宝物 その三
病院の待合室で待機していた香世子と角松一家はただひたすら吉報を待つことしかできずにいた。担当医からお腹の子供は帝王切開で取り出すと言われ、まどかは手術室に入っている。腎疾患があるので初めから帝王切開ではあったものの、それはあくまで予定日である十日後の話、彼女自身の生命に危険が及んでいる以上夫である角松の立ち会いは認められなかった。
まどかが握り締めていた封筒は香世子を経由して角松の手の中にあり、『無事生まれてから開けてほしい』と痛みと苦しみに耐えながら香世子にそう言伝ていた。
「大丈夫だべ……」
無責任な発言にも思えたが、そうでも言わなければ香世子自身にもよぎる不安に押し潰されそうになっていた。
「んだ、大丈夫だ」
角松の母
「まどかはっ?」
配送業務を終えた赤岩がひと足先にやって来た。早朝とも言える時間で走ってきた訳ではないのだが、早足で移動したので多少息が乱れている。
「先に子供取り出すって」
「そうかい……さすがに立ち会えんかったか」
「はい、緊急事態したっけ仕方ないです」
角松はそう言いながらも多少残念には思っているようだ。
「次は立ち会いたいです」
「んだな」
赤岩はクシャクシャの封筒を握りしめて俯き加減の婿の肩をポンと叩く。正直に言えば不安が時折よぎりはしたが、それを何としても払拭したくて希望を見据えた言葉を使って打ち消そうとしていた。それから少し経って、『オクトゴーヌ』から直行した村木も早足でやって来た。一人病院に向かいながら湧き上がる不安と戦っており、白目を充血させて周囲も若干腫れていた。
「まどかは?」
「手術室だ、帝王切開で先に子供取り出すってさ」
「そうかい……」
普段なら聞けることは全部知りたがってあれこれ訊ね回るのだが、この日はその気力が無くすぐ近くの長椅子に腰を落とした。
「「「「「……」」」」」
それから何の進展も無くただひたすら待つだけの状況が続く。医師も看護師もここに来ることは無く、今まどかがどのような状態なのかという情報は一切入ってこない。少しでも重苦しい空気を打破しようと、ポツリポツリと言葉は交わすも会話はほとんど続かない。
「一応兄貴に電話しとく」
その空気に耐えられなくなった村木は立ち上がって一人外に出る。ケータイの待ち受け画面で時間を確認すると、既に午前十時を回っていた。本来ならこんくらいの時間に入るはずだった……病院を出た村木は振り返って背中にある建物をじっと見つめていた。
兄貴に何てこくべ? 正直に伝えれば済むことなのかも知れないが、子供が生まれたばかりで同い年のいとこができると嬉しそうにしていただけに、中途半端に状況が分からない状態で電話するのは余計な困難を招くのではないかと操作をためらっていた。
それでもいずれは報せんと……! 意を決して履歴から次兄英次のケータイ番号を探し当てる途中で長兄和明から通話着信が来た。村木は一瞬慌てるが取り敢えず通話ボタンを押し、はいと応答した。
『まどかそろそろ入院すんだべさな?』
「ん……」
村木はまだどう伝えようか悩んでいたが、それよりも先に何かあったんか? と兄の方から問い質した。
「……ちょべっと早いしたって、産気付いてもう病院に入ってんだ」
『そうかい、何時頃だべ?』
「七時前。仕事中したっけ、搬入済まして病院にいるしたって……そっからの状況が全然分かんねえんだ」
取り繕おうが正直に話そうが状況は分からん……村木は正直に“今”を伝える選択をした。
『三時間経ってんのかい……今の状況は?』
「帝王切開で先に子供取り出すって……したってそっからどうなってるんかの情報が全然入ってこねえんだ」
『患者優先したからそうなるんもしゃあないしたって……俺も経験あるけんどもどかしいべ』
「ん」
村木は気の入らない返事をして肩を落とす。
『今ちょうど空き時間したから英次には俺から伝えんべ、変わったことがあったらメールでもワン切りでも構わねえから何か残しとけ』
「分かった」
『んじゃ後でな。待たされるんは辛いしたって、乗り切った時近くにいてやればまどかも安心すんべ』
和明の通話はそれで切れたが、最後の一言に後押しされた気持ちになった村木は、目を覚ました妹に掛けるねぎらいの言葉を考えながら建物の中に入った。
兄との通話を終えて元いた待合室に戻ると角松の姿が無くなっており、場の雰囲気が心無しか和んでいるように感じられた。
「あんれ? 正は?」
村木は誰にでもなく訊ねてみると香世子が顔を上げ、疲れた中でも笑顔を見せていた。
「子供見に行ってんべ、ちょべっと小さいしたから新生児室にいるんだって」
「はぁ~、無事産まれたかぁ……」
村木はひと山越えたと安堵して緊張していた頬が緩む。この調子でまどかも無事乗り切れればと何とかポジティブに考えるよう努める。
「んで、どっちだべ?」
「女の子だってさ。んであの封筒……まどかが正君に託してた封筒があってな、その中身がこれだべ」
香世子は角松から預かっていた封筒の中身を見せる。それは赤ちゃんの命名を清書する鶴亀の半紙で、そこには【大樹】と力強い毛筆で書かれていた。
「『大樹』? 女の子でねえのかい?」
「そっちは子供に見せるってこいて正君が持ってんべ。あの子子供の性別調べんかったから両方の名前考えてたんだべよ」
らしいことすんべ、村木は思わず苦笑いした。
「したら女の子は何て命名してんだ?」
「『
無事に産まれた子供の話題で自然と希望を持てるようになってきた矢先、ここへきて主治医である女医が疲労の見える顔つきで待合室に入ってきた。
「ご家族の皆様、こちらへどうぞ」
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