エピローグ

第31話 彼女は、今。

 あの日から一年後、一九四一年八月十五日、午前九時三十六分。

 私は元いたコンティオ ラハティ駐屯地を訪れていた。

 四月なのに、今日は寒い気がする。初旬のフィンランドにしては、今日の気温は低い方だと感じる。

 いつ見てもでかい駐屯地。私服ではあるが、通るのに支障はないだろう。

「本当に?」

 ガルアットの声が頭に響く。

「本当だよ、ここのみんなは覚えていてくれてるんだぞ?」

「シモ!」

 不意に声が聞こえ、私は振り返る。

 と、同時に何かを投げられ、私は慌てて受け取った。

 私の好きな、微糖のホットコーヒーだ。

「よっ、久しぶりだなぁ」

「ユーティライネン中尉……! いえ、大尉!! お仕事の方は……」

「なぁに、今日は休暇よぉ。傷は大丈夫なのか?」

 そう言われ、無意識に傷に触れてしまう。

 あれから幾度となく手術をしていたお陰かガルアットのお陰かは分からないが、奇跡的に顔の原型が留められたのだ。一時は崩れかけてどうなるかと思ったけど。

「えぇ、大丈夫です」

「そうかいそうかい、それなら良かった!!」

 わしゃわしゃと頭を撫でられる。

「あっちょっ、やめてくださいユーティライネン大尉、私の髪がっ……」

「はっはっは! 女の子はボサボサの方が可愛いんだよ!」

 慌てて手ぐしで髪型を整える。

 調子のいいお方だよ、全く……。

「およ? そう言えば、ガルアットの野郎は?」

「野郎とは失礼な! 僕はここにいますよ、ユーティライネン大尉!」

「おぉ!? 今度は何に化けてやがる!!」

「麦わら帽子ですよ、麦わら帽子!」

 ボフンッと煙を散らし、ガルアットは元の姿に戻る。

「お久しぶりですっ!?」

 声をあげた途端、案の定ユーティライネン大尉に抱きつかれ、ガルアットは困惑していた。

「おー! 見ないうちにでっかくなったなぁー!」

「そりゃあ一年も経てばでかくなりますよぅ……」

「まぁここで立ち話もあれですし、どこかに場所を移しません?」

「それもそうだな! コルッカの部屋に行くか!」

「なんであの子の部屋なんですか!」

 まぁ、断っても強制的に連れていかれるので……私はもう何もしないことにした。

 いつ見ても変わらない駐屯地の光景。ここはいつもそうだ。少しさみしい気持ちに覆われ、もどかしくなった私はユーティライネン大尉の背中を見る。

 とても頼もしい背中だ。いつも追って来ていたと言う訳ではないが、それでもモロッコの恐怖と呼ばれるほどの迫力はある。

 思わず後ずさりしたくなるような圧力に耐えながらも、その後を追っていった。


 ***


「シモナさんお久しぶりですいでっ」

「あっいつものだ」

 出会ってまず、私が一発叩いてコルッカが抱きつく。最近はそれが私とコルッカの挨拶がわりだ。

 コルッカの部屋は相変わらず色々と転がっている。ものの整理ができない彼女の癖だ。

「久しぶりだなコルッカ、元気にしてたか?」

「はい! そりゃあもう全然元気ですよ!」

 歯を見せて笑うコルッカにつられ、私も笑ってしまう。

 やつれる様子もなく元気にやっている姿を見るとほっとする。彼女の笑顔は、もしかしたら私の安心感と共通しているのかもしれない。

「あれ? 髪切ったんですか?」

「え? あー……うん」

「似合いますねー!」

 実はあれ以来、髪を伸ばしていない。

 その代わりにある程度縛れるまでの髪の長さまでに切っており、縛っているリボンはと言うと、

「あ、私のリボン!」

 コルッカがあの時くれた、白と青のリボンだった。

「コルッカ! ちょっと来てくれ!」

「あ、はーい! それじゃあシモナ少尉、ユーティライネン大尉、失礼します! 御二方はここにいてらして構いませんよ!」

「私はもう軍人じゃないってば……」

「ははっ! 行ってこい!」

 とは言いつつもしっかりと敬礼してしまうあたり、私も軍人として抜けていないんだなぁと感じてしまう。

