新しい風 その四

 翌朝六時、夜勤の根田がフロントで店番をしている中、三人の学生が慌てた様相で階段を駆け降りフロントの前にやって来た。

「すみません、監督がっ!」

 根田との勤務交代で事務所から入ってきた堀江がいかが致しましたか? と応対する。

「監督が目を覚まさないんです!」

「悌君はここに居て」

 堀江はフロント業務を根田に任せて学生たちと共に二階に上がっていくと、パジャマ姿の顧問が【チューリップ】ルームの外で待ち構えている。

「監督さんが目を覚まさないと伺いましたが」

「はい、どうやっても起きないです」

「ちょっと失礼します」

 堀江は部屋の中に入ると、けたたましく鳴り響く複数の目覚まし時計のアラーム音の中にも関わらず杣木はぐっすりと眠っている。

 なるほどそういうことか……事故とかではなくて良かったとは思ったが、この状況で呑気に熟睡されるのは少しばかり問題がある。取り敢えずアラームを全て止め、顧問に事情を尋ねた。

「あの、いつもこうなんでしょうか?」

「それが杣木さんになって初めての合宿なので分からないんです。寝起きが悪いとはご本人から伺い聞いていたのですが、正直ここまでとは思っていませんでした」

 顧問は睡眠中の監督を恨めしそうに見つめ、堀江は対処に困り頭を掻く。

 すると学生たちがお湯でも掛けるかい? 落としてみるかい? などと対処法の話し合いを始める。しかしそれを誰がやるんだ? というところで揉めて結局実行には至らない。

 そんなことなどお構い無しで熟睡中の杣木は、寝返りを打ち過ぎてベッドから落下する。さすがに起きるだろうとその場にいた全員が淡い期待を胸にしたが、願い虚しくすやすやと夢の中。

「あれで起きないかい?」

「痛っ! とか思うべ?」

 学生たちは監督の異常な睡眠にどうすんだべ~! とにわかにパニックを起こし始めている。

「ちょっと失礼します」

 そこへ背後から聞き慣れない声がして一同が一斉に振り返ると、そこには中華鍋と金属製のおたまを持った小野坂が立っていた。学生たちの誰? という視線と、堀江の何故? という視線を尻目に彼は平然と【チューリップ】ルームに入る。

「皆さんは部屋を出て耳を塞いでてください。あなたにはこれを」

 小野坂は学生たちに指示を出して顧問も別の部屋に移動させると、堀江には耳栓を手渡した。

「あの、小野坂さん?」

「杣木さんでしょ? 彼これだと一発で起きますので」

 彼は既に黄色い耳栓をはめている自身の耳を指差して言った。堀江もそれにを真似て耳に栓をすると、それを確認してから大きく息を吸う。

「杣木さーん、朝ですよぉ」

 そう声を掛けるや否や、おたまで中華鍋を思いきり連打する。ご近所中にその音が鳴り響く中、杣木の体がピクンと反応してゆっくりと体を起こした。彼は眠そうに目をこすり、散乱している目覚まし時計ではなく柱時計で時刻を確認する。

「おはようございます」

 杣木は大きく伸びをしてから、中華鍋とおたまを持っている小野坂の姿に気付いて笑顔を見せる。

「おはようございます、相変わらずですね」

 小野坂も挨拶を返し少し大袈裟に肩をすくめた。堀江は全く状況が掴めず取り敢えず耳栓を外す。

「お久し振り、昨日はいなかったと思うけどさ」

「えぇ、今来たところです」

「そうかい」

 杣木はそう言ってベッドから出ると、小野坂は失礼しますと堀江を連れて部屋を出る。

「小野坂さん、どうしてここに?」

「あぁ、手帳返しに」

「こんな早朝にですか?」

 小野坂の素っ気ない返答に堀江はますます困惑する。二人は共に階段を降り、小野坂はフロントの前に置いてあるバッグから衛氏の手帳を取り出して堀江の胸に押し当てた。

「それじゃ、用は済みましたので」

 帰り支度を始める彼の背中に、堀江は条件反射であのと呼び止めた。

「この後何かご予定はおありなんですか?」

 小野坂は足を止めて振り返ると、いえ特にと変わらず素っ気なく答える。

「でしたら給料支払いますので手伝って頂けませんか?」

「は? 何で?」

 と嫌そうな顔を向ける小野坂を、堀江は怯まず見つめている。

「人手が要るんです、出来ればここのことを知っている方が良いんです」

「何言ってんです? 俺今のここの事情なんか知らないですよ」

 二人のそんなやり取りの中、まるでそれを打破するかのように村木が入荷分の食材を持ってやって来た。

「おはようさん、やっぱし戻って来たべ」

 彼は小野坂の姿に気付いて嬉しそうに近付く。

「今団体客が宿泊してっから忙しいべ」

「あっそ、邪魔しちゃ悪いから帰る」

 友の言葉に憎まれ口を叩いて出て行こうとする小野坂に、村木は『赤岩青果店』のエプロンを投げつけた。

「しぃたぁかぁらぁ、人手が要るってこいてんだ!」

 彼は本領発揮とばかり強引に手を引いて食材の搬入を手伝わせる。

「何で俺がやんなきゃいけねぇんだよ!」

 小野坂は文句をたれるも、村木は容赦無く段ボール箱を押し付けた。ホラ早く! と急かされて仕方なく作業をする小野坂に、一緒に来ていた赤岩も彼をこき使う。

「智君、ちょびっと体力落ちたんでないかい? それにエプロン着けねえと服ばっぱくなっぺ」

 村木に負けない強引さですっかりペースを乱されている小野坂は、もはや言う通りに動くしかなくなっていた。そんな状況を尻目に朝食の支度をしている川瀬は一人くすっと笑っており、テーブルメイク中の根田はエプロン姿の小野坂を面白そうに眺めていた。

「うわぁ、助かりますぅ」

「いや、そこは『関係者以外立ち入り禁止』と言って欲しい」

 人手が増えたと喜んでいる根田に小野坂は突っ込みを入れる。そこへ鵜飼も手伝いにやって来て、おかしなやり取りをしている二人に近付いた。

「こんちわ~、ご無沙汰してます」

 鵜飼に声を掛けられた小野坂の動きが止まる。見憶えはあるんだけど……と思い出すのに時間が掛かる。

「『クリーニングうかい』の信です、最後にお会いしたの僕高校生したから」

「あぁ、クリーニング屋の。君確か末っ子だよね?」

「ハイ。したって兄二人が継がないしたからわちが継ぐことにしたんです」

 そう……小野坂は何か言いたげに鵜飼を見るが、バックスペースがいよいよ忙しくなってきたので話はそこで終わる。鵜飼は根田と共にテーブルの支度を手伝い、小野坂は搬入を終えると厨房の川瀬を手伝い始めた。

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