ガラスの星を集める

@kinoko03

二人だけの王国

 パンと言えば黒くて硬くて水がないと噛み切れないものだ。

 白くてふんわりとしたパンは小麦で作るそうだが、ラヴカはライ麦しか見たことがなかった。それは、ラヴカに限らず貧民窟に住む者も同じだろう。


「いつか、小麦のパンをいっぱい買ってやるからな」


 ラヴカは事あるごとに妹へそう言った。


「うふふ、楽しみにしてる。大好きよお兄ちゃん」

「俺もジュリのことが好きだよ」


 帝国南部の都市レリアにある貧民窟、その一画にある今にも崩れそうな集合住宅の一室。それが彼と妹にとっての「王国」だった。

 王様はラブカで、お姫様がジュリ。

 臣下も臣民もいないけれど、そんな事は二人にとって些細な問題だ。

 大事なのは二人が幸せに暮らしているという事だけ。

 ラヴカは妹にきちんとした食事をさせられないのを気にしていたが、ジュリには黒パンもご馳走だった。外の世界を知らないお姫様は、他国の金銀財宝よりも、ただ王様が微笑むだけで満足だった。


 ジュリはそんな生活を気に入っていた。

 一冊の古びた絵本と、兄と、そしてたまに食べるパンがあれば満ち足りていた。

 不満があるとすれば、兄が働きに出かけている間は孤独に過ごさなければならないという事くらいだ。

――もっと一緒にいて欲しい。

 その願いが如何に傲慢かを彼女はうっすらと分かっていた。

 パンを食べられるのは、兄が働いているからだ。

 パンが無ければお腹が空いてしまう。

 しかし、それでも彼女は願った。お腹がいくら空いてもいいから、お兄ちゃんと一緒にいさせてください。そんなささやか過ぎる願いを。


 ラヴカはやせ細っていく妹を見るたびに自分の非力さを恥じた。

 子供が働ける仕事などたかが知れていて、どれだけ働いても妹を満足に食べさせるのは困難だった。大人でさえ年々まともな食事にありつくのが難しくなっているのに、ラヴカに出来ることは少なかった。

 それでも、しばらくは飢えて死ぬというまでは行かなかった。

 雲行きが怪しくなったのは山が火を噴いた年からだ。

 空を覆った灰が悪さをしたのだろうか、それから毎年のように不作が続き、彼が黒パンを手に入れられる頻度は二日に一度まで落ちた。気丈に振る舞う妹の右手が骨と皮だけになっているのを見て、いよいよ限界だと覚悟した。


「ジュリ、よく聞くんだ。次の仕事は泊りがけで、ちょっと時間がかかりそうだから、夕飯は一人で食べてくれ。パンはいつものとこにあるから」

「……そう、分かったわ。でも出来るだけ早く帰ってきてね」

「ああ」

「あんまり危ない事はしちゃだめよ」

「大丈夫さ」


 頬のこけた表情で目一杯の笑顔を見せる妹に、ラヴカの心は傷んだ。

 あの「仕事」をなんとしても成功させて、早く温かい食事を食べさせたい。そう決意をして、彼は王国を旅立った。


 貧民窟でありつける仕事と言えば、汚くてきついものか、薄汚れたものかの二択である。

 ラヴカは前者を好んでやっていたが、ジュリがいなければ盗みに手を出していたに違いない。警吏は確かに恐ろしいが、この汚職にまみれた世の中で、罪を犯したから罰せられるというものでもない。むしろ、真面目に生きている奴ほど馬鹿を見る。