「それにしても、よく分かりましたね、私の好みのコーヒー」

「いつも飲んでいたのを思い出してな。丁度買っていただけの事さ」

「へぇ……」

「それにしても元気そうで何よりだ。また戦場復帰してもらいたいところだが、さすがにそうにもいかんだろう?」

 そう言われ、私は少しだけ考える。

 まぁそうですね、なんて一言零すと「そうだよなぁ……」とどこか思い悩めている大尉の顔色が伺えた。

「……なにか、あったのですか?」

「うーん。シモナ、最近のニュースで、ドイツが敵視されているのは知っているな?」

「あー……えぇ、まぁ」

 実はこの年の四月、ドイツがデンマークとノルウェーに侵攻をして、占領している状況だった。

 そのため今、フィンランドからスウェーデンやノルウェーと言った西側の入国ができない状態にある。

 ドイツが動き出したとすれば、考えられる結論はただ一つ。

「戦争の……始まり」

「そう言うことだ」

 コーヒーを飲みながら、ユーティライネン大尉は呟く。

 湯気の立つ自分のコーヒーを見ながら、私は考える。

 もし、また戦争が行われるとして、自分は出る権利があるのだろうかと。

 ……いいや、出る資格などないだろう。

 皆よりも倍の数、人を殺している。きっと、出る枠はもう訪れないだろうと。

「もしものことがあったらまた頼みたい。いいかな?」

「お言葉ですが大尉、それは命令ですか?」

「あっはっは! そうだと言ったらどうする!」

「黙って出ますよ」

「じゃあ違うな!」

「じゃあってなんですかじゃあって!」

 飽きれ混じりのため息が出てしまう。

 そんな私を見てなにを思ったのか、ユーティライネン大尉は「シモナ、何かいいことでもあったのか?」と不思議そうに問いかけてきた。

「どうしてそのようなことを?」

「ん、いやぁ表情が豊かになったと思ってさ」

「?」

 確かに笑う機会は沢山あった。でも、表情が豊かになったとは自分では思っていない。

 ここ最近、狩猟仲間からもそのようなことを言われる。ガルアットからも、一緒に暮らしているマリアやヒルヤからも。

「一年前、お前は負傷をして眠っていただろう。その時に夢を見ていたとお前は言っていた」

「……」

「それは一体、なんの夢を見たんだ? 差し支えなかったら、教えてほしい」

 あの時の夢。

 それは、私が負傷した時に見ていた夢のこと。

 儚い、家族の夢。

「夢の中で、懐かしい家族に会って来たんです」

「家族?」

「えぇ、今一緒に暮らしているマリアです。幼い頃の私が出て来ていたので、おそらくは私が七歳の頃かと」

「へぇ……不思議なこともあるものだな」

「ほんとですよね。私も驚きましたもん」

 クスクスと笑ってみせた。

 ガルアットはその光景を黙って見ている。手に取るようにとまでは行かないが、おそらくこう思っているのだろう。

『珍しい』と。

「そういえば、なんで日本語が話せるんだ?」

「あれ、話しませんでしたっけ?」

「親父は覚えてないねぇ、物覚えが悪いから」

 日本語が話せる理由。

 そう言われても、と言いかける。

 少し考えてみた。

 ルトアやガルアット以外に、このことを話した人はいないのではないかと。

 信じてくれるだろうか。まずはそこからが問題なのだが……。

「……大尉は『前世』を信じますか?」

「俺としては信じるぞ?」

「信じるんですか?」

「前にそう言うことを聞いたことがある。前世の記憶を持っている人は、場所、出来事、名前、どこに住んでいて、どう言う経緯で死に至ったのか、正確に言えるそうだ」

「私がその類なんですけど……」

 控えめに答えると、ユーティライネン大尉は「おっと、そりゃあ失礼」と苦笑いをする。

 場所……経緯、か。

 思い出したくない記憶まで覚えているのはいささか嫌な気持ちになるが、その思い出したくない記憶や過去を親身になって聞いてくれるこの方は分かってくれる人だというのは、昔から知っている。

