昔話 その二
数日後、久方振りに里見のマネージャーである治部が『オクトゴーヌ』に来店する。ちょうどカフェの業務に一区切り着けた根田がそれに気付き、ご無沙汰していますと声を掛けた。
「こんにちは。遅くなりましたが、里見友勝の長期宿泊の期間延長の手続きをお願いします」
「かしこまりました」
根田はフロントに入り、事前に準備しておいた書類を出す。治部はそれをひと通り黙読してから、ボールペンでサラサラと必要事項を記入していく。
「あれ? 治部さんって左利きなんですね」
「えぇ、右でも書けるよう矯正はされたんですがどうも馴染めなくて」
食事は右で頂きます。そう言い加えてから再びペンを走らせる。その間にカフェの客が入ってきたので、治部にひと声かけてから接客に向かった。その様子を厨房で気にかけていた川瀬が代わりにフロントに出る。そのタイミングで書類を書き終えた治部はペンを置いて顔を上げた。
「これで宜しいでしょうか?」
彼は記入済の書類を川瀬の前にスッと差し出す。
「はい、承りました。次回は二月上旬ですね」
「えぇ。彼もうここに根付く気でいるんじゃないですかね、ご迷惑でしたら投げて頂いて構いませんよ」
「いえ、僕たちも里見さんがいらっしゃる環境を楽しんでいますので。ところで……」
「義さぁん、注文入りましたぁ!」
「うん」
川瀬は口に出そうとしていた言葉を飲み込み、根田からオーダーを受け取って厨房へ引っ込んだ。
「私も何か頂けますか?」
治部は珍しくカウンター席に腰を落ち着かせる。これまで二度ほどここに来ているが、多忙のためいずれも長居はしなかった。
「かしこまりました」
根田は治部にメニューを手渡し、お冷を出すため一旦厨房に入る。
「治部さんお食事されるみたいですよ」
「えっ!」
普段誰よりも冷静な川瀬がいつになくうろたえた表情を見せている。
「ボク何か変なこと言いました?」
「ううん、何でもない。こっち宜しくね」
川瀬はすっと表情を元に戻し、出来立てのホットサンドとワッフルを指差した。手元には間もなく紅茶を淹れる温めたティーカップも既に二つ用意してある。
「はぁい」
根田は特に気に留める事なく通常運転で仕事をこなし、一段落着けて治部に声を掛ける。
「ご注文はお決まりですか?」
「えぇ、これをお願い出来ますか?」
治部はメニューに載っている写真を指差して言った。
「『彩りカツ定食』ですね、かしこまりました」
と厨房に引っ込もうとする根田を治部が慌てて引き留める。
「ところで川瀬君って大阪に住んでたことあるんでしょうかね?」
「う~ん、どうなんでしょうか? 義さんそういう話なさらないんで」
「そうですか……すみません、お仕事の手を止めてしまいまして」
「いえ」
根田は一礼して厨房に入り早速川瀬にそのことを訊ねてみると、調理師専門学校時代の三年間大阪にいたという返答があった。
「面識とかあるんですか?」
「うん、まぁ。治部さんってもともとHホテル大阪のオーナーシェフだったんだよ、一度特別授業をしてくださったことがあって。まさか憶えてくださってるのかな?」
「かも知れませんよ、後でお尋ねしてみればいいじゃないですか」
「仕事に穴開けてする程のことじゃないよ」
川瀬は緊張した面持ちで『彩りカツ定食』の支度を始めていると、フロントから根田の明るい声が届いた。
『おはようございます里見さん、お食事どうされます?』
『ここで頂くよ。この前の雑炊、お願い出来るかな?』
『ハイ、大丈夫ですよ』
根田は里見からの注文を受けて厨房に入る。この頃には小野坂も仕事に入っており、店内の会話を聞いていたのか雑炊の具材であるきのこを切り始めていた。
一方川瀬は『彩りカツ定食』用に使う色とりどりの冷凍食パンをせっせとすりおろしてパン粉を作り、この日の具材となる豚ヒレ肉五枚に赤、橙、白(色無し)、緑、青と一枚ずつパン粉を付けて揚げていく。なるべく色味を損なわぬよう低温でじっくり、揚げ色が付き過ぎぬよう普段以上に神経を注ぐ。
数分後、揚げ上がったヒレカツを盛り付け、ご飯、味噌汁、煮物、漬物を用意して完成させると、いつに無い緊張感の中で作ったせいか川瀬の口からほぅと息が漏れる。
「折角ですから治部さんとお話されてはいかがですか?」
えっ? とたじろぐ川瀬に根田は『彩りカツ定食』のお膳を持たせて治部の待つカウンター席に向かわせる。川瀬は緊張した面持ちで、お待たせ致しましたとそれを客の前に置いた。
「頂きます」
治部は行儀良く食事を摂り始め、一つ一つ丁寧に咀嚼する。隣に座っている里見はその様子を興味深げに見守っており、プロの顔になってると茶化すが、治部は軽く聞き流し途中で箸を置いて顔を上げた。
「赤、橙、緑は野菜ジュースですね。青は色粉を……昆布だしですか?」
「えぇ。施設にいた頃は紫も作って虹色にしていたんです。極端な野菜嫌いの子がいたのがきっかけでしたが、やってみたら小さい子のウケが良くてイベントの時に作っていました」
「いつ頃思い付いたんです?」
「中学時代です。家族がいた時から料理はしていましたし、当時から思い付きでレシピを考えてみたり……」
「なるほどね」
治部は再び箸を取り、残りの食事を平らげる。きれいに食べ尽くされた御膳を見た川瀬は心の中でホッと胸を撫で下ろした。
「ごちそうさまでした。川瀬君『
「はい……初見の時点で気付くべきでした」
申し訳無さげな表情を見せる川瀬に、治部は気にしないでくださいと笑う。
「里見の送ってくる画像で思い出したんです、当時いたレストランで府内の学生に募集したお子様メニューのアイデアの中にこのフライがあったのを。あなたの名前を覚えていた訳ではありませんが青色のフライはなかなか衝撃でしたもので」
「ですよね……後で先生に叱られました、『一流ホテルでそんなもん出せるか』って」
「そうですかね? 採用こそされませんでしたが不評ではありませんでしたよ。試しに親戚の子たちに出してみたら面白がってきれいに食べてました」
「そのお言葉だけで報われた気がします」
川瀬はかつて憧れた一流シェフの言葉に安堵の表情を浮かべた。
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