居場所 その二
その頃根田は仮眠を取っていたが、川瀬が帰ってきた音に気付き階段の中腹辺りで事態の顛末を見守っていた。堀江が後を追い掛けようとしたところで慌てて階段を飛び降りる。
「ボクが行ってきます!」
彼の立候補に堀江は驚いた表情を見せる。しかしここは自身が行くよりもいいような気がして引き留めることはしなかった。
「悌君……」
「大丈夫ですって、絶対連れて帰りますから」
屈託の無い笑顔に堀江の心は救われた。根田は部屋着のパンツをスポーツパンツに履き替えると、行ってきますとリビングを出ようとする。
「ゴメンな、頼んないオーナーで」
堀江の謝意の言葉に根田はにこやかな表情を崩さずに首を振った。
「ボクも義さんに辞めてほしくありません! だって四人揃わないと『オクトゴーヌ』じゃないですもん」
この時の根田は頼もしかった。堀江は彼に全てを任せて川瀬の帰りを待つことにする。
川瀬は足任せに走り、気付けば尼崎家の壁画の前に立っていた。そこに鵜飼が先客として観に来ており、珍しく息を切らしている川瀬を不思議そうに見て声を掛けた。
「仕事は?」
「辞めるんだ」
川瀬は勢いに任せて返答する。
「本気で言ってんのかい?」
鵜飼は驚いて川瀬の顔をまじまじと見つめている。
「本気だよ、もうあそこにはいられない」
そう言いながらも実はまだ迷っており、残されることになる根田と小野坂に対する申し訳無さがくすぶっていた。
「仁困ってんべ、義さんいねくなったら誰が厨房に立たさるのさ?」
「そんなの僕に言われても……」
鵜飼の何気無い疑問に冷たく言い返すと、普段は敬語を話す川瀬を相手に呆れ口調で話し始めた。
「あのさぁ、経営者側から言わせると『辞めます』でポンと辞められる結構迷惑なんしょ。やむを得ない事情もあるしたって何とも言えないけどさ」
急に現実的なことを言い出す鵜飼に川瀬は何も言えなくなる。
「この絵、元々は尼崎さんの娘さんが京都で描かさったんだべ」
鵜飼は壁画に視線を移し、何の脈略も無く話題を変えた。
「京都……」
川瀬にとっては苦い響きだった。友人亀崎當真が亡くなった地であったからだ。
「そん方、結婚まで決まさってたけどさ、ストーカー殺人事件の被害に遭っちまったんだって。このままおらさっても悲しいだけしたから生まれ故郷に里帰りしたはいいけんど心はちょびっとも晴れんかったって」
鵜飼話している川瀬を見ないまま話を続ける。
「そんでもストーカー犯を殺しちまった婚約者が定期的に便りをしてきて、自分たちん身を案じてくれること、犯した罪償うこと、娘さん弔い続けてくれてることが救いんなったって仰ってたんだ。そんでこの世に居らん犯人憎むことよりも彼女と過ごしてきた日々を大切んしてくことん方がきっと喜んでくれる、時間はかからさったけんど、そう思えるようになったそうだべ」
鵜飼が堀江のことで葛藤していたのは川瀬も知っていた。恐らく尼崎夫妻と接していくうちに考えが変わってきたのだろう。それは彼が事件と全く無関係の位置にいるからで、当事者でなくても関わりのある自分とは重みが違う……川瀬の頭の中はその話を突き放す気持ちがまだ残っていた。
「状況が違うよ」
「したら尚のことアンタが止めなきゃいけねえんでないかい?」
二人が声のした方を見ると、スポーツウェアに身を包んでいる大悟が立っていた。彼は休みの日の夜に必ずジョギングをする、この道がそのコースになっていることは、一緒に暮らしてきた川瀬はもちろん知っている。
「さっき仁君家に来てたべ、悪いがウチにはアンタを社員にしささる受け皿なんて無いしたからな。けんどこのまま逃げ帰ったら本当に居場所無くなんべよ」
「居場所……」
身寄りの無い川瀬はその言葉に反応する。
「仁君後悔してたべ、思わぬ形で義を傷付けたって。だけどさ、彼にも大切な人を失った悲しみ持ち合わせてんだ、それはアンタんだって分からさるんでないかい?」
「ですが、許せない気持ちを持ったまま一緒には働けません」
川瀬はうつむき加減に弱々しく言う。
「したら正直に伝えてやれ、その気持ちを受け止めてくれるんは仁君だけだと思うべ」