「じゃあ聞こう。家族構成は?」

「父、母、妹の四人家族です。前世の名前は『月見里心寿』でした」

「日本の名前じゃないか。だから日本語が話せたのか……」

「黙っていて申し訳ないです。信じてくれない人の方が大半だと知っているので」

「確かになぁ……。その、ヤマナシ? はどうやって書くんだ?」

 そう聞かれたので、ポケットに常備しているメモ帳に『月見里心寿』と漢字で書いてみせた。

 興味深々で私の前世の名前を見るユーティライネン大尉。

 フィンランドは意外と日本人が多い。だけど、私はあまり会ったことがない。

「すごいな。これでやまなしと読むのか……」

「えぇ、でもつきみざととよく読まれましたよ」

「それは読み間違いでと言うことか?」

「そうです……」

 前世でこの名前を書くと、必ずと言っていいほどの確率で『つきみざとしんじゅさん?』と、さも当たり前かのように読み間違えられたことを思い出す。

 日本にはあまりいない苗字だと言うことを伝えるとユーティライネン大尉は大層驚いていた。

「そうか……。夢の中では、その家族には会わなかったのか?」

「残念ながら会いませんでしたね。会えればよかったのですが」

「きっと会えるさ、大丈夫」

「……そう、ですね」

 大丈夫。私も信じていますよ。

 この時代では、まだ心寿という存在はまだ産まれてもいないし、そもそも父も母もまだ学生くらいなのでは……。

 そもそも出会ってすらいないじゃん、なんて思いながらも、私は言葉をつなげた。

「そうですね……表情のことで一ついえるとすれば、目が覚めた時でしょうか」

「目が覚めたとき? 意識が回復した時のことか?」

「はい。目が覚めて、あの病室の白い天井が見えた時……私の中で、何かが吹っ切れたんです。シモ・ヘイヘのなんて言うすごい名前で生を受けて生きている今ですが、『心寿』のまま生きてきてもいいんじゃないかって思って」

