家で話すと先に帰らせた。
残ったのは波崎と剣沢。
並んで前に立つ二人に、昨日からの疑問をぶつける。
「二人の仲がいいって、知らなかったよ。いつから?」
「春に助けてもらったことがあって。同じハイツに住んでるしね」
剣沢も関真ハイツから通ってたと、このとき知る。
波崎は決して背の低い方じゃないけど、剣沢はその頭一つ分は超えて高く、オレも少し見上げる形になってしまう。
だからって、いつまでも臆してる場合じゃない。敬語を使わないように心掛けつつ、剣沢の目を見据えて、直接質問した。
「剣沢は、羊のことをどこまで知って……るの?」
「波崎から、話は聞いたよ。百万字の課題を出されるんだろ」
「毎日ノルマがあって、クリアしないと記憶を消されるんだ」
「それは初めて聞いた」
横へ向いた剣沢に、波崎が小さくノーの意味で首を振る。彼女にしても、
「みんなが協力してくれるのは、ありがたいんだけどさ。剣沢とは、あんまり話したこともなかったし……」
「助けるのは変か?」
「いきなりだから、なんか理由があるのかって……」
蓮と山田は友達だし、波崎は発端になった当事者だ。三人と比べて、剣沢が首を突っ込んでくるのがどうにも
だけど当人は、いたって
「特別な理由なんてあるかよ。前の席のヤツが困ってるんだ、スルーするほど薄情じゃない」
「だからって、こんな
「羊自体は最初から知ってんだ。まあ、因縁があるってことかな」
この剣沢の答えに、少なからず驚く。
蓮や山田でも疑った羊の存在を、どうも確信しているみたいだ。
波崎が話したからということではなく、自分も体験したと言わんばかりじゃないか。
剣沢も羊を召喚したのかと尋ねると、それは即座に否定された。
じゃあ、見たことがあるのか? どこで会ったのか? そんな質問には回答せず、そのうち話すとはぐらかされる。
逆に、剣沢から二つ質問が返された。
「その羊の名前は、本当に“ラルサ”なんだな? ポリーとかパールレとかじゃなく」
「なんだよ、その名前。どっから出て来たんだ」
「ポリーはうちで飼ってる金魚だ、違うならいい。そんで、もう一つ聞きたいんだが――」
剣沢の声が、少し低く落ちる。
「――オレのあだ名は何だ? お前が付けたよな」
「…………」
母さんの名前に次いで、まだ食われたものがあったようだ。
沈黙する様子で察したらしく、剣沢は「消されたのか」とつぶやいた。
ここで話は一端打ち切り、二人はハイツへ帰ることにする。
校門まで一緒に歩き、二手に分かれる際、剣沢がオレの目を見て一言発した。
「ケンだ」
「何が?」
「お前の命名した呼び方だ。結構、気に入ってんだ。ケンって呼べよ」
「わかった。じゃあ、あとで……ケン」
「おう」
波崎はバイバイの代わりに手を振ったあと、スタスタ大股で歩み去るケンを追う。
帰宅したオレは、波崎たちを迎えに行く五時半まで、黙々と字を書いて過ごした。
指が悲鳴を上げようが、字数を稼ぐことに集中して、今晩こそラルサが満足する量を確保したい。
山田や蓮が、ひょっとしたら名案を考えてくれるかもしれないけど、正攻法でのクリアも準備しといた方がいい。
原稿用紙二十五枚。字数にすると、五、六千字以上は書いただろう。
これが今の全力だ。
漢字をわざと平仮名で書いたり、!や?といった記号も多用した。それくらいは許されるはず。
右手の筋肉痛を
過去最多の執筆量を前にして、やりとげた満足感が、今夜への不安を少しだけ軽減してくれた。
さあ、今度はみんなとの作戦タイムだ。
波崎とケンを拾いに、オレは家を出て今日二度目の学校へ向かった。
◇
校門前に立つ二人は、大きなバッグを肩から掛けていた。それはいい、泊まりだから着替えが入ってるんだろう。
理解に苦しんだのはケンが右手に持つ網、セミやカナブンを捕まえるあの虫捕り網だ。
持ち手は短めで、本来の長さの半分ほどに断ち切ったものらしい。
家へと案内する道すがら、当然この網について尋ねた。
「それ、何に使うの? 虫をとってる時間なんてないんだけど……」
「虫じゃねえ。羊用だ」
「ふ、ふーん」
どうしよう。この不良少年、ラルサをデカい虫くらいに考えてる。
待望の夏休みが始まって、浮かれてる? 今年の自由研究は、羊採取だぜ! とか。
ラルサの姿が見えなければ捕獲はあきらめるだろうし、今止める必要はないだろう。
下手に刺激しないでおこうと、それ以上、網の話はしなかった。
家の玄関では、出迎えた母さんに友達の紹介をしなくてはいけない。
名前を教え、自分たちは二階に上がろうとすると、あとでジュースを取りにキッチンへ来るように言われた。
オレは、ビニール袋に入れたペットボトル四本を運ぶ役割で、五人分のグラスは母さんが受け持ってくれる。
袋を両手で持ち上げ、母さんに顔を向けると、また例の嫌な笑みが復活していた。
「見直したわ。
「何を見直したのか知らないけど、かんべんして」
母さんが二人を気に入ったのは、喜んどくべきなんだろう。
その十分後くらいに、蓮と山田が連れ立って現れる。
こちらの二人は母さんも知った顔なので、挨拶も「久しぶりね!」だ。
二階に案内し、部屋に入った途端、山田は一歩後ずさりし、蓮は説明してくれとオレの顔を見た。
そのまま話そうとするオレと蓮を、山田が部屋の外に引っ張り出して戸を閉め、耳元に口を寄せて囁く。
「剣沢じゃねえか。いつの間に、家に呼ぶ仲になったんだよ」
「ケンも羊を知ってるらしい。虫捕り網にはコメントしない方がいいぞ。羊対策らしいけど」
「あれ、アイツが持ってきたのか。似合わねー」
二人とも予想外の人物に驚いただけで、ケンを嫌ってはいない。嫌いになるほど、喋ったこともないはずだ。
落ち着いた山田と蓮は、再度部屋に入るところからやり直した。
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