仔猫遊戯 中編

 その方を初めて見た瞬間の衝撃をなんと表現すればいいのでしょうね。

 頭を雷で打ち抜かれ、身体は打ち寄せる荒波で千々に砕かれ、心臓は猛火で消えるがごとく。


 愛情とは知り合って徐々に積み上げられていくものですか?

 わたくしの場合、それは突如やってきたのです。火薬が暴発するようにあっという間に燃え広がり、今でもわたくしを内側から苛むのです。


 一目惚れでしたのよ。

 あんなに美しい男の子、わたくしは初めて見たんですもの。

 黒い髪、黒い瞳、浅黒い肌、それでいてなんとも整ったお顔立ちに上品な仕草。シンプルでありながら、手が抜かれていないお洋服、計算された身だしなみ。それにまだほんのお子様のくせに、ほんのりと花の香りすら漂わせて。


 かっこよかったんですよ、イライアスは。昔から見た目だけはそれこそ誰にも負けなかったのではないでしょうか。


 ああんもうっ、思い出すとよだれが止まりません! 我が君は昔から、あどけなくあでやかで、悩ましげで退廃的な美貌の持ち主でございました! 女性だったらわたくしといい勝負の傾国だったのではないでしょうか? どうしてどうしてあの方は、かくもわたくし好みの完璧な容貌をしてらっしゃるのでしょう、天の采配としか思えません!


 崇高で神聖な我が君。そのいと高き座から引きずり下ろして、這いつくばらせて、頭を足蹴にしてあげましょう。今はまだ。でももう少し後になったら、必ず。



 もっともわたくし、あばたもえくぼと言ったかしら。我が君に対しては盛大にねじ曲がった主観を持っている自覚がございますので、多少表現を誇張している可能性はあります。見目よい方であることは疑いないと思いますけど……ふふふ。なにぶん、狂った盲人でありますゆえ、皆様の目にはひょっとしたら凡庸な殿方として映っていたのかもしれませんね。



 最初はとにかく我が目が信じられませんでした。わたくしがぼうっとなっている間に、我が君もわたくしを見初めてくださった。つまらない男とつまらない会話、でも我が君の声だからたとえどんなにどうでもいいことをっていてもよかった。麗しくも妖艶な言葉が聞こえるだけでわたくしの全身の毛が逆立ち、魂が震えた。声変わり前の、高い可愛い少年の声。


 やっぱり少年だった頃の我が君に襲いかからなかったことは我が生涯の悔い、一生の失態ですね。出会ってすぐに動いておけばよかった。我が君があんなに薄情な人だと最初からわかっていたのなら、こちらだって容赦なんかしなかった、速やかに弱みを握って身体から落としたのに。

 でも同じことだったのかしら? あの方は自分以外どうでもいいから、すぐにほいっと捨ててしまう。わたくしが弱い女でなければ、そもそも愛情を注いでくれなかった。だとすれば、あの無意味な演技もまた必要なことだったのかもしれない。



 何はともあれ、我が君はひとまずわたくしを気に入ってくださった。これほど自分の美貌があってよかったと思ったことはありません。ただの美人以下の器量、曰く付きというオプションがなかったのだったら、あの方はわたくしにそれほどご興味を抱かれなかったでしょう。



 我が君についついひいき目しがちなわたくしでしたが、あの方の宮殿における立場はすぐに理解しましたよ。危うい立場の不憫な王子様。だって金髪碧眼の王家にあって明らかに異端でしたものね。一応王妃様はもう少し濃い色をお持ちでしたけど。

 わたくし? 別にどっちでもよかったから気にしてないわ。我が君が本当の王族なのか、別の男の種なのか――そんなの些細な問題でしょう? どうして見えもしない血にそんなにこだわりたがるのです。誰が親であろうがあの方はあの方、たとえ豚の腹から生まれてきたのだとしてもわたくしの恋情は止められないし、あの人が魅力的であることに何のケチもつけない。


