急転直下 その三
「ごめんください」
約束通り、夕方になると東京から弁護士の籠谷が男性を伴って『離れ』にやって来た。
「彼は古くからの友人で私立探偵です、あの直後から現場の調査をさせておりました」
「探偵業をしております
中野と名乗った男性は、東京の住所が印字された名刺を堀江に差し出した。
「家主の堀江です、小野坂でしたら中におります」
堀江は名刺を受け取ってから二人を中に上げてリビングへ案内する。
「お待たせしました小野坂さん」
「まぁ籠谷さん、いかがなさったの?」
「あなたもいらしたんですね、ちょうど良かったです」
彼は
「籠谷さん?」
「小野坂さん、今回のご依頼は“離婚の成立”でお間違いないでしょうか?」
籠谷は小野坂に弁護の内容を確認した。
「宜しくお願いします」
彼はつばさを抱えたまま頭を下げる。私立探偵の中野は小野坂にも名刺を手渡し、小野坂と夢子の間を取り持つ位置に座った。
「では早速ですが」
籠谷は中野にアイコンタクトを取り、急展開について行けていない夢子を放置したまま話を進める。中野はA4サイズの風頭を取り出して膨大な量の写真をテーブルに並べ始めた。
「一体何をなさってるんです?」
「調査報告です」
「は? 何のです?」
「ご覧頂ければ分かりますよ」
中野は何食わぬ顔で小野坂にこれはいつ撮影しましたなどと説明をしている。夢子はテーブルに広げられている写真を見て徐々に表情が変わっていった。
「いかがなさいました?」
籠谷は涼やかな顔つきで夢子に声をかける。
「酷い……」
「あなたがね」
「隠し撮りだなんて違法ですわ」
「公安所の許可が無ければ違法です。しかし彼は探偵、許可を取らなければ探偵を名乗ることはできません」
「そんなの屁理屈よっ!」
夢子は資料となる写真を握り潰したが、中野は知らぬ顔で無事でいる写真を小野坂に見せた。
「屁理屈だろうが何だろうが合法なんですよ。あなたもおやりになったでしょう? 太一とサキさんとの不倫調査」
「それは……」
「その裏であなたは彼を遥かに超える悪事を繰り返してきたにも関わらずね。太一はそれを暴ける調査報告を一切受け取らなかったんです、敢えて敗訴を選んであなたの門出を祝福したんですよ」
籠谷にとっても友人への裏切りは許しがたいものがあった。それでもこれは小宮山の指示でもあったため、仕事と割り切ってしたくもない弁護を引き受けたというのが本音である。
「……」
「まさか小野坂さんの心まで踏みにじるとはね、純愛が聞いて呆れます」
「私が愛しているのは智です」
「これだけのことをしておいてそんな詭弁誰が信じるんですか?」
籠谷は敢えて過激な写真を一枚選んで夢子に見せつける。それは川瀬が二度目の無断欠勤をした早朝、出勤の支度をしているのを色仕掛けで引き留めた際の一枚であった。
「どういう趣味してるのよ? こんなの撮り溜めて」
「あくまで仕事ですよ。よく撮れてるでしょう?」
中野は言われ慣れているのか呑気そうな口調でハハハと笑う。それに逆上した夢子は探偵に手を上げようとしたが、こんな所で暴力行為まで起こされたら迷惑だと堀江が慌てて止めに入った。
「暴力行為は外でお願いします」
「触らないでよ穢らわしい!」
「穢らわしいのはどっちだよ?」
これまで静かに写真を見つめていただけの小野坂のひと言に夢子はショックを受ける。彼はこれまで見せたことの無いくらいの冷たい視線を妻に向け、親権だけはもらうと言った。
「何言ってるの? これから二人で……」
「
夫が見せた本気に夢子は崩れ落ちた。
『今度あの子裏切ったら次は無いからね』
昨年末に実母美乃に言い放たれたひと言が、今になって夢子の心に重くのしかかっていた。その時は逆上したが、これまで最終的に自分を見捨てなかった母の愛情にどこかで甘えていた。
しかし今回は違っていた。小野坂との離婚を引き留めてもらう算用で連絡を取ろうにも全く繋がらない。それは義両親も同じで、まるで自身が見捨てられたような気分に苛まれていた。
こんなことになるのであればもっと夫と向き合っていればよかった、先日の東京出張について行けばよかったと今更ながら後悔する。籠谷と夫との接点は恐らく東京出張の時であろうというのは想像ができた。であれば一緒に赴いていればこの展開は無かった可能性がある……彼女は自身のワガママがことごとく裏目に出ている現状に落胆していた。
何が何でも夫の愛を取り戻す……未だ小野坂への未練を引きずり、離婚という道を何としても阻止したい夢子は両親が駄目ならと、かつてベッドを共にしたブルジョワ族の伝を頼って弁護士探しに着手していた。ところが相手の弁護士が籠谷と分かると尻すぼみで断られたり、小宮山地所との付き合いを優先して誰一人協力しようとしなかった。
それでも何とか国選弁護士を用立てた夢子は、夫を相手取って離婚取り消しの訴訟を起こして再度小野坂と籠谷と対峙する。ところが探偵から預かったとされる証拠資料は更に増えており、体の寂しさを紛らわせるために密会した川瀬とのツーショット写真まで晒される羽目となった。
これには国選弁護士も呆れ返っていた。小野坂の主張は【親権のみ】であるため、アンタの方がリスクが少ないと離婚に応じるよう言い出す始末であった。それでもごねる夢子に対し小野坂の要求を全て飲んで離婚すべきだという主張を崩さず、結果は原告の全面敗訴という形で幕を閉じた。
籠谷の提案で離婚届はその場で作成することになったのだが、ここでも夢子は書き間違いを繰り返して無駄な抵抗を試みる。余計な時間を食わされた裁判官の叱責を受けたというオマケ付きではあったが、書類は小野坂と籠谷が市役所に提出してようやっと離婚が成立した。
こうして小野坂の結婚生活はわずか十カ月でピリオドを打った。彼は『離れ』でつばさと共に暮らす選択をし、調布はそのままハイツで一人暮らしをすることとなった。
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