「なるほど……」

「夢の中の姉に、ただ一言言われたんです。『行っておいで』って。多分、その一言がなかったり、ヒルヤが見つからなかったら、今の私はきっと無表情の死神のままでした」

 行っておいで。

 あの一言は、私のあることを思い出させてくれた。

 それは前世の、今まで忘れていた一つの記憶。二本の角を生やした鬼が、私───、つまり、心寿に言ったのだ。

『まだ心寿と、一緒に死への道を歩みたかった』と。

 ずっと思い出せなかった、たった一つの小さな、酷く儚い言葉。

 おばあちゃんになっても、目が見えなくなっても、ずっと一緒だよと、私から約束したのだ。

「こんな夢一つで惑わされるなんて愚かな生物だって、そう思うでしょう?」

「……」

 寂しくなったのか、ガルアットが頬擦りをしてくる。それを頬で受け止め、彼の頭を撫でながらまた呟いた。

「その通りなんですよ。皆愚かな生き物なんです。……本当に、愚かな死神です。シモ・ヘイヘなんて、私には似ても似つかない名前です」

 苦笑いをこぼし、私はそうとだけ言った。


 ***


 駐屯地の皆に挨拶をして、私は駐屯地を出る。

「シモ少尉、お気をつけて」

「だからぁ、私はもう軍人じゃないってば全く……」

 ひらひらと手を振り、また前を向いた。

 退院した後、私はマンネルヘイム元帥と再会し、色々と表彰を受け……兵長から少尉と、何故か五段の昇級を駆け上がった。

 これには私もガルアットも驚いた。私ら何かしたっけと自分たちを疑ったが、どうやらマンネルヘイム元帥が私を大層褒めてくれていたようで、その時の気分というものらしい。

「何ということやら」

「あぁ全くだ、気分とは恐ろしいものだねぇ」

 なんてあの時は言っていたが、今考えれば怖いこと極まりない。

 やはりあの二方には敵わないと私もガルアットも同時に感じた。

「ほんで? わざわざこんな早くに出た理由は?」

「ん? あぁ、まぁ、うん……ちょっとした理由があって」

 現在の時刻は午前十時半。

 これからあるところに向かわなければならない。

 姉もヒルヤも連れて、大事なところへと。

 そのため、姉とヒルヤにはどこかで朝ごはんを食べて来てくれるように言ってある。

 集合場所はヨエンスー駅という、北カルヤラ県の有名な駅。

 ここからは遠いので、ユーティライネン大尉が車を出してくれると言うので言葉に甘えることにした。

 車の中で、私は考える。

 私、何かしたかなぁと。

 どうして私なんかがこの名前を、この人生をと、今でも考える時がある。

 と、幼い時に一度考えたことを、もう一度考え直す時もある。

 その時に思い出すのは、母カトリーナの一言。

『大丈夫。シモナは、シモナのままでいいの』

 ここ数年、両親とは連絡を取っていない。唯一取っているとすれば、アンッティやトゥオマスの兄さん達くらいだろうか。

 ヘルシンキの方で元気にやっているそうだ。会おうと姉がうるさいので、行くついでに三人でアンッティの家に突撃しに行こう。

 そうこうしているうちに三十分、ヨエンスー駅前に着く。

 雪道だと進みにくいので、夏先の頃合いで助かったと思う。

「シモナ」

 呼ばれた声に返事をするまもなく、私に向けられてなにかを投げてきた。慌てて受け取ると、それは小さな布に包まれた小物であった。

「これは……」

「開けてみたら分かるさ」

 そう言われ開けてみると、片手の平ほどの小さなブローチがあった。それはルトアがヘイヘ家に来た時から肌身離さず持っていた大切なブローチである事を、私は察してしまった。

「元帥がソ連の野郎から預かった唯一の遺品だ。俺が持っていても仕方ないから、それはお前にやる」

 クラシカルな、藍色の綺麗なアクアマリン製のブローチ。

 血に染まった私の瞳とは打って変わって逆の色だ。所々に赤いシミがついていて、当時の物をそのまま持ってきたのだとすぐに感じ取れた。

「ちゃんと伝えてこいよ」

 右手の親指を立てながら、ユーティライネン大尉は言う。

「……はい、ありがとうございます」

「また会えたら会いましょ!」

「おうよ! そんじゃ!」

 走り去るユーティライネン大尉を見送り後ろを振り向く寸前、誰かに抱きつかれる感覚を覚える。

「だーれだ」

「ヒルヤ」

 妹、ヒルヤの声だ。一年経っただけで身長が五センチも伸びたらしく、今は私よりも身長が大きい。

「あまりの即答さに全私がツマンネと感じた」

「おまえなぁ……」

「ふふっ……さ、行きましょ、シモ、ヒル。お姉ちゃん車持ってきたのよ」

 私の横に来た姉、マリアがそう言い、駐車場へと歩いていった。


 ***


 そうして車で二時間ほどで着いた先はフィンランドの首都、ヘルシンキ。

 そこから歩いて二十分。

「うわぁ……お墓がいっぱい……」

 フィンランド兵の眠る戦争墓地……ヒエタニエミ墓地だった。

 私の仲間や、ツツリ、コルトア、ルトアやカトリの姉さんも、ここに眠っている。

「ねぇシモ。カトリのお墓参り、本当にいいの?」

「あいつに言う言葉は、あいつが生きてる時に言ったから。別にいい」

「そっか……じゃあ、お姉ちゃんとヒルヤはカトリのところ行ってくるね」

「ん、分かった」


 ***


「そういえばシモナ、僕一つ思い出したことがあるんだ」

 コルトアとツツリの墓参りが終わり、歩いている途中で麦わら帽子に化けているガルアットは突然そんなことを言い出した。

「なにそれ?」

「僕は鬼だったんだよ」

「え、鬼?」

「そ。だから、一年前の僕がシモナを治した時、僕は鬼の姿になっていたのさ」

 あぁ、そういえばコルッカがあの時そんなことを言っていたっけか。

『鬼の姿になって、シモナさんの傷を治したんです』なんて、言われた時は冗談かと思って聞き流していたが、今になってよく考えてみれば、人間の姿にすら成り得なかったガルアットがどうして人間……いや、鬼の姿になったのか不思議であった。

