08. わらう羊

 羊がわらう・・・につれ、部屋の赤さは濃度を増す。


 夕焼けのオレンジが、チューリップの花びらの真っ赤へ。

 畳は朱色に、青い鉛筆削りはどす黒く。

 元から赤かったカーテンは、不透明のペンキをぶちまけた濃さに変わった。


 消防車にしろ、パトカーの警告灯にしろ、赤は危険の印と決まっている。

 部屋を塗り替えた色は、バラの花を思わせる特濃とくのうべに

 違う、花なんて優しい色じゃない――血の色だ。


 小学三年生の頃、工作で段ボールカッターを使っていた蓮が、誤って左手の親指を切った。

 傷はかなり深く、ぼたぼたと段ボールに落ちた血痕けっこんを今も覚えている。


 自分も生傷をこさえるのはいつものことで、服を汚して帰るたびに、母さんは溜め息をついていた。

 体育で膝を擦りむいたり、顔面からマットに激突して鼻血を出したり。

 美術の時間には彫刻刀で右の中指をえぐり、血で盛大にスモッグを汚してしまった。


 ラルサの不吉な二つの眼は、そんな血の赤さをたたえたものだ。

 衝撃が頭の後ろから襲ってくる。

 見えない何かにゴツンとたたかれ、思わず前のめりに椅子から転げ落ちた。


 息が苦しく、必死で空気を吸い込もうとするものの、肺にまで入ってこない。

 ひゅーひゅー変な音だけが、自分ののどから絞り出された。


「ギュルギュルギュルッ!」


 やめて――その妙な笑いも、赤い光も、全部やめてくれ!

 心の叫びが音になることはなく、さらに脳を中から・・・殴られる。


 ドン、ドン。


 頭が、頭蓋骨ずがいこつが、太鼓となった。低く、骨を震わせる打撃音。


 ドン、ドン、ドン。


「……やめ……て」

「ギュルッ!」


 かろうじて出た意味のある言葉も、ギュルギュルにかき消されてしまう。

 本当は一瞬の出来事だったのかもしれないけど、一時間近く続いたようにも感じられた。

 いつの間にか、部屋の色が元通りになったのに気づいたのは、ラルサが話し掛けてきた時だ。

 床にはいつくばり、ぜいぜいあえぐオレに、羊はいつもの軽い口調で告げる。


「そろそろ帰るよ。明日もよろしくね。味はともかく、量はよかったかな」

「待って……」

「じゃあ、またねー」


 眼の端に、鏡へ吸い込まれる羊が見えた。

 聞きたいことは山ほどあったのに、ラルサはもういない。

 攻略本を書くと、またこんな目に会うのか?


 ――多分、そうだろう。


 これが罰なのか?


 ――わからない。


 胸を押し潰される苦しさも、頭をぶっ叩かれる痛さも、罰に相応ふさわしいけども。

 体中から噴き出した脂汗あぶらあせが冷え、よろよろと上半身を起こしたのは、だいぶ経ったあとだった。


 最初に見たのは時刻、アナログの目覚まし時計が、ベッドの横で八時二十一分を指している。

 予想した以上に羊のいた時間が短かったため、時計が故障したのかと疑ってしまったが、秒針は正常に動いているようだ。


 ふらつく頭を手で押さえながら、なんとか立って椅子に座り直した。

 この仕打ちは単なる罰じゃないのでは、とも考えてみる。“攻略本なんて、二度と書くな”と言ってたっけ。

 書けないように、何かされたとか?


 試しに鉛筆を握り、机に散らかしたプリントの裏に走り書いた。


“山田はいつもニヤニヤしてる”


 指の動きには問題が無い。そりゃそうだ、字が書けなくなったら、ラルサへの餌が全く用意できなくなる。

 じゃあ、攻略本の続きも一応書けるのか。

 次の主人公の目的地は、えーっと、山だったような森だったような――。


 鉛筆を持ったまま、右手が固まって動かない。正確に言うと、動かしたくても、言葉が出てこなかった。

 ウサギ、山、魔法、そんな単語なら並べられる。

 だけど、例えばゲームに登場する魔物らしい名称となると、頭の中が真っ白になる。


 主人公は魔法が使える。火の魔法が得意だ。

 村では火の粉が散るくらいだった魔法も、徐々に強く鍛えられていく。最後には、森を焼き尽くすような巨大火炎魔法、その名も――。


 上手い魔法名が思いつかない。

 かすみがかかる頭にイライラしつつ、本棚へって行き『ドラゴンソード3』の攻略本を引き出す。

 適当にページを開くと、治まっていた頭痛がぶり返しそうになった。


 HPって、どういう意味だった?