大悟は塚原と同じようことを言って、項垂れている元弟子の肩をポンと叩いた。
「やっぱりここにいたぁ~!」
少し離れた所から、カラフルな愛用自転車に乗って根田が登り坂を必死にペダルをこいで、三人のいる輪の中に入る。
「皆さんお揃いで、どうなさったんです?」
「あぁ、俺はジョギング」
「わちは壁画を観に。悌こそなした?」
大悟と鵜飼は端的に答えると、この時間帯だと普段はペンションにいることの多い彼がサイクリングとは? とでも言いたげな顔をしている。
「今日は捜し物です、今やっと見つけました♪」
根田は嬉しそうに川瀬を見た。
「良かったね、そろそろ帰っぺ」
したっけ。鵜飼は近くに停めていた車に乗り込んでさっさと帰宅の途に着く。大悟もいつの間にか居なくなっており、壁画の間には川瀬と根田の二人だけとなっていた。根田は自身も主力として制作に関わって思い入れが強いのか、いつ見ても感動すると言った表情をしていた。
「僕たちは元々描かれた絵を模写しただけなんですけど、このイラストには本当に凄いパワーがあるんです」
根田の言葉につられて川瀬も壁画を改めて見つめている。確かに、ほんの少し創作活動に携わった時もこの絵から放たれるオーラはとても柔らかく温かいものだった。ように記憶している。今抱えている自身の冷たい心をも溶かしてくれる温かさが、この壁画にはあった。
「信さん、これが尼崎さんのお嬢さんが描かれたって知った時に、『及ばずながら、彼女への祈りを込めて精一杯描かせて頂きます。これを観た人たちの苦しみ、悲しみが少しでも癒されますように』って言ってたんです。実際信さんは神懸かったみたいに集中してて、ボクもほんの少しお兄ちゃんって杖から自力出来たような気がするんです」
川瀬は成長を見せる後輩の横顔を見る。ここへ来たばかりの頃は何とも頼りなくて仕事の覚えも遅かったのに、最近はミスも格段に減って全体を見渡せる余裕も生まれ始めている。
「帰りましょ、皆で作った“家”に」
根田はしばらく壁画を眺めてから声を掛けた。川瀬にはその言葉じんわりと身体中に染み渡っていく。
ペンション『オクトゴーヌ』自体は五十年ほど存在しているが、自分たちの“家”を作ってくれたのは他ならぬ堀江だった。彼が立ち上がって再開に乗り出さなければ川瀬はもちろん、根田も、少し後に加入した小野坂にとっても、居場所を見付け出すことはできなかった。
「ゴメン、心配かけて」
川瀬の迷いはようやく消える。
「それはオーナーに言いましょうよ」
根田の言葉に川瀬は苦笑いする。今日初めて笑いましたね。嬉しそうに言ってくる後輩と共に、二人は仲良く
二人が帰宅すると堀江はさすがに居眠りしてしまっていたが、足音に気付いてうっすらと目を開ける。見ると根田が宣言通り川瀬を連れて帰ってきており、彼の瞳は潤み始めていた。
「ゴメン、俺の行いが義君を傷付けてたんや。いくら謝ったって足らんのは分かってる、亀崎さんを生き返らすことはできひんけど」
「そんなこと望んでないよ。一番大切なことを忘れてたんだ、居場所を作ってくれたこと。凄く感謝してる、むしろ謝るのは僕の方だよ。仁君の思いも知らずに感情に走っちゃって……ご迷惑をお掛けして、すみませんでした」
川瀬に頭を下げられて堀江は困惑する。
「頭、上げて」
彼は静かに近付いて川瀬の体を起こすもなかなか顔を上げることができずにいる。
「こんなこと、するんじゃなかった」
「そう思うんならここにおって、これ以上負の連鎖を繋げたないから」
堀江の言葉に川瀬は頷き、ようやく顔を上げてオーナーの顔を見ることができた。堀江の表情は優しかった。川瀬はホッとした笑顔を見せると、堀江は安心したかのように肩から手を離した。
一方の根田は既に『離れ』からペンションに移動しており、小野坂と一緒にフロントにいた。
「義さん、戻ってきましたよ」
「そっか、アイツ意外と鉄砲玉だな」
根田の報告に苦笑いすると、ちょっと寝ると事務所に入って仮眠を取ることにした。
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