 そんなわけで、まっとうな仕事をしている物好きはある程度面子が限らていた。

 彼にその「仕事」を持ち掛けたのも、そんな物好きの一人だった。


『ひと月でたんまり稼ぐ仕事があってよ。ラヴカはやってみる気はねえか?』


 食料不足ですっかり落ちくぼんだ瞳には、獰猛な獣のような鋭さがあった。ラヴカはすっかり変わってしまった仲間に同情しながら、自らの境遇を省みた。あまり違いはない。

 金だ。

 金さえあれば、昔のように暮らしていける。

 例えそれが犯罪だとしても、金が貰えるなら構わない。

 そんな恐ろしい考えがよぎった。


『少し、考えさせて下さい』

『早めに頼むぜ』


 さあ、返事を伝えに行こうじゃないか。

 妹のためなら何だってする覚悟があるのだと。



 選択は時に致命的な結果を伴う。



「よう、お前なら来ると思ってたよ」

「よろしくお願いします」

「仕事は単純で簡単で誰でも出来る事だ。そんなに肩に力を入れる必要もねえぜ」


 指摘されて初めて緊張している自分に気がついた。

 ふうと息を吐く。

 なんとしても今回の仕事を成功させてジュリの下へ帰る。それがラブカの目標だ。これから頭を突っ込もうとしているが、それでも極力厄介事から距離をとらなければ。


「ここで話すのもアレだな。とりあえずついてこい、詳細を説明する」



◆◆◆



 その日から、ラヴカの新しい「仕事」が始まった。

 毎日決まった時間に小包を受け取り、それを決まった場所へ届けるだけの簡単なものだった。

 一週間ほどその生活を続けていると、妹の様子が心配になってくる。

 あと三日もすれば最後の包みが届くそうだが待ちきれない。


「ああ、早くジュリに会いたい」


 予備のパンはそろそろ尽きる頃である。手に入れた大金で白いパンを買うことだけを望みに、彼はひたすら辛抱した。


 そして最後の日が来た。


――コンコン。


 一つしかないドアがノックされる。

 今日もいつも通り小包を届けに来たようだ。

 手順に従えば向こうが「合言葉」を言うはずと思って少し待つ。


「……」


 様子がおかしい。

 しかし、出ないわけにはいかないだろう。何せ、ラヴカはただ利用されただけの一般人なのだから。少なくとも、警吏が来たらそういう体で話すことになっている。


「どちら様ですか?」

『包みを届けに来た』


 偽物だ。


「そうですか。今開けます」


 少しだけ手が震えていた。


『その必要はないさ』

「え?」


 次の瞬間、ドアが吹き飛んだ。

 巻き込まれたラヴカは部屋の壁に叩きつけられ、全身を襲う衝撃に意識が飛びかけた。朦朧とする視界の中で彼が見たのは、炎のような赤髪と、紅の双眸だった。



◆◆◆



 目覚めると牢獄の中にいた。

 鉄製の檻と冷たい石畳。

 全く温かみのない空間に囲まれて、身体が軋むような気がした。

 檻の向かいには松明が煌々と照っている。


「単刀直入に聞こう」


 そんな声と共に松明が揺れた。ラヴカはそこで初めて松明を持っている人物に意識を向けた。


「首謀者はどこだ?」


 赤髪紅眼の美少女である。

 まだ幼さが残る年齢ではあるが、彼女がドア共々彼の事を吹き飛ばしたのだ。

 返事をしようとするが、恐怖で上手く声が出ない。


「ふん、答えないならそれでいいさ。帝国の警吏は多方面で優秀だからな。せいぜい偉大なる父祖に歯向かった事を後悔するといい」


 そう残して少女が去ると、入れ替わりに緋色の布を首に巻いた男が二人やって来た。帝国の警吏は首に必ず布を巻いている。緋色は皇族に関わる案件を扱う者達だが、ラヴカはそんな事を知り得なかった。

 ガチャリと鍵を開けて男達が檻に入る。

 その手には錆びついた鎖が握られていた。



 拷問だ。

 警吏達は少女の言った通り有能だった。

 彼らはラヴカの首に鎖をくくると、息が完全には止まらない絶妙な力加減で締め始めた。

 皮膚が鉄の間に噛まれて耐え難い痛みをもたらし、さらにそこへ錆が塗り込まれた。奥歯を噛んで耐えようにも息が苦しく力が入らない。気が遠くなる度に水をかけられ、今度は別の拷問が待ち受けている。

