第15話 家に帰ると猿がいた

 何事もなく無事に家に到着。平和な現代では道を外れなければスライム一匹出てこない。

 これは道の周りに弱いモンスターが近寄らないように術式が掛けられているからでもあるが、弱いモンスターの方が人を警戒して出てこないせいでもある。

 いつものように帰宅したミリエルはいつものように玄関のドアを開ける。


「ただいまー」

「うきー」

「うわっ」


 するといつもとは違った物が屋敷の玄関ホールの中央に鎮座していて、ミリエルはびっくりして立ち止まってしまった。

 それは一見して猿のように見えた。円らな黒い瞳でこっちを見ている。ミリエルは見返してしまった。

 可愛い。ファンシーなぬいぐるみのような猿だった。

 しばらくお互いに見つめ合っていると、母ソフィーが横から姿を現した。


「あら、お帰りミリエル」

「ただいま」

「うきー」


 猿は呪縛から解き放たれたようにソフィーの足元に走っていく。母は優しくその猿を腕に抱き上げた。


「あら、甘えん坊さんねえ、ジーロ君は」

「ジーロ君?」


 赤子のようにあやされているその猿の名前だろうか。ジーロ君は随分と母に懐いているようだ。ミリエルもやっと呪縛から解き放たれて声を出した。


「どうしたのその……猿? 猿だよね?」


 近寄りながらのミリエルの疑問。娘の言葉をソフィーはだが優しい顔で否定した。


「ジーロ君は猿じゃないの。これはモッキーっていうれっきとしたモンスターなのよ」

「モンスター!? モッキ?」


 ミリエルは警戒して立ち止まってしまう。母の顔に警戒の色は無かった。娘のちょっとした誤りを優しく訂正する。


「モッキーよ」

『聞いたことがないモンスターだな』

「うん」


 モンスターというわりには敵意を感じない。モッキーと呼ばれるモンスターらしいジーロ君は落ち着いて素直にソフィーに抱かれている。まるで可愛いペットのように。


『モンスターならばここで狩りをするのか?』

「いやいや、ここで狩りをするのはちょっと」


 狩りという言葉を喋ったからだろう。母ソフィーがちょっと厳しい目をして忠告してきた。


「倒しちゃ駄目よ、ミリエル。モンスターと言っても、ジーロ君は知り合いのテイマーさんから預かった大事な生き物なの。彼女がしばらく用事で留守にするから母さんが二日ほど預かることになったのよ」

「ふーん、そうなんだ」


 テイマーという職業を知らないほどミリエルは馬鹿な子供ではない。テイマーとはモンスターや動物と心を通わせて使役する職業だ。そう学校の授業で習った。

 ミリエルがじっと猿……モッキーと呼ばれるモンスターらしい、名前はジーロ君……を見つめていると、ソフィーが腕を差し出して誘ってきた。


「あなたも抱いてみる?」

「うん」


 ミリエルは初めて見るモッキーというモンスターに警戒しながらも好奇心は抑えられず母の元まで近づいていった。

 母の手から猿を受け取って抱いた。緊張していた少女の顔が緩んだ。ジーロ君は暖かくて可愛かった。

 娘の反応に母ソフィーも笑顔になった。


「お姉さんは優しいねえ、ジーロ君」

「わたしお姉さん?」

「ジーロ君に比べたらね」

「うん、わたしお姉さん。ジーロ君、良い子良い子」


 しばらく動かしたり撫でたりしていると任せて大丈夫と判断したのだろう。ソフィーが言ってきた。


「ミリエル、母さんは少し片付けないといけない用事があるから。しばらくの間ジーロ君の面倒を見ててくれる?」

「うん、お母さん」

「それじゃ任せたわよ」


 母が去っていく。見送らず、ミリエルはジーロ君を抱きながらあやしてやった。中の人が話しかけてくる。


『これもモンスターなのか。森の奴とは違って随分と人に慣れているな』

「うん、多分テイマーさんが調教したんだと思う」

『テイマーか。俺の前には現れなかった職業だな』

「父さん達よりはマイナーな職業かもね。あ、そうだ」


 猿を抱いて見ながら、ミリエルはちょっと試そうと思ったことを閃いた。

 ジーロ君を床に下し鞄から本を取り出す。猿でも分かる初心者魔法だ。人によく教育されたジーロ君はじっとミリエルのやることを見ていた。

 そんなジーロ君にミリエルは本のページを開けて見せつけた。目線が合うように床に屈んだ姿勢になって、にやりと笑みを浮かべる少女。

 ジーロ君はミリエルの表情を気にせず、円らな瞳で本だけを見ていた。


「これ読める? 猿には読めないかなあ」

『お前、何を猿に対抗意識燃やしているんだ』

「燃やしてないよ。本当にこれが猿にでも分かるのか試したいだけよ」

『猿じゃなくてモンスターだと言っていただろ』

「同じよ、見た目が猿なんだから。さあ、どう、ジーロ君。これが分っかるっかなー」


 ミリエルはお姉さんとして上から目線だ。ジーロ君は素直に本を見ている。中の人は呆れたように息を吐いた。


『やれやれ、どうなんだ? ジーロ君』

「うきーうきー……」


 少女と少女の中の人。一人に見える二人の前でジーロ君はしばらく不思議そうに本のページを見ていたが……


「うきー!」


 やがて何かを閃いたかのように嬉しそうな声を上げて両手を打ち鳴らした。猿のようにバク転して宙返りして距離を取る。身軽な猿だった。ジーロ君の手が主であるミリエルに向かって翳される。


