リラ冷え その一
道立大学自転車部が札幌へ戻ってから、ここ箱館ではちょっとした長雨が続いている。本州と違い明確な梅雨が無いとされる北海道でも、桜の季節が過ぎると一時的に降水量の増える時期がある。
「北海道って梅雨無いんじゃなかったっけ〜?」
既に開店している『アウローラ』の邪魔にならぬよう、敷居を立ててテーブルを拭いている義藤は天気相手に不満を漏らす。
「最近は本州と気候が似てきてる気がするよ。夏になれば三十度以上の日もザラにあるしな」
「そうなの〜?」
「北海道でもエアコン付けてる家も増えてるらしいぞ」
「涼しいと思ってたのに〜」
義藤は暑いのが苦手なのか嫌そうな顔を見せる。
「ヒートアイランド現象が無いだけマシだよ、こっちは冬の方が過酷だからな」
二人は他愛もない話をしながらテーブルを拭き終え、静かに敷居を退けていく。
「こんちわ〜」
この日も鵜飼が『オクトゴーヌ』を訪ね、いつものように客室へ直行した。
「後は俺がする、客室へ上がってくれ」
「はいっ」
先輩の指示で義藤は客室へ上がり、使用済みのベッドリネンを運び出していく。残されている敷居を片付け終えた小野坂は、フロント経由で事務所に入ろうとしたところで川瀬から声が掛かった。
「智君、こっち手伝ってもらえない?」
「えっ?」
この後根田の出勤が控えているため、普段であればそれを待ってから厨房の手伝いに入る。
「今日は仕込み遅れてるのか?」
小野坂の方も仕事が一段落ついた訳ではないので、このタイミングでそう言ってくるということはそういうことなのだろうと一応確認してみる。
「そういう訳じゃないんだけど、別に新人の子一人でできることでしょ? もうじき
「まぁ悌が来りゃ問題無いけど」
もう名前で呼んでやれよと思いながらも、客室にいる後輩にひと声掛けておこうと仕切ってあるカーテンをめくる。
「荘、それ終わったらカフェのトイレ掃除頼む」
『がってん承知!』
「返事は『はい』だろうが」
『はいっ』
注意を受けた義藤の声がトーンダウンしたものの、それも一瞬だけのようで一緒にいる鵜飼と楽しそうに話している声が聞こえてくる。返事は聞けたからまぁいいかとカーテンを閉めて厨房に入ろうとすると、鵜飼が大きな布袋を持って一階に降りてきた。
「智さん、あん子真面目に働いてるべよ」
鵜飼はわざと声を張ってフォローに回る発言をする。
「まぁな、けど接客であの言葉遣いが表面化するのはマズいだろ」
「ん、今そういうん厳しいしたからさ」
彼も経営者としてその風潮は身に染みて感じている。
「幸いここに来られるお客様はそう煩くはないけど、仕事である以上そこに甘えちゃいけねぇだろ」
「したってさ、智さんも似たようなもんだったべさ」
鵜飼はケラケラと笑いながら裏口から出て行く。小野坂は大学時代の“若気の至り”というやつに心底後悔し、一つため息を吐いてから厨房に入った。
「やっと休み合わせられたね」
開店して間も無い『オクトゴーヌ』敷地外で店内を覗き込んでいる二人の女性。一人は長身でオレンジ色の傘をさし、ベージュのショートブーツを履いている。
「先に連絡した方が良かったかなぁ?」
もう一人の女性は彼女の頭半分ほど身長が低く、透明なビニール地に色とりどりのドット柄がプリントされた傘をさしている。
「じゃっとん『驚かせよう』っちゅうたんミユキん方じゃなか」
「けど覚えててくれてるかなぁ?」
ミユキと呼ばれた小柄な女性は、緊張しているのか友人の服の袖を掴んだ。
「コラッ! 服が伸ぶっ!」
「あっゴメン」
「もうここまで来たで中に入ろう。忘れられちょったら仕方無かじゃ」
「待ってオナミぃ」
オナミという名の長身女性は一人先にずんずんと敷地内に入り、ミユキはその背中を小走りで追い掛ける。二人は店の前で傘をたたみ、雨露を軽く振り落としてからドアに手をかけた。
「いらっしゃいませー!」
入り口から一番近い位置に立っている黄緑色のエプロンを着けた若い男の子が威勢良く声を掛ける。二人は彼の案内で中程にある壁側の席に案内され、オナミが壁側、ミユキは向かいの椅子に腰を落ち着けた。
「新しい子入ってるね」
「うん。四人でやりくりすったぁキツいて思うじゃ」
二人はそう言いながら店内を見回している。
「パン屋さんできてるね」
「うん、後で見てみようじゃ」
この日は雨のせいか客足は伸び悩んでいるようだが、店の陳列台に並んでいるパンたちはどれも食欲をそそる。
「ここのパン多分当たりだよ」
ミユキはパン好きと見えて先ほどから陳列台を嬉しそうに見つめている。オナミは何かを思い出したように友人の手の甲を突っ付いた。
「ひょっとして火災に遭うたパン屋さんじゃなか? 一月頃そげんこっゆちょらんかったっけ?」
「かも知れにゃーね、だったら尚更売上に貢献しざぁ」
二人はこの後の予定を一つ決めると、先程の男の子が危なっかしい足どりでグラス二つと金属製の冷水ポットを持って二人のいる席にやって来た。
「いらっしゃいませぇ、こちらメニューになりまぁす」
少々間伸びした口調ながらも、恐らく自分たちよりも若いであろう彼の接客態度は至って真面目という印象を受ける。この子何歳なのかな? それが少し気になったが、わざわざ聞き出すこともないかと無難にホットティーを注文した。
「うちはミルク、オナミは?」
「あたしはストレートで」
「かしこまりましたぁ、メニューをお下げしまぁす」
彼はトレイとメニューを左手に、ポットを右手に持って厨房へ引っ込んでいく。厨房の中が多少見える位置に座っていたオナミは、中を覗くように体を動かした。
「何してんのよぉ」
「う〜ん、見えんじゃ」
「もうちゃんと座ってなって」
入店前はオナミの方がしっかりしている風であったが、今は立場が逆転してミユキの方が友人の行動を窘めている。
「出たっ、出たっ」
「オバケみてゃーに言わにゃーでよ」
その後すぐ黄色のエプロンを着けた男性従業員が、コーヒーカップを乗せたトレイを持って厨房から姿を見せた。彼は入り口に最も近い男性客の前にコーヒーカップを静かに置き、客の様子をつぶさに気に掛けている。
「来たっ、来たっ」
「えっ? ウソっ?」
二人はきちんと座り直して乱れてもいない髪の毛を整えたり、ほんの少しよれたアウターのシワを伸ばしている。そんなことを気にしている間に彼は二人のいる席をを通り抜け、別の客を相手していて気付いている感じではない。
「かしこまりました、メニューをお下げ致します」
昨年以上にスマートな仕事ぶりを見せている彼を、二人はドキドキしながら見つめている。恋い焦がれる相手というよりは、気付いてほしいけどあっさり見つかりたくないというかくれんぼ的な気持ちの方が勝っていた。
彼はオーダーを取るとそのまま厨房に入り、今度はティーカップ二つを乗せたトレイを持ってテーブル席へと足を進める。そして二人のいる席の傍らで立ち止まり、お待たせ致しましたと言った。
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