「思い出したんだ。全部全部」

「本来の記憶を?」

「うん。僕は昔、日本の鬼の集落にいた一人の鬼だったんだ。性別が男だったのに、皆僕の事を『姫』って呼ぶんだ。変だよねぇ」

「確かに、そう言われれば変だな」

「多分、あだ名が『鬼姫』だったからなんだと思う。なんで姫って呼ばれていたのかはあまり覚えてないけど、いつのまにか呼ばれていたんだ」

「ふぅん……」

 草むらと靴の擦れる音がして、風に少し煽られながらも、私は前に進む。

「嫌気がさして、逃亡したさ。朱雀に乗ってね」

「ふぅん……ん? 朱雀って……」

「僕がいた世界は、中国の四神相応や四霊と仲の良かった日本の古ーい時代なんだ。でも古い時代なのにタイムマシンとか時空間を歪めたりだとか、色んなことが出来た時代でもあった。だから、僕は召使いの反対を押し切ってフィンランドに逃げ込んできたんだけど……」

「けど?」

「多分逃げている最中に時空間を歪める時間帯を間違えたんだろうなぁ……そこから意識を失って、気がついたらこんな未来まで来ちゃってたって感じ」

「変な話。でも、面白いね」

「あらシモちゃん、久しぶりねぇ」

「……あ、コルトアのお母さんに、ツツリのお母さんまで……どうも、ご無沙汰しています」

 声をかけられ、声の主を見てみると、コルトアとツツリの母達だった。

 随分見ない間に、背が縮んでいるようにも思える。

「もしかしてあの子のお墓参り? それなら、ここの角を左に曲がったところよ」

「本当ですか? ありがとうございます」

 一例をして、私はまた進む。

 鬼……鬼、ね。

 左の角を曲がり、私は考える。

 小学五年生のあの日の事を鮮明に覚えてる訳ではないが、確かに鬼に出会って、生活を共にしていた記憶はあるのだ。

 現代日本人が思っているほど、鬼は怖くはなかった。親身になって接してくれて、異界人とも呼べる私を、差別などせずに同じ者として受け止めてくれたあの鬼たちは、ある意味現代日本人よりも優しいと言えるのかもしれない。

