リラ冷え その二
「サコウさん、イナギさん、お久し振りですね」
黄色のエプロンを着けた男性従業員は、ミユキとオナミの前にティーカップを静かに置いてから笑顔を向けた。
「お久し振りじゃ根田君っ、おっお元気そうど」
オナミは緊張のせいか少し声が上ずっている。
「ハイ。最近連絡が滞っちゃってたのでそろそろメールしようと思ってたんです」
「うちらも新人研修で最近やっと落ち着いたんです」
「そっか、一年近く経ってますもんね。確かイナギさんは当時もう内定頂いてたと思うんですが……」
根田は当時交わした会話を思い起こす。二人は昨年早めの卒業旅行を称して、当時通っていた大学の同級生十六名で北海道へ遊びに来ていた。当初宿泊していたTホテルで起こったボヤ騒ぎで避難が必要になり、その受け入れ先としてここ『オクトゴーヌ』が彼女たちを受け入れる運びとなった。
特にミユキこと
「あたしは新人研修を終えて箱館へ配属になったんです」
「そうなんですか? ひょっとして近くですか?」
「城郭公園の近うじゃでそう遠うなかて思います」
「路面電車を利用すれば遠くはないですね。佐孝さんは?」
根田は向かいの椅子に座っている佐孝にも話を振る。
「うちは姉を頼って北海道で働ける所を探しました。何とか大学在籍中に内定を頂けて安堵してる」
佐孝は静岡にある温泉地近郊の出身で、親戚が旅館を経営している縁で高校時代から休日は小遣い稼ぎがてらアルバイトをしていた。ゆくゆくはそこの経営に携わることを視野に入れて、当時から温泉旅館に絞っての就職活動をしていた。
「ひょっとしてあの温泉街ですか?」
「はい」
佐孝はふっくらめの白い肌からえくぼを出して微笑んだ。
「それだでうちら箱館市民になったんです、ご予定が合えば遊びに行きましょう」
「良いですね。じゃあシフトが出たらグループメール入れておきますね」
「あたし十五日区切りじゃっで今日中にメールします」
「それに合わせて希望を出す方が早く実現でき……」
「君お客様になんて口の聞き方してるのっ!」
カウンターからの怒号が佐孝の言葉を遮った。三人に限らず程よく賑わいのあった店内の空気が凍り、水を打ったように静かになった。根田は一瞬自身が怒られているのかと思い返事をしそうになったが、声の主はこちらを見ておらずひとまずは安堵する。
しかしこの雰囲気を嫌った客が一人二人と席を立ち始め、小野坂が会計業務に追われ始めた。根田は佐孝と稲城にまた後でと声を掛けてから、驚きを隠せずにいる客に頭を下げる。
「お騒がせして申し訳ございません」
「いえ。でも何があったんでしょう?」
その女性客はカウンターの様子を不思議そうに見つめている。
「申し訳ございません、状況が把握できておりませんので何とも申し上げられないのですが」
「そうですよね、カウンター席の雰囲気はむしろ和やかに見えていただけに一体何を怒ってらっしゃるのか……ここは大丈夫ですのでお仕事を優先なさってください」
「ありがとうございます、失礼致します」
根田は他に不便を感じている顧客はいないかと様子を伺っていると、背後からすみませんと声が掛かった。
「ハイ、如何致しましたか?」
声を掛けてきた女性客は観光客と見え、テーブルには小さめのガイドブックが置いてある。
「あの、お会計はどちらで……」
「カウンターの奥にございます、紫のエプロンを着けた従業員が待機しております」
「あっあそこですね」
彼女はいそいそと荷物を抱え、カウンターを避けるようにフロントへ向かう。一人での来店だったため、突然の怒鳴り声に恐さを感じたのかもしれない……そう思うと観光客の楽しみをフイにしてしまったという罪悪感が胸に宿り、申し訳ない気持ちで彼女の背中を見送る。
しかし感傷に浸っている場合ではないので、再度テーブル席に注意を向けていると、奥の通路側にいる男性客がちょっとと手を挙げていた。
「ハイ、お伺い致します」
「この状況でアレなんだけど、注文一つ来てないんだよ」
「申し訳ございません、すぐご用意致します」
