新しい風 その五

 朝食ラッシュを乗り切って学生たちが練習で出払った後、堀江、川瀬、根田、村木、鵜飼は遅い朝食を作り始めていた。小野坂は今度こそ荷物を持って裏口から出て行こうとするところを鵜飼が気付く。

「折角なんで朝まんま一緒にどうです?」

「いい。さすがにそこまで世話になれないから」

 小野坂は鵜飼の気遣いを断る。

「したらオメエ何しに来たんだべ?」

 村木はそう言えば、と何故友がこんな朝早くにここへやって来たのか? 今更ながら疑問が湧いた。

「借り物を返しに来たんだよ。ってか無理矢理手伝わせたのそっちじゃねぇかよ」

 小野坂は恨めしそうに村木を見る。

「こんな朝早くにですか?」 

「えぇまぁ。昨日旦子さんから伺ったんです、杣木さんがここに来てること」

 彼が昨日の時点でこの街にやって来ていたことを知った一同は驚きの表情を見せている。

「じゃあ昨日は『DAIGO』に泊まられたんですか?」

「いえ、駅裏のビジネスホテルに。何のご用かは分かりませんが空港に居らしててばったり会ったんです。夕食はそこのレストランでご一緒したのでその時に伺いました。あの方の寝起きの悪さなんて誰も知らないだろうからこの時間に持って来たんです。手帳に記されていましたが、いくら読んでたとは言っても全部を覚えるのはさすがに無理でしょう」

 小野坂の返答に川瀬は、なるほどと納得して大きな瞳を見つめていた。

「わざわざありがとうございます」

 堀江は頭を下げてから、鵜飼同様朝食を勧める。

「そうはいきません」

 またも断る小野坂の腕を掴んだ村木は、強引に自身の隣の椅子に座らせる。

「何でそう強引なんだよ? 今更なんだけど」

「そっちこそ、誘いをむやみに断るでね」

 痴話喧嘩を始める二人の前に、川瀬が出来立ての朝食を並べる。

「冷めないうちにどうぞ」

「あっ、ありがとうございます」

 彼の冷静過ぎる応対に小野坂はようやく抵抗を止めた。六人は食卓を囲んで朝食を摂り始める。川瀬特製の美味い賄い飯に舌鼓を打つ中、小野坂は丸パンを手に取って半分に割る。

「パンの取引先、換えられたんですね」

 彼は嬉しそうにそう言うと、ちぎったパンを一口かじる。すると村木が『パーネ』から取引を打ち切ってきたことを話した。

「んで、ペンション組の三人と相原親子とで話し合って、『アウローラ』って四月に出来たばっかのパン屋との取引を決めたんだべ」

「やっぱあそこにしたんだな。打ち切られたんならしょうがないんじゃない?」

「ですよね? むしろ棚ぼたですよ」

 かねてよりパンの取引先を換えたがっていた根田にとっては嬉しいニュース以外の何物でも無いのだが、地元っ子の鵜飼や、かつて美味しかった『パーネ』の味を知っている川瀬や村木にとっては、堀江と根田には分からない複雑な感情があるようだ。

「昔は美味しかったんだべ、特にこしあんパンはグルメランキングで常に上位の人気商品でさ。四代目がちゃんと受け継いでただけに、去年久し振りにまくらったらガッカリを超えて悲しくなっちったさ」

 鵜飼は老舗パン屋のクオリティーを残念がるが、新しい取引先のパンの味には満足していた。

「したって三代目には誰にも勝てね」

「そんなに凄かったんですか? 『パーネ』の三代目って」

「んだ、もう神の領域」

 鵜飼は三代目のこしあんパンの味の記憶を辿りながら嬉しそうに言う。その言葉に村木が頷いてパンを頬張り、それぞれが思い思いに遅い朝食を満喫した。


 食後、客室のベッドメイキングにかり出されている川瀬に代わって小野坂が厨房で食器を洗っていると、堀江がカフェの片付けを終えて厨房に入った。

「すみません、こんなことまでさせてしまいまして」

「いえ、タダで食事をさせて頂いたんだからせめてこれくらいは」

 小野坂は慣れた手付きで食器を手際良く洗っており、堀江は彼の厚意に甘えてカフェ営業の準備に取り掛かる。入れ替わるように外の掃除を終えて戻ってきた村木は、久し振りに『オクトゴーヌ』に居る友を嬉しそうに見つめている。