 累積ダメージ? スキルコンボって何だ。


 母さんに叱られながらやり込んだゲームの攻略本は、繰り返し読んだせいで背表紙は割れ、ページの隅もボロボロだ。

 それなのに、書いてある中身は呪文の羅列にしか見えなかった。

 “羊”の字が本文中にやたらと目立ち、余計に混乱する。


 ストーリーの流れなら少しは覚えており、魔物のイラストにも馴染みがあった。

 見覚えが無いのは、細かな名称や、ゲームのルール。専門用語らしき部分は、からきし理解できそうにない。


 改めて表紙の絵を凝視ぎょうしする。

 大きく描かれた最強の剣“ドラゴンソード”は、日に焼けて、淡くかすれてしまった。

 だけど、それ以上に違和感が強い。

 この剣を初めて見たような、そんな不確かな感覚がく。


 表紙からまた本文へ。

 最後の索引までページを繰って、一つの結論に到達した。


 ゲームの思い出を、消されたんだ。

 ラルサは攻略本を書けないようにしようと、オレの記憶を消去しやがった。


 創作ノートに振り返り、昨夜から書いていたページを開ける。

 文字は綺麗さっぱり消えたものの、荒っぽく引いた枠線や、その中に書き込まれた数字は残ったままだ。

 何行にもわたる数字の群れは、自分が記した筆跡に違いないのだろうが、その意味はもう覚えていない。

 もう一度書けと言われても、これでは再現すら不可能だった。


 あんなに好きだったゲームを、寝る間も惜しんで遊んだ『ドラゴンソード』を、こうも綺麗に忘れさせられるものなのか。 

 呆然とノートを見つめていると、遠くで電話の呼び出し音が鳴り、次いで母さんの声が一階から届く。


「修一、電話よ!」

「あ……うん」


 こんな時間にかけてくるのは、蓮くらいだろう。

 遊びの誘いかと予想して、階段を下りると、母さんが最強に気味の悪い笑顔で待っていた。


「修一もスミに置けないわねえ。女の子よ」

「えっ?」


 オレが動揺したせいで、母さんのニヤニヤに拍車がかかる。

 誤解を正すのはあとだ。

 コードレスの受話器を引ったくると、急いで自分の部屋に駆け込んでドアを後ろ手で閉める。


「もしもし?」

『手島くん? 明日のことを決めようと思って』

「うわっ、波崎かよ……」


 いくらなんでも「うわっ」はないだろうと憤慨する彼女をなだめて、話の先を促した。

 生まれて初めて電話をしてきた女子が波崎だというのは、縁起が悪い気もする。

 そんなことを言うと烈火の如く怒り出すだろうから、もちろん口にはしない。


『今夜もミューズは来た?』

「来たよ。オレの原稿を食ったくせに、文句つけて暴れやがった」

『ええっ、暴れるの!? ミューズが?』

「記憶を消されたんだ。まだ少し頭がふらつく」


 先ほど経験した一連の出来事を、かい摘まんで説明した。

 書くとアウトなジャンルがあるのは、波崎も知っていたようだ。数式や地図、統計表なんかは、ミューズの食事にならないと言う。


「攻略本は、表やグラフと同じ扱いか。しかし、なんで波崎が知ってるんだ。それも本で読んだの?」

『うん。ミューズは怒らせない方がいいよ。長編の物語が好みだと思う』

「みたいだな。あの赤いプレッシャーは、ちょっと洒落になんないや」

『一緒に対策を考えよ?』


 波崎は、図書館で作戦を練ることを提案した。

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