根田は謝罪してから足早に厨房に入り、オーダーシートで抜けを確認する。
「えっと二番テーブルだから……コレだ」
幸い根田でも作れるドリンクメニューだったので、これなら対応できると支度を始める。その途中過程で既に用意されていることに気付いてはいたが、客に出すには時間が経ちすぎているため廃棄することにした。
「悌、今こっちは何とかなるから手伝うわ。日高、そっちは任せた」
「はい」
厨房が無人状態になっている『オクトゴーヌ』を気にした嶺山がサポートに入る。『アウローラ』側はしっかりと連携が取れており、日高も機敏に業務をこなしている。根田は二人のお陰で空回りをせずカモミールティーを作り上げ、それを待つ客に届けることができた。
「お待たせして申し訳ございませんでした」
更なるクレームに発展すること無く乗り切れたことにほっとしたが、カウンター席の険悪な空気はまだ解消されていない。
「お客様、この者の無礼な振る舞い大変失礼致しました」
川瀬は義藤の隣に立ち、彼の頭に手を置いて強引に下へ力を込める。
「えっ? なっ何?」
客からクレームが付いた訳でもないのにいきなり怒鳴り付けられ、無理矢理頭を下げさせられた義藤は内心パニック状態であった。
「ちょっと待って、この子何も失礼なことしてへんで」
このところ小野坂をアテにして来店してくる老人客が二人の間に割って入る。しかし川瀬はそれを無視して後輩社員を睨み付けている。
「君さっきから何? ここ学校じゃないんだよ」
「えっと、あの……えぇっ?」
義藤は何を怒られてるのか分からず、一人怒り狂う先輩社員をぼんやりと眺めていた。
「ちょっと宜しいかしら?」
老人客の隣に座っている初老の女性客が川瀬の方を見た。
「はい、今後このようなことが無いよう厳しく指導致しますので……」
「一体何の話をなさっているの?」
彼女は不満げに言い返した。この女性客は所謂“クレーマー”というやつで、オープン当初から定期的にやって来ては従業員にお小言を言い付けていく。しかしただクレームを付けるだけでなく、良いところを見つければ褒めることも怠らないので決して招かねざる客という訳ではなかった。
「は?」
「『は?』じゃないわよ、あなたのやり方は指導ではなくハラスメントよ」
「いえ、そのようなことは決して……」
川瀬はきっぱりと言い切る“クレーマー”相手に口調がしどろもどろになる。
「言葉が厳しくても“指導”であれば相手はきちんと話に耳を傾けるはずで、間違ってもこんな風に空気を悪くさせたりしないわ。それとね、鏡お貸ししましょうか? 今どんなお顔をなさっているか確認されるといいわ」
彼女はバッグから手鏡を取り出して川瀬に差し出した。
「手厳しいな姉さん」
「あなたは黙ってなさい」
「すんません」
少しでも空気を和ませようと、茶化しを入れた老人客の言葉もあっさり一蹴される。川瀬は手鏡を借りようとせず、二人のやり取りを見つめていた義藤を一瞥する。
「これ以上用が無いのであれば下がって頂けない? 目障りだわ」
「……」
女性客は川瀬を見据えてばっさりと切り捨てる物言いをした。それに対し不満を露わにしていた川瀬だが、クレーマーに下がれと言われてしまった以上仕方無く厨房に戻っていく。
川瀬がカウンターからいなくなり、他の客たちは少しずつ元の雰囲気を取り戻し始めていた。根田と小野坂もトラブルの応対をひと段落させ、まだどことなくぼんやりとしている義藤に声を掛けた。
「ちょっと休むか?」
「う〜ん、今一人になったらかえってキレるかも」
「ほなおっちゃんの話相手して、ぼんちょっと借りるで」
老人客は孫を見るような優しい視線を義藤に向ける。
「えぇ、問題無いですよ。ただちょっと視界は広めにな」
「はいっ、智っち」
「……」
小野坂はすっかり気を取り直している義藤を見てため息を吐く。しかし実際はまだ動揺してるだろうなと思い、今注意するのは追い打ちになりかねないとここでは黙っておくことにした。
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