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学生たちはもう春休みに入っている時期だ。尤も、春先といってもまだ冬の寒さが図太く居座っており、高速バスの中にも春と冬の装いがほとんど五分五分で交じり合っていた。乗客はおよそ二十人。おそらく定員の半分にも満たない。スマートフォンを鞄にしまったところで、低い女の声が聞こえた。
「決めた」
まるであくびのように自然で気負いのない声。次いで、バスの前方で野球帽をかぶったシルエットがすくっと立ち上がった。
後ろで束ねたが長い髪、くびれのある体形から女性だと分かる。女はそれから運転席の方に歩いていった。突然立ち上がった女にバス中の視線が集まる。
ユリもまた、一番後ろの座席から女の様子を見ていた。女の迷いない足取りは、「決めた」という言葉を裏打ちしているように思えた。女が運転席のすぐ横に立ち、ハンドバッグから取り出した拳銃を運転手に突きつけるまで、ユリはその背中をぼーっと追い続けていた。
「はーい、誰も動かないでね。動いたら撃つ。この銃は本物だからよろしく。このバスは木星委員会が占拠させてもらったわ」
女がそう言い、運転手に銃を突きつけたまま乗客たちに向き直った瞬間、ユリははっと我に返った。女の顔は、目深にかぶったニューヨークヤンキースのキャップに隠れてよく見えない。しかし、ユリにはその正体がはっきりと分かってしまった。
まさか、そんな。
頭が真っ白になった。周囲のどよめきもまるで耳に入らない。嘘であってほしい。そう思いながら、女の声に耳を澄ませる。
「じゃあ、運転手さん。とりあえずこのまま予定のコースを走って頂戴。安全運転でよろしくね」
「は?」
初老の運転手が素っ頓狂な声を漏らした。
「難しいことは言ってないでしょ。あ、こっそり周りの車に知らせようとしちゃだめよ。まあ、それはそれでいいけど」
そのときだった。女の注意が運転手に向いているのをチャンスと見たのだろう。最前列の列に座っていた屈強そうな男が運転席に向かって飛び出して行った。
男の動きは敏捷だった。女が男に気づいて乗客席の方に向き直ったときにはもう女の手前まで距離を詰めていた。ユリははっと息を呑む。男の背中が女の姿を覆う。しかし、それも一瞬のことだった。男は、次の瞬間には「ぐあ」と間の抜けた声を発してその場に崩れ落ちていた。
女の姿が再びあらわになる。ユリの視線は自然と女が右手に握った銃に吸い寄せられた。
マカロフだ。
煙は出ていない。銃声を聞き逃したなんてこともないだろう。銃は使われなかった。じゃあ、なぜ。乗客の全員が同じことを思ったはずだ。なぜ、男は倒れているのだろう。
「あんた、本当に委員会の一員なのか」
運転手がうめくように漏らした。「委員会」というのは、木星委員会の俗称だ。目の前で突然倒れた男。木星委員会の一員と名乗る女。魔法を使ったのだと考えるのが最も自然だ。女は委員会に属する魔法使い。その共通認識が乗客の間で形成されつつあるのだろう。
「そう言わなかった?」女は笑うように言い、それから乗客に向かって告げた。「いい? 不審な動きをしたらそこに倒れてる男と同じ目にあわせるから。眠り姫になりたくなかったらそのまま動かないで頂戴」それから車内を見渡す。「って、ストップストップ。ちょっと、そこ。言ってるそばから何してるの?」
女の銃がユリの方を向いた。心臓がどきりと跳ね上がってそのまま口から飛び出すんじゃないかと思った。銃口が自分ではなく隣のおばあさんに狙いをつけたものだと気づいても、その激しい鼓動は収まらなかった。
「おばあちゃん、いま鞄から取り出そうとしたのは何?」
「ポ……」
おばあさんの声は震えていた。
「ポだけじゃ分からないわよ。ポリグラフ? ポルノ? ポロシャツ? ポン・デ・リング?」
「ポ、ポッキーを」
