山本弘のリハビリ日記

山本弘

第1話 美味いカレーと服部半蔵

 退院して3ヶ月、かなり体調は良くなってきたと思う。

 もっとも健康体になったわけではない。足はまだ不自由なままで、よたよた歩くばかり。走ることすらできない。一人で歩けるものの、外出の際には妻のサポートがいる。

 外を歩く時には神経を使う。普通の人の数分の一の歩幅でしか歩けない。おまけに足元のちょっとしたものにも注意しなければならない。アスファルトのほんのわずかの傾斜。小さなコンクリートの破片。普通なら気にも止めないような微妙な落差――そのすべてが、今の僕には注意しなくてはならない重大な障害物なのだ。

 車にも注意だ。特に怖いのはハイブリッド車だ。普通のガソリンエンジンの車と違って、音が小さい。気がつくとびっくりするほど近くまで来ていることがある。科学の進歩も善し悪しだな。

 そう、今の僕は、平凡なハイブリッド車にまでびくびくしている。もちろん、自転車やバイクにも。健康な時にはまったく気にしなかったのに。


 月に一度、近くの大手の「○○病院」に健診に行かなくてはならない。いつも何時間も待たされるので、僕も妻もぐったりとなってしまう。妻は「××医院にした方がいいんじゃない?」と言うのだが、××医院も長いこと待たされるのは同じだからなあ。

 終了後、妻が近くにあるローソンで少し早い昼飯を食べようと言い出す。僕はもっといいところがあるという。この近所に、僕が健康な時にひいきにしていた店があるのだ。コーヒーとカレーが美味い店だ。通りから少し奥まったところにあり、やや目立たない。

 およそ10ヶ月ぶりに入る店だ。店の作りも、メニューも、変わっていない。カレーとホットコーヒーを注文する。

 ひさしぶりに食べるこの店のカレーは、辛いけども美味かった。妻も気に入ってくれた。これから毎月、○○病院に健診に来たついでに食べに来てもいいと言う。

 僕はとてもいい気分だった。なつかしい世界に帰還した喜びを嚙みしめていた。

 だが、その喜びは長く続かないかった。

 店の主人が別のお客さんと話をはじめたのだ。とても楽しそうに。

 松尾芭蕉と服部半蔵の話を

 そう、関暁夫が『やりすぎ都市伝説』の中でった「都市伝説」と称するものである。本当はこんなものを「都市伝説」などと呼びたくないのだが。


【以下は『トンデモ本の世界X』(楽工社)からの引用である。】

 その典型的な例が『関暁夫の都市伝説』シリーズ(竹書房)である。二〇〇六年に最初の本『ハローバイバイ! 関暁夫の都市伝説』が出て以来、これまでに三冊出ている。一~二巻だけで累計一三〇万部を突破しているというから、大変な影響力である。

 どの「都市伝説」も、最後に「信じるか信じないかはあなた次第です」という決まり文句で締めくくられている。否定的な情報を決して載せず、どんなデタラメな話でも、「嘘だ」とか「信じてはいけません」とは書かないのである。

 どんな「都市伝説」が紹介されているのか。一例として「松尾芭蕉の秘密」という話を読んでみよう。松尾芭蕉の正体は忍者、それも服部半蔵だというのだ。

 徳川家康に仕えた服部半蔵は、その功績によって褒美を与えられることになり、「私を自由にしてください」と願い出た。彼は松尾芭蕉という偽名を用いて、日本中を旅し、「かごめかごめ」の歌を広めて回った。かごめ歌には徳川埋蔵金の位置を示す暗号が隠されている……というのである。

 これがどれほどアホらしい話か、生没年を見ればひと目で分かる。服部半蔵と呼ばれた人物は何人かいたが、家康に仕えたことで知られているのは、二代目の服部半蔵正成である。


 徳川家康  一五四三-一六一六

 服部半蔵  一五四二-一五九六

 松尾芭蕉  一六四四-一六九四


 そう、服部半蔵と松尾芭蕉は生きた時代が一世紀も違うのだ。同一人物であるわけがない。

 それに徳川埋蔵金というのは、(もしあるとしたら)徳川幕府の末期に埋められたことになっているはずだ。半蔵や芭蕉の時代に徳川埋蔵金なんてあるわけないがないし、ましてやそれを歌に隠して広めて回るなんて、まったく筋が通らない。

「信じるか信じないかはあなた次第です」

 バカヤロー、こんな話、信じるわけねーよ(笑)。

 ところが、あきれたことに、ネットで検索してみると、この話を信じちゃってる人が何人もいるのである! 「めっちゃ説得力ある」とか「めっちゃ信じてます」とか書いてあって、頭が痛い。

 芭蕉の『奥の細道』が元禄時代に書かれたことを覚えていたら、こんなバカ話にひっかかるはずがないんだが……学校で日本史の時間に居眠りしてたんだろうか?

【引用終わり】


 僕はこうしたことを2011年に書いた。それから7年もたっているのに、いまだ覚えていて、信じ続けている人がいる。

 関暁夫の語る「都市伝説」がいいかげんものであることは、何度もASIOSの本で取り上げた。たとえば『「新」怪奇現象41の真相』(彩図社)ではこう書いた。


【引用開始】

 余談だが、『やりすぎ都市伝説スペシャル2012秋』は、日本マイクロソフト社から抗議を受けている。番組内で関暁夫氏やナレーターが、ビル・ゲイツが人間を不妊化するワクチンを使って世界人口を削減しようと計画している、などとデマを流したからだ。実際にはビル&メリンダ・ゲイツ財団は、2000年から世界の子供たちにポリオや肺炎などのワクチンを接種する事業に協力し、2012年までに550万人の命を救ってきたという。

 世の中には「バラエティ番組にいちいち目くじら立てなくても」などと、関氏やテレビ東京を擁護する人たちもいる。だが、バラエティなら何を言ってもいいわけではない。視聴率稼ぎのために、立派な活動をしている人を中傷するような悪質なデマをテレビで流す行為は、許されるべきではない。

【引用終わり】


 だが何の効果もなかった。関氏は以後も同じようなことを言い続け、『やりすぎ都市伝説』は作られ続けている。

 同様のことは他にもある。『ニセ科学を10倍楽しむ本』は中学生でも読めるように平易に書いたけれど、あれは無駄な努力だったんじゃないかという気がひしひしとしている。あの後、『水伝』や『ゲーム脳』や『買ってはいけない』は確かに下火になったけど、絶対に僕の力じゃなかった。単にブームが去っただけだ。血液型性格判断やホメオパシーやID論は信じられ続けている。EM菌もね。

 多くの人は、中学生程度の初歩の初歩の知識しか持たず、関氏のようなデマにあっさり騙される。

 僕が数年ぶりで服部半蔵のデマを聞いて、感じたのは怒りではなかった。感じたのは深い脱力感――そして悲しみだった。


 食後、家に帰る途中、妻がさっきの店のメニューを話題にした。

「クラブハウスサンドてのが美味しそうやったね」

「うん、あの店はクラブハウスサンドもけっこういける」

「今度行ったら食べよか。なあなあ、何でクラブハウスサンドって言うの?」

「さあ――チコちゃんに聞いてみる?」

 ボーて生きてんじゃねえよ! って言われそうだな。


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