急転直下 その四

 『リップ・オフ』という格好の再就職先を失い、調布との不倫も小野坂にバレてしまった川瀬は絶望の縁にいるような気分を味わっていた。今更『オクトゴーヌ』の社員昇格も難しいであろうと考え、『DAIGO』に入れるシフトを増やす打診をしようと出勤前に事務所を訪ねた。

「オーナー、お話があります」

「ちょうどいかったべ、こっちも用があらさんだ」

 大悟は手間が省けたとばかり川瀬を下座のソファーに座らせた。傍らには旦子もおり、渋い表情で従業員を見据えている。

「先に宜しいでしょうか?」

「いんや、これ確認してけれ」

 彼は事務所のノートパソコンを起動させてから画面を見せる。そこには自社サイトの問い合わせフォームが映されており、キャパオーバーともいえる大量の画像がびっしりと貼り付けられていた。

「何ですか?」

「ん。今朝立ち上げたらこれが届かさっててさ、読み込まさるんに時間食ったべや」

「それが僕と何の関係があるんです?」

「それはこっちが聞かさりたいのさ。コレ誰だ?」

 大悟が手始めに指差した画像は、多少遠目ではあったが自身が調布と『リップ・オフ』に向かうため坂道を下っている時のものである。当時はまだ一線を越えていなかったが、肩を密着させて楽しそうに歩いている姿は恋人同士にしか見えなかった。

「誰ですか?」

「分かんないかい? したらこっちは?」

 さらに数枚分をスライドさせ、先程よりも鮮明に映っている画像を選ぶ。それは川瀬が仕事を早退し、初めて彼女とベッドインを果たす直前を切り取った一枚であった。

「分からないです」

「そうかい、したらこれは?」

「もう宜しいでしょうか?」

「いんやまだ終わらさってね」

 徐々に追い詰められていた川瀬はこの場にいるのが嫌になってくる。ここで逃げると負けになるとどこまでもすっとぼける選択をした彼は、仕方なしではあるが退席せずそのまま付き合うことにした。

 三枚目に見せてきたのは『リップ・オフ』店内で密会中の画像であった。どう見ても店内で撮影されているようだが、なるべく他の客が出入りしない時を狙っていたのでこの画像には内心驚いていた。大悟は更に次なる画像を示し、容赦なく川瀬を精神的に追い込んでいく。画像の精度は更に上がり、もはや言い逃れができないほどになっている。

「ハリウッド役者気取りかい?」

「僕に言われても分かりません」

「そうかい、まだまだあんべよ」

 大悟は口角を上げて川瀬を見るが、向けている目は全く笑っていなかった。

「もう結構です。こんなイタズラ写真見せられても困ります」

「なしてそったら決めつけしささった? イタズラであらさったら匿名投稿にしささらんかい?」

「僕は無関係ですので」

 表面上はしらばっくれていたが、服の中は冷や汗でびっしょり濡れていた。心臓を打つ音まで聞こえるほど激しく脈打ち、喉が渇いて息苦しくなってくる。

「そうかい。暖房も弱めなのにさ、なしてそったら汗かかさってんだ?」

 旦子は微妙に変化していく川瀬の表情や態度を見逃していなかった。

「暖房が効きすぎるんです、温度を下げて頂けませんか?」

「そうかい、二十度設定なんだけど暑いんかい? 厨房よりも全然しゃっこいべさ」

 彼女はエアコンのリモコンを見ながらそう言った。

「そん画像な、東京の調布さん仰る方からの投稿だべ。仮にすっとぼける態度を見せたら名前公表しささっても構わねって許可も頂いてるのさ、『娘夢子の不始末をお許し下さい』って謝罪付きでさ」

「調布……」

 不倫相手の旧姓を出されたことで状況が更に悪化していくのを感じていた川瀬だが、ここで自身であると認めたら何もかも失ってしまう……それだけは避けたいと首を縦に振らない。

「実名投稿っちゅうリスクを承知しささってイタズラができらさると思ってんのかい?」

「僕には分かりません」

「そうかい。こん男な、娘さんの出産直後病院のルール破らさっていきなり弁当持って見舞いに来ささったそうだべ。確か名前は……」

「もうやめろっ!」

 耐えきれなくなった川瀬は勢い良く立ち上がり、大悟のパソコンを奪い取ろうとした。

「おっとこりゃマズいべ」

 大悟は運動音痴な川瀬よりも俊敏な動きでパソコンを抱えて距離を取る。しかし証拠隠滅に躍起になっている彼の脳内はぐらぐらと湧き上がっており、気が狂ったかのように攻撃的な動きを見せていた。それに対し相原母子は冷めた視線でそれを見ており、最終的には旦子がステッキで阻止する形となった。

「メッキは五年で剥がれたべ」

「ふざけるなっ!」

「ふざけてんのはどっちだべ? アンタ契約違反だべ」

 一人逆上する川瀬の前に、旦子は一枚の紙を突きつける。反射的に受け取ったそれを確認もせずびりびりと破り捨て、勝ち誇った表情で旦子を睨みつけた。

「こんなものが何の証明になるんじょ?」

「ん? あぁ間違えたさ」

 彼女は別の用紙を手に取って笑い、それが予想外の展開であった川瀬の思考は止まる。入社時にサインした誓約書だと思い込んで破り捨てた紙がただの紙きれと知り、普段の彼であれば決して引っ掛からないことなだけにそのショックは大きかった。

「……」

 ちょっとした手違いで戦意を失った川瀬を見た大悟は奥の書斎机の上にノートパソコンを置き、代わりに一枚のメッセージカードを手に取った。

「……」

 ちょっとしたトラップで戦意を失った川瀬を見た大悟は奥の書斎机の上にノートパソコンを置き、代わりに一枚のメッセージカードを手に取った。

「川瀬義」

 大悟はそれを広げて川瀬をフルネームで呼ぶ。彼の体はピクリと反応し、更に汗が吹き出て服の中どころか額からも汗が流れ始めた。

「貴殿は社則第十条である【社内恋愛禁止】に著しく違反し、契約どおり解雇を言い渡す。異論は認めん」

 大悟はオーナーとして社則に法った辞令を読み上げると、旦子は失望の視線を川瀬に送ってからひと足先に事務所を出た。川瀬は全てを失ったとその場にへたり込んだが、大悟はそれを許さず書斎机を思いっきり平手で叩く。

「解雇はもう適応されたべ、今すぐここを出てけ」

 その音に掻き立てられた川瀬は無理矢理体を立たせ、よろよろとした足取りで『DAIGO』の敷地から追い立てられるように出て行った。この後どうやって帰宅したのか記憶に留まっておらず、鍵もかけぬまま玄関で眠りこけてしまっていた。寒さに気付いて目覚めた時には日付が変わっており、『オクトゴーヌ』三度目の無断欠勤を犯すこととなる。

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