 とはいえ、わたくしの勘ではむしろ我が君はれっきとした息子で、他の方が怪しかったぐらいですけど。だって第二王子の溺愛のされ方は目に余るほど異常だったではありませんか。まるで手から離すのが怖いとでも言うように。


 そうそう、流行病で夭折した第一王子、でしたっけ? あんなの少し記録を読めばすぐに想像できます。外出先での急速な体調不良だなんて、毒殺でしかないでしょう。推測するに目立ち過ぎたんでしょうね。第二は劣等感を刺激しないから跡取りとして見逃されたんじゃないでしょうか。妾に産ませた他の王子は言わずもがな――。



 別に宮廷事情なんて心底どうでもいいんですけどね。我が君が大層気になされているようでしたからついちょっと調べてみただけですよ。真実の追究なんてどうでもいいんです。こちらに都合のいい情報と手札がそろっていればいい。



 わたくしはね。あの方を飾るアクセサリーでした。でも不思議。他の主と違って、我が君ならそれでもいいと思っていた。だってわたくし初めての恋ですっかり骨抜きにされてしまったんですもの。

 いいの。キティは奴隷だから所有するご主人様が好きにすればいい。


 触ってくれた。

 名前をくれた。

 首輪をくれた。

 一緒に連れ帰ってくれた。


 キティ、キティ、ぼくの仔猫。

 キティ、キティ、あなただけの仔猫。



 見た目は王子様だったけど、中身は矮小な小悪魔にも満たなかった。

 鏡にいつも自分の理想を写しては、重なりきらない自分自身に苛立った。

 他人を見下している割に、その他人の目に映る自分の姿にびくついていた。

 強い相手に媚びきることもできず、けれど弱い相手はいくらでも踏みにじった。

 どうしようもなく醜悪な性分でしょ? そして自分の醜さにすら深く傷ついて、わたくしに全部ぶつけてくるのです。わたくしは言葉を話さない無抵抗な肉人形でしたから。


 馬鹿ですよね。本当の善人になれるのは、極悪人かよほどの愚者かのどちらかです。我が君はとても普通の人間らしい弱いお方だった。なのに弱くないんだと一生懸命拳を振り立てて、あふれる涙に目をつむったふりをする。

 仕方ありません。あの方は自信を持ちたかったけど、一番あの方を褒め称えて差し上げるべきご家族やら周囲の人間やらが皆裏切り者だったのですから。


 孤独で可哀想な半端もの。でもね、そんなあの人を知って、ますます好きになったし、誰もあの人をちゃんと扱わなかったからこそ、わたくしだけのものだった。


 あの人は些細なことにもすぐ感情を荒立てて、我慢はしているけどよく観察していればありありと表情が変わるのが見て取れた。

 いいことがあると上機嫌になって、悪いことがあるとすぐ不機嫌になって、またいいことがあるとさっきまでのことが嘘のように笑って、でも思い出すと忘れてないぞアピールでしょうか? 緩んだ口元のまま眉だけ寄せるの。


 わたくしにはとてもできないことでしたから、少しうらやましく思っていた部分もあったのかもしれません。あの方が喜ぶと我がことのように嬉しく、悲しめば我がことのように嘆き、怒れば共に牙を剥き、楽しんでいるのなら笑いました。

 それまで他人に嫉妬したことなどありませんでした。自分を可哀想だと思ったこともありませんでした。何にも興味が持てません。でも我が君が思うように振る舞い、生きていてくださると、視界に彩りがつき、世界が広がる心持ちでした。


 あなたは何を見ているの? 何を聞いているの? 何を思っているの?