 結局、ラヴカが全てを話すまで半日ももたなかった。

 しかし、そもそも彼は黙秘をするつもりはなかった。それが有無を言わさぬ拷問で話す機会を逃しただけ。

 責められ損だ。


 ただし、ラヴカの持つ情報など大したものではなかった。

 彼はただ包みを毎日決まった場所へ届けていただけで、受け取る人物の名前はおろか顔すら知らなかったのである。もちろん包みの中身など一切関知していない。

 それを警吏が納得するかどうかは別なのだが。



「この売国奴め。そんなに帝国が憎いのか」


 無意味な監禁、拷問が続いて数週間。

 久々にやってきた少女は目が合うなりそう言った。

 ラヴカは「なんの話か分からない」と返す。


「このっ……!」


 少女が檻を揺らすのを無感情に眺める。


「知らない事は教えられない。俺が知っているのは、あんたらが反乱組織の首謀者を探していて、それが上手くいっていない事くらいだ。これはあんたが教えてくれた」

「この私を侮辱しようというのか」

「少なくともあんたは無能だ。こんな貧民をいびってるようじゃ、首謀者とやらも見つかるはずない」


 彼はこの赤髪の少女を恐れなかった。今更少女一人の機嫌を損ねたところで、何が変わるとも思わなかったのだ。

 すでに彼の身体はボロボロで、心は擦り切れていた。

 ただ一人残した妹だけが心配だった。


「もういい、無駄口ばかり語る舌は必要ないだろう」


 少女の瞳が紅く揺らぐ。檻を両手で掴むと、まるで粘土のように捻じ曲げた。

 つかつかと近寄り、そして。


「あ、ぐあああああぁ!」


 ラヴカの舌を引き抜いた。


「いい声で鳴くじゃないか」


 鉄の味が広がった。

 その手を血に染めた少女は笑う。自らを侮辱した男に報復をして、上手くいかない首謀者探しを忘れて、一時の満足感に浸るのだ。

 歪な光景だろう。警吏達も眉をひそめている。

 それでも、少女は美しかった。



◆◆◆



「釈放だ」

「……」

「災難だったな。伝令役に貧民が使い捨てられるのはよくある話なんだが、姫さんに見つかったのが運の尽きだ。あの人はそういう話をいまいち理解できないからな」

「おい、余計な話をするな」

「こんくらい大目に見ろよ? お前だって息子がいるんだろ」


 檻の前で看守と警吏がもめている。

 二人もあの少女の振る舞いを気に入ってないらしい。

 しかし、失った時間も舌も帰っては来ないのだ。鞭を打ってきた者が今更優しい言葉をかけてきても白々しいだけである。


 ラヴカが立ち上がると、二人も口論をやめた。

 彼の異様な雰囲気が無駄口を許さなかった。


「まあ、なんだ。恨むなよ」


 なぜ恨まれないと思うのか。その言葉は形を成さなかった。

 しかし、いざ自由の身になると思うと、色々とやりたい事が出てくる。

 まずは帰ろう。妹にパンを持って帰るのだ。そして、遅くなってごめんと言わないと。言葉にできなくとも、せめて態度で示そうじゃないか。お腹を空かせて待っているはずのジュリ。可哀想なジュリ……



◆◆◆



 ラヴカが二人だけの王国へと舞い戻った時、王女は眠りについていた。

 決して目覚めぬ魔法の眠り。

 絵本では王子がキスをすればハッピーエンドが待っている。だから、彼も王女に口づけをした。


『ただいま、ジュリ』

『お帰りなさい、お兄ちゃん』

『遅くなってごめん』

『いいの、私寂しくなかったわ。だって、お兄ちゃんは絶対に戻ってくるってわかってたから』

『ありがとう。さあ、食事にしよう。パンをたくさん買ってきたんだ』


 ラブカはジュリの口もとにちぎったパンを寄せる。

 彼女はそれを食べようとはしなかった。

 当たり前だ。

 死人は食事を摂らない。


 王国が音をたてて崩れた。

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