『ん? 何か試すつもりなのか?』

「さあ」


 猿の考えなんてミリエルに分かるわけもない。だが、思考はすぐに行動となって表れた。


「うきー、うきーうきーうきー、ファイアボール!」

「今喋った?」


 呑気に驚いている暇は無かった。


『いかん! 避けろ、ミリエル!』

「ええ!?」


 とっさのことで何を避けたらいいのか分からない。

 中の人の意思がミリエルの体を強引に横に引っ張った。猿の放ったファイアボールがさっきまで少女のいた場所を通り過ぎていく。


「うきー、うきーうきーうきー……」


 ジーロ君はさらに魔法を詠唱しようとする。ミリエルは慌てて止めようとしたのだが、


「ファイアボール!」


 詠唱の完了の方が早かった。魔法は再び放たれてしまう。ミリエルは今度は自分の意思で横に転がって避けた。

 魔法の撃たれる方向は猿が向けている手の位置で分かるし、真っすぐ飛んでくるのでタイミングが分かれば避けるのは簡単だ。

 だが、ミリエルは別にこのまま避けるのを楽しみたいわけでは無かった。面倒なことを教えてしまったと後悔するがもう遅い。

 ジーロ君はお姉さんに遊んでもらっていると勘違いしたようだ。嬉しそうに跳びはねて再び魔法を詠唱していく。ミリエルはやばいと焦った。

 屋敷の玄関ホールは広いし、壁はちょっとの魔法は防げる材質で出来ている。

 今はまだ燃え移るほどの威力ではないがこのまま続けさせるのは危険だ。

 魔法を不用意に子供に教えては危険だ。今更ながらに先生の言っていた教えを理解してしまう。

 どうしようと困っているとソフィーが戻ってきた。


「どうしたの? 騒いだりして。ちゃんと面倒を見てくれてる?」

「お母さん! ジーロ君が魔法を……」

「魔法?」

「うきーうきー!」


 母にも見せたいのだろう。さらに嬉しそうに跳びはねてジーロ君は魔法を詠唱しようとする。自慢の物を見せたがるお猿さん。賢い母ソフィーはすぐに事情を察した。


「アンチマジック!」


 即座に呪文がジーロ君の詠唱を封じる。

 それでもジーロ君は何とか撃とうと跳びはねているが、母の呪文封じの束縛から抜け出すことは出来なかった。

 ソフィーはそっと跳ね続ける猿を抱き上げる。ジーロ君はすぐにおとなしくなった。


「さて、どうしてこんなことになったのか……ん?」


 原因を探る母の目がミリエルの持つ本を見た。隠すことは出来なかった。黙って両手で持ち上げて見せる。母はそのタイトルを読み上げた。


「猿でも分かる初心者魔法。今はそんな本があるのね」

「うん、ごめんなさい」

「魔法は不用意に扱うと危険だって習わなかった?」

「習った」


 ミリエルは怒られると覚悟したが、母の手は娘の頭を優しく撫でてくれただけだった。ミリエルは驚いて顔を上げる。母の目は優しかった。


「大丈夫よ。魔法はちゃんと使えば役に立つものだから。でも、ジーロ君に教えるのはまだ早かったみたいね。忘れさせてくるからもうその本をジーロ君に読ませちゃ駄目よ」

「うん」


 そして、優しい微笑みを残して母はその場を立ち去っていった。ジーロ君を連れて。

 姿が見えなくなるまで見送って、玄関ホールに一人立ち尽くす少女に中の人が話しかけてくる。


『あの本の魔法、本当に猿でも使えたのだな』

「うん、猿じゃなくてモンスターだけどね」

『うっきーと言ったか』

「モッキーよ」


 軽口を交わし合いながら、そっと鞄に本をしまう。


「やっぱり家で試すのは止めよう」


 そう静かに決意するミリエルだった。




 父が帰ってきて、家族と一緒に過ごす晩御飯の席。ジーロ君もおいしそうに母の用意したモンスター用の食事を食べていた。


「うきーうきー」


 その猿だが、ジーロ君はもう魔法を唱えることは無かった。母が言ったように忘れさせられたのだろう。

 不安が無くなったのはいいことだけど、せっかく覚えた魔法を使えなくなるなんて、なんだかもったいないなと思うミリエルだった。

 猿は何も考えてないような顔でただ餌を食べていた。

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