 いない間は想いをはせて、いらっしゃったらじっと見て。


 笑っているだけでよかったんです。適当に笑って馬鹿の振りをしていれば、それで生きていけました。何の問題もありませんでした。

 あの方を見ていると、心がどうしようもなくざわめくのです。泣くってこういうこと。怒るってこういうこと。あの人が知りたくて、真似をして、一生懸命来る日も来る日も穴が開くほど見続けて、わずかな変化に狂喜乱舞した。


 でもわたくし、お人形に徹したし、都合のいいキティであり続けた。わたくしの中身は本当は変化しつつあったけれど、押し殺し続けた。


 愛していたんだから、当然のことでしょう? このわたくし自身のことだってどうでもいいんです。あの方が少しでも潤うなら、何度殺されたってかまわなかったぐらい。



 最初はなるべく普通を心がけていたあの人ですけど、その内我慢できなくなって、わたくしをあらゆる鬱憤のはけ口にするようになりました。臆病ですからね、見える場所にはあまり残さないんです。おなかを蹴っ飛ばされたこともありましたし、寒い日に火箸を押し当てられたこともありました。髪の毛を急に切られたことだってあったわ。その内手で打つことは自分も痛くなると学習して鞭での折檻が主流になりましたけど、あの方が傷つかずに済むからむしろほっとしました。ちゃんと喧嘩したことがないから叩き方にもコツがあるってわからないんですのよね。正直素人技で、とてもへたっぴでしたよ。


 でも苦しいことなんてちっとも気にならなかった。だってそれがわたくしの役割で、存在意義で、あの方をあますことなく受け止めることこそがわたくしの幸福だったのだから。あの方がわたくしを必要としている。だとしたらそれだけが重要で、他のことなんてどうでもいいでしょう?


 わたくし達、どうしようもなく子どもで、孤独で不満で満たされきらない穴あきの鍋で、少しそういう所が似ていました。




 本当に幸せだった。奇跡のような時間だった。世界にわたくしとあの方だけ。あんな顔をするあの方を知っているのはわたくしだけ。

 キティ、キティ。呼ばれたから行くのです。あなたが言うならどんな芸もします。見世物にだっていくらでもなります。




 だからこっちを向いて。離さないで。他に余計なことなんか望まないから。




 それを、ねえ、なぜあんなにもあっさりと切ったのですか? どうしてあそこまで何の前触れもなく急に捨てたのですか? それもようやく成就したと思った直後に、愛し合ったその翌日に!


 わたくしが処女だったからいけなかったのですか? 好きな人に初めてを捧げたいと思い、どれほど身の他の場所が汚れようとも唇と共に守り通してきた。そのことすらも間違いだったのですか? 破瓜で痛がったのが駄目だったのですか? あれだけ純情な仔猫を望んでいて、寝床では進んで腰を振る娼婦をお望みだったのですか? やれというならいくらでもできましたよ、それでもあなたがおぼこ娘が好きだろうと思ったからそのようにしていただけなのに、リサーチ不足だったのですか?


 ねえ、お願い、どこが駄目だったの、教えて。せめて理由を言って。


 あのとき、すべてを手に入れたと思った、このまま死んでもいいとすら思ったのに。

 あの人とわたくしは孤独で似ていると思ったけど、決定的に違ったのですね。あの人はいつだって周りを見回していて、わたくしはいつだってあの人だけを見ていた。




 ああ天上の神々よ。恋とは生きる苦痛です。これだけ深くはまり込んでも全く底が見えない。焦がれて焦がれてきりがないの。


 特別な人の特別になりたい。それが無理なら、せめて共に。ずっと側にいたい。ただそれだけのささやかな願いすら、過分であると言うのですか? わたくしに力がないから、踏みにじられるだけだと言うのですか? 力なき仔猫には何もできませんでした。あの方がそう望んだのなら――たとえどれほどわたくしがあの方に必要だと確信していても、あの方が拒絶するのなら、甘んじようかとも思った。




 でも、できませんよ。できるわけがない。諦められるぐらいならね。最初から惚れたりなんかしないんです。




 化けの皮、剥がしてやることにしました。

 もう我慢なんてしないことに決めました。

 だってわたくし、そのとき初めて知ったんですよ。


 誰かを心の底から憎む感情というものを。


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