「懐かしいべ、智がそこに立ってんの」

「んな呑気なこと言ってんなら店戻れよ。遠さん、待ってんじゃないのか?」

「大丈夫だべ、そん時は連絡来るしょ」

 村木は持っていたほうきとちりとりを片付けて厨房に入り、手を休めず真面目に働く小野坂の姿を見ていると何かに気付いてあっ! と声を上げる。

「智って今二十八だべな?」

「あぁ、でもそれが何だ?」

「いやさ、ここにいる皆一つずつ歳が違うんだべ。因みに智が一番上で、義君、オレ、仁、信、悌の順」

「あっそう」

 小野坂は興味無さげに返事をして、洗った食器を丁寧に拭いている。そこへベッドメイキングを終えた川瀬が、あとの作業を鵜飼と根田に任せて厨房に戻ってきた。

「ありがとうございます、助かりました」

「いえ、食事のお礼です」

 小野坂は先程とは打って変わり丁寧な口調で話す。まだ二度目の面識でさほど親しくないのだが、友の態度に村木はあまりに扱いが違い過ぎると不満を見せた。

「なして義君にはそんなに丁寧にくっちゃるんだ? オーナーの仁にもそこまででねし、オレに至っては扱い雑すぎだべ」

「一応歳上の俺に敬語すら使わない奴に言われたくねぇ」 

「智に敬語? 今更かい?」

 自分勝手な村木と短気な小野坂は再び痴話喧嘩を始め、川瀬はただただ苦笑いしている。食器を洗い終えた小野坂は今度こそここを出ようと荷物を掴むと、そのタイミングを見計らっていたかのように堀江が厨房に入った。手にはペタンコの封筒を持っており、それを彼に差し出す。

「大した金額ではありませんが、お受け取りください」

「アルバイトでもないのに受け取れませんよ」

 堀江の厚意を辞退した小野坂は、それじゃと外へ出ようとする。堀江は何とか引き留めようとして、ここで働きませんか? と急なことを言い出した。

「いきなり何を言い出すかと思えば……」 

「でも『DAIGO』へお戻りになっても受け入れる空きは無いそうですよ」

「元々そんなつもりありませんよ。それよりどいてもらえませんか?」

 小野坂は鬱陶しそうに堀江を見る。つい先程旦子がここに来た事を伝えると小野坂の表情が変わる。

「東京のご自宅、引き払われたそうですね。後ほど大悟さんがここにあなたの荷物を運び入れてくださるそうです」

 小野坂は昨夜旦子から、早朝のうちにホテルをチェックアウトし、家に荷物を置いて『オクトゴーヌ』に行けと指示されて今に至っていることを思い出した。まんまとはめられた……それに気付いてバツ悪そうに顔をしかめる。

「実のところ三人ではキツイです、あなたのような即戦力が必要なんです」

 小野坂は大きな体を折り曲げている堀江の姿に困惑していた。

「ちょっと待って、俺みたいなのを雇ったらきっと後悔します。時には人の人生を左右するような事を言ってしまうかも知れません」

 堀江からの誘いは嬉しかったのだが、どうしても五年前の出来事が脳裏をかすめて躊躇してしまう。

「五年前のことですよね? “あの時の事”は決してあなたに非がある訳ではありません。その方でしたら単純に足を滑らせただけだったそうで、今は故郷で元気に暮らしていらっしゃいます」

 堀江はきちんと事情を知っており、五年振りに“あの時のこと”の全貌が明らかになった。これまでその女性客は身投げしたと思い込んでいた小野坂は、自身の誤解であったと分かって力が抜けてしまい、近くの椅子に座り込んで一つ息を吐いた。

「俺の暴言関係無かったのか?」

「したらこいたしょ。オメエのせいでねえって」

 村木は放心状態になっている小野坂の側に歩み寄る。

「んで、どうすっぺ? スカウトされてっけどさ」

「急にそんなこと言われても」

 小野坂はこの誘いにまだ迷いがあり、“あの時の事”が解決したところでそこに乗っかってしまう事にいくらかの抵抗があった。ベッドメイキングを終えた鵜飼と根田もここに集っており、小野坂がどんな返事をするのかを見守っている。

「このご時世、こんなんなかなか無いですよ」

 鵜飼はここぞとばかり小野坂をけしかける。

「歓迎しますよ」

 川瀬は大悟さんそろそろ来る頃だよと根田に声を掛けて外へ連れ出した。

「ここまでお膳立てしてもらってまーだ逃げるつもりかい? 東京の家さ引き払ってんならいい加減腹くくれ」

 村木は小野坂の肩をバシッと叩き、腕を掴んで椅子から立たせる。堀江は真っ直ぐ彼を彼を見つめて次に発せられる言葉をじっと待っていた。

「後悔、しませんか?」

 と弱々しく訊ねる小野坂に、堀江はまるで安心させる様な優しい笑顔を見せる。

「しませんよ。それを気になさるのなら後悔させないでください」

「仰る通りだね」

 その言葉に頷くと、今にも泣き出しそうな表情になり、それを隠すかのように頭を下げた。

「宜しくお願いします」

「こちらこそ、宜しくお願いします」

 堀江は小野坂の手を取ると、ゆっくりと顔を上げて手を握り返した。二人の固い握手を村木と鵜飼が見届けて、この日から小野坂もここ『オクトゴーヌ』の一員として働くこととなる。

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