「……さて」


 一つの墓の前で足を止める。


『Andrea』


 墓にはそう書かれていた。

 が、私よりも先客がいたらしく……私にとって見覚えのある女性がそこにいた。

「……アンリ?」

 その女性は振り返る。

 私を見た途端パァッと明るい表情をして「シムナ? シムナね、シムナなのね!?」と元気よく声を上げた。

「うん、そうだよ」

「やっぱり! 久しぶりね!!」

「久しぶり、アンリもここに来てたんだね」

 アンリ・カーサライネンはかつての狩猟仲間。ただ、私が十六歳の時に北カルヤラ県のリエクサに引っ越したから、狩猟仲間の中でも知らない人もかなりいると思う。

 今でも、リエクサの方で狩猟をしているそう。アンリらしいと一笑すると、彼女もつられて笑っていた。

「ルトアが死んだなんて信じられない……。遺品とかは持ってるの?」

「ん、あぁ、うん。これ」

 と、ユーティライネンから受け取ったブローチをアンリに見せる。

 間違いなく彼の物だと、アンリは言った。

 理由を聞いてみた。すると、『あの子の瞳と同じ色だから』と、儚げに笑みをこぼして答えた。

 確かに、ルトアの瞳は藍色だったと言われてようやく気づく。

「ねぇシムナ」

「ん?」

「シムナの目から見て、戦場のルトアは輝いてた?」

 そう言われ、少し戸惑う。

 私は後方援護、ルトアは最前線だったのだから。

『シモナ、死ぬなよ』と言われ、捕虜の地に踏み入れルトアと再会したのを最後、彼とは何も話していないのだから。

 勇敢に立ち向かうあいつの姿は、確かに輝いていたのだろう。

 ……だけど、

「……軍人は、戦場にいるから輝ける存在では無い。勝利を掴んで、平和を祈ってこそ……ずっと語り継がれる、輝ける存在なんだよ」

「シムナ……」

「でも、きっとあいつは輝いていたよ。大丈夫、あいつの目は死神なんかじゃないさ」

 私とは違う。

 来た時は私のような寂しい目をしていたが、時が経つに連れてその寂しい目は無くなっていた。

「そっか、それならいいわね」

「?」

「いいえ、なんでもないわ。それじゃあ」

「あ、まって」

 咄嗟に呼び止める。

 キョトンとした顔で私を見るアンリに、私はとあるものをアンリに渡した。

「……これって……」

「コルトアが、もしアンリに会った時に渡しておいてって、死ぬ前にくれたもの。アンリが持っていた方がいい」

 コルトアはあの時、一瞬だけ意識を回復させた時があったのだ。

 その時に、『アンリに会う機会があるんなら、これ渡しておいてくれ』と、そう言われて受け取ったものだった。

 それはネックレスだった。緑色の鉱石に小さな穴をあけ、そこにネックレス用の紐を通したコルトア手作りのものだった。

 引っ越す寸前に渡そうと思っていた物を渡しそびれたらしい。

 まさかこんなところで会えるなんて思ってもいなかっただろうに。それもコルトア、お前が眠る墓場の近くで。

「ふふっ……シムナは優しいのね」

「どうして?」

「自分のものにしないんだもの、それでいてそれを忘れないでいてくれるんだもん」

「そう言われてもねぇ……」

「ま、たまにはリエクサにも遊びに来なさいね! それじゃ、ありがとう!」

 ニコッと笑い、アンリはその場から歩き去っていった。

 それを見送った後、私はルトアの墓の前に立ち、花束を手向ける。

 シオン、ディアスキアの花は、風に煽られ小さく揺れる。

 それを結ぶ黄色と黒のリボン。手前側の方に、淡い円型の破れた跡がある。

 まるで、、そんな跡。

「ルトア……ううん、、やっと来れたよ。遅くなってごめんね」

 手を合わせながら、私は呟く。

 ガルアットは小さな鬼の姿になり、同じく手を合わせている。

 この鬼の姿こそが、彼の本来の姿なのだ。

「まさか名前を偽っていたなんて。知った時はびっくりしたよ」

 白いワンピースを身にまとった私をガルアットは見つめてくる。

 珍しいとでも思っているのだろうか。それはそれで恥ずかしい気持ちになる。

「……また戦争が始まるんだって。もしかしたら、私も出動するかもしれない。その時は、静かに見守っててくれると嬉しいよ」

「幽霊になってってこと?」

「そういうことさ。……あと、さ。あの時、ルトア言ってたこと、私もオウム返しするよ」

 立ち上がって、私は呟く。

 あの時言っていた言葉、それはソ連の地に踏み込んでルトアと再会した時、彼が言った言葉だった。

「……ありがとう、

 脳裏にルトアの面影が蘇る。

 あの笑顔を、声を、もっと聞いていたかった。

 もし生きていたら、思いっきり抱きしめて、大好きと言いたかった。

「……ご、めんなさ……ごめんなさい……本当に、本当にごめんなさい。直接、言いたかった……ずっと、見ていたかったのに」

 声を大きく放ち、涙が溢れた私はそのまま俯いた。

 ……とその時。

 ぶわっと強く、体制を崩すほどの風が巻き上がる。

 風に煽られ、快晴の青空に色とりどりの花びらが舞い上がる。

 顔を上げて、私は溢れる涙を気にも止めずにそれを見ていた。

 見惚れるほど綺麗なその光景を、ルトアや、ツツリやコルトアに、見せてあげたかった。

 命を奪う側になってから、いつしか考えたことがあった。

『命って、こんなに簡単に奪えたっけ』と。

 幸せは待ってくれない。それは分かっている。

 でも、天に登った戦士達にも、幸せがあってもいいと思っている。


 手向ける花に、大いなる戦場の祝福を。


 儚く花びらを散らした戦士達に、万雷の幸福を。


『祖国のために、愛する者のために、私達は死んだ未来を生きている』


 その事を忘れないように、私達は今日を生きる。


「シモ! そろそろ行くよ!!」

「ねえね、行こうっ!」


 冬戦争のわずか一〇〇日間、確認戦果五〇〇人以上、サブマシンガンでの射殺人数ニ〇〇人以上、計戦果は七〇〇人にも及んだ。

 儚きその英雄は後に『白い死神』と称され、ソ連軍から恐れられた。


 フィンランド兵を勝利に導いたその者の名を、


「今、行く」


 ──────スオミの人々は『シモ・ヘイヘ』と呼んだ。


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