おばあさんが鞄から手を引き抜くと、自分が宣言したとおりのものを女に向かって示した。
「こんな状況でよくポッキーなんて食べられるわね」女は呆れた口調で言った。「いい? 今回は多めに見るけど、次はもう余計なことしないでよ。おばあちゃんだってその年まで生きて、最後の最後に頭のおかしいテロリストに撃たれてご臨終ってんじゃ死んでも死にきれないでしょ」
女とおばあさんのやり取りが終わった時点でユリは確信していた。
ああ、なんてことだろう。
自分はこのバスジャック犯の声を知っている。
彼女が誰か知っている。
おそらく、他の乗客は誰一人として気づいていない。自分だけが知っている。
自分だけ――
その責任の重さに胸が押しつぶされそうになる。
大丈夫。
ユリは自分に言い聞かせた。自分には何の責任もない。だってそうでしょ? 正体が分かったところで状況が好転するわけでもない。たとえば女にあんたの正体を知っていると言ったところで素直に逃げてくれるだろうか? 自分はそうは思わない。
女はすでに銃を抜いている。この距離ではその真贋は分からないけど、もしも本物ならこの時点で銃刀法違反だ。そうでなくとも運転手や乗客を脅迫して車内に閉じ込めている時点でに監禁罪にあたるだろう。さらに言えば、これから先、第三者に何らかの要求を突きつければ人質強要罪だ。
誰かが怪我したわけでもなく、何か要求がなされたわけではなくても、犯罪はすでに始まってて、女はすでに引き返すことの出来ない一線を越えているということだ。いまさら冗談でしたではすまず、警察が駆けつければ即お縄。
そんな人間の前にあんたの正体を知っていると告げればどうなるか。あんたがこのまま計画を続行するようなら、解放後警察に全てを話す。そう仄めかしたらどうなるか。
女がよっぽどのお人よしなら、自分が警察に話さないと信じて計画を中止するかもしれない。
女がアドリブに弱ければ、それだけでパニックに陥るかもしれない。
女が冷徹だったら、今度こそユリに照準を合わせて引き金を絞るかもしれない。
自分の命――いや、ひいては他の人質の命がかかった状況で三分の一の賭けにベットするのはあまり賢明とは言えない。自分にできるのはおとなしくしていること。
女が病的なサディストでもない限り無意味に人質を傷つけはしないだろう。現金と逃走手段さえ確保できれば自分たちのような重荷は喜んで解放するはずだ。
自分の出番が回ってくるのはその後になる。警察に女の名前を垂れ込めば、一件落着。女がいかに賢く立ち回ろうと、名前が割れれば犯罪者としては致命的だ。優秀とされる日本警察の捜査力を持ってすればその逮捕に時間はかからないだろう。
そう、それでいい。女も捕まるし、何よりこの場にいる全員が無傷で解放される。何もしないのが一番。自分の判断が間違っているとは思わない。なのに、どうしてだろう。胸がちくりと痛む。それでいいの? と問いかける声がやまない。
内なる声から逃げるようにして、ユリは隣のおばあちゃんに目をやった。手が震えている。ポッキーの袋を開けようとして何度も失敗していた。
「開けましょうか」
ユリは言った。おばあちゃんは「お願いします」と袋を差し出した。袋を一発で開けることに成功したとき、ユリは意味もなく安堵した。
「ありがとうございます」そう言って、おばあちゃんはポッキーを口に含んだ。かじるというよりはチョコを舐めて剥がすようだ。「どうぞ」と袋を差し出してくるので、ユリも一本だけもらいこう言った。
「大丈夫ですよ」
そう、大丈夫だ。
ただ、解放された後、警察に喋らなければならないことを思うと気が重かった。薄暗い取調室で、強面の刑事に睨まれながら自分がこう応答する光景が目に浮かぶ。
――ええ、実は最近まで魔法少女をしていたのですが……
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