家族とは? その二

 遺体となったまどかの体を綺麗にする作業のため、角松はしばらくの間一人待合室にいた。自分に至らなかった点はなかったか? 自身の休日に合わせてこの日の入院を決めたので、もう一日早ければこうならなかったのではないか? という後悔がつきまとう。しかしそれを悔い続けてどうなるのか? これから妻が命を懸けて遺してくれた娘を育てていかなければならない。現実問題父子家庭は厳しいかもしれないが、今はまだ両親も健在で赤岩家の協力も得られている。

 これから先多くの人たちの力を借りなければならなくなるだろう、両親が晩婚であったことで父親のはじめは間もなく古希を迎える年齢になる。両親ともに一人っ子のためはとこ一家くらいしか親戚縁者のことない彼にとって、仕事との両立を図るため周囲の助けは必要不可欠だ。悲しみに暮れている場合ではない、やるべきことが山積している。きっと両親も赤岩夫妻もそれを見越して妻と共にいる時間を作ってくれたのだと思う……その心遣いをありがたく思い、もう動くことの無いまどかの手をそっと握った。

「まだ温いべ……」

 二人きりの安置室で呟く角松、もちろんそれに対する返答は無い。妻の顔は結婚式以来にしっかりと化粧が施されていて、再び目を覚ますのではないかという錯覚すら覚える。衣服も死亡直後に着ていた水色の簡素なものではなく、白いフリルの付いたチュニックドレスのようなものに着せ替えられている。

 とても死んでるとは思えないべ……角松は化粧の施されたややふっくらめの頬を触る。まどかは一旦眠りにつくと多少のことでは起きないタイプで、一緒にいる時は頬や髪の毛を触って幸せな気持ちに浸っていた事を思い出す。

 これが出来るのももう最期か……そう思うと段々と視界が滲む。メソメソした男は嫌いだべ! 生前まどかはそう言っていたのでなるべく泣き顔は見せないようにしていた。性格的にどちらかと言えばおっとりしている彼は、少しでも妻に見合った男性になろうと弱音を見せないようにもしてきたが……。

「……堪忍な」

 溢れ出るぐちゃぐちゃした感情を抑え切れず、妻の手を握ったまま一人咽び泣く。もう生前のようにしっかりせえ! と責められはしないが、瞳を閉じたままただただ眠り続けて何のリアクションも見せてこないのが悲しみを助長させる。まどかはもう死んでるのに……分かってはいても事実として受け止めきれておらず、まだ温もりの残る体に変な期待を寄せてしまう。生き返ってけれ……! と願う気持ちと、現実をきちんと受け入れようとする気持ちがせめぎ合ってなかなか涙が止まらない。

 ひとしきり泣いた、声を上げて泣いた。そうしているうちに疲れてきた、気付けばもう涙は止まっていた。時間にすると十分も経っていないと思うが、もう一生泣けないのではないかと思うくらいに大泣きした。角松のまぶたは赤く腫れ上がり、服の袖口は涙で濡れてしまっている。それでも先程までの弱々しさは消えて新たな覚悟を持った表情に変わっていた。今日から父親になる、妻から受け継いだ新たな命を立派に育ててみせる。これから歩む未来が定まった彼は、ここでようやく温もりが失われ始めた妻の手を離した。

「今日までありがとな、“木の葉”を立派に育ててみせるしたから」

 角松かもう起き上がることのない妻に笑いかけ、安置室を後にした。


 夕方になり、まどかは夫と共に無言の帰宅を遂げる。店の方は早めに閉店し、明日から初七日までの臨時休業を決めた。

「今朝は元気だったでねえか……」

 早朝から勤務していた女性従業員が悲しみに暮れている。全く事情を知らなかった訳ではないものの、このような事態を想定していなかったようだ。

「まどかはよう頑張った、子供は無事したから」

 赤岩は瞳を伏せて言う、彼女に向けてというよりも自身に向けて。

『おばんです。○○寺です』

「はい」

 香世子が玄関へ迎えに行き、住職を家に上げた途端家の中は神妙な空気に包まれる。住職はまどかの傍らに座り、お経を読み始めた。

「……何が始まったんだべ?」

 無信教者の村木が隣にいる角松に小声で訊ねる。

「……『枕経』だべさ、僕も一度しか経験無いしたけど」

「……『まくらきょう』? どったら意味があんだ?」

「……あの世への案内として死者に初めて経を聞かせるとかでねかったっけかな?」

 と無駄話をたたく二人に、衣子が村木の服の裾を引っ張る。それで二人とも口をつぐみ、静かな部屋の中でお経が響き渡る。それから五分前後で枕経は終了し、住職は遺族と従業員ら参列者に向き直り、座ったまま手を合わせて丁寧にお辞儀した。

「これでまどかさんは自らの死をご理解されたと思います。四十九日までの間はこの世に未練を残されているでしょうから、それまで週に一日お経を上げさせていただきます」

「ありがとうございます」

 喪主である角松を筆頭に住職に頭を下げる。その後葬儀の段取りについての話し合いが始まったが、まどか自身にしても角松家にしてもたまたま宗派が同じという以外寺との接点が無い。斎場葬の案もあったが既に先約で埋まっており手配出来なかった。

「結婚はしてたけど通い婚状態したから、まどかにとってはここが一番馴染みがあるんでねえでしょうか?家はハイツの二階したから狭いし不便だべ」

 角松のこのひと言で赤岩家での自宅葬という運びとなり、あれやこれやと細かなものを揃えたりという話をまとめたところで住職は寺へと戻っていった。

「はぁ~、やること山ほどあんべだな、葬式って」

 村木は細々とした雑務の多さにうんざりしていた。

「そだ、明日の朝イチに役場行かねえと」

 角松は急に思い出したかのようにはっとした表情になる。予想以上の忙殺振りに大事なことを忘れてたと言いたげだ。

「なしてだ?」

「死亡届、これが無えと火葬出来ないべ」

「うへぇ~面倒臭え……にしてもぶっちゃけちまえばイベントでねえか、ここまでわやくちゃだとさ」

「んな身も蓋もねえ事吐かしおって。けどまどかも似たようなことこきそうだべ」

 香世子は依然眠ったままのまどかを見てクスッと笑う。それにつられた一同も皆まどかの寝姿に注目し、ほんの一瞬だけではあるが張り詰めていた力がふっと抜けて表情が緩んでいた。

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