第30話 私の、私たちの

 ────気がつけば、そこにいた。

 白銀の世界が広がる、雪の平原。

 撃たれた左顎は元の形になっていた。ということは、ここは夢の中なのだと確信できる。

 服を見れば軍服ではなく、いつも来ている暖かいスカートだった。上にはコートも着ており、マフラーも巻いている。

 次に正面を見れば、私の懐かしい家があった。家族十人が住むにはとても足りない、三階建ての三角屋根の一軒家が、他の住宅と向かい合わせになるようにぽつんと立っていた。

 惹き込まれるように歩きだし、扉を開ける。

 鍵は特にかかっていなかった。まるで出迎えてくれているかのように。

 玄関に入ると、すぐに泣き声が響き渡った。

 驚いて靴を脱いで居間に入ると、一人の女の子が泣きながら長女マリアに抱きついている光景が目に入った。

「……ヒル……?」

 一瞬、ヒルヤだと思った。

 しかしそれは見間違えだということに気がついたのは、その女の子が長い髪の毛を結んでいるリボンの色だった。

 黄色と黒だ。ヒルヤが結んでいるリボンは、私と見分けがつくようにと赤と黒のリボンをしているはず。

 と、言うことは……。

「あらシモ、どうしたのそんな泣いちゃってー!! ほらお姉ちゃんハンカチあるから涙拭いて!!」

 マリアが慌ててその女の子の目元をハンカチで拭う。

 拭われているその女の子は、紛れもない幼い頃の私だった。

「ぐすっ……お姉ちゃん聞いてよ! ヒルがサルミアッキ取ったの!! ダメって言ったのに、全部食べられたのー!!」

 あぁ、こんなこともあったような。

 私はよく、妹ヒルヤとサルミアッキ(リコリス菓子)の争奪戦を繰り広げていた。

 カトリや他の兄姉に助けを求めて、結局はマリアの元へ行ったんだっけ。

 今となればどうでもいいことで喧嘩していたなぁと、少しだけ懐かしい気持ちになる。

 歯がゆい感情に包まれた私は、少しだけ笑ってしまった。

「あらぁそうだったの! だから泣いてたのね……ヒルに取られた分はヒルにあげて、お姉ちゃんお金あげるから、シモ一人でもう一個買ってこよっか!!」

「ほんと!?」

「お姉ちゃんは嘘はつかないわよ? ほら、出かける準備してきなさいな」

「うん!!」

 先程の泣き顔とは一変して笑顔に変わり、居間を出て出かける準備をしている幼い私。

 年齢からして、この時は八歳前後。マリアがカトリに撃たれたあの事件が起こる前の、わずか数日前の出来事だったような、そんな覚えがある。

「まってお姉ちゃん、カトリお姉ちゃんにマフラー取られてた!!」

 コートを着た幼い私が走ってマリアに報告をする。

 私がいつも巻いていたマフラーは、今の黒いマフラーではなく、北欧らしい白いマフラーだった。

「あらまぁ……じゃあお姉ちゃんの黒いマフラーあげる」

「くれるの? お姉ちゃん、お仕事いく時寒くない?」

「お姉ちゃんは何も寒くないから大丈夫。ほら、じっとしてて」

 そう言われた幼い私はきちんと気をつけをして、マリアにマフラーを巻かれている。

 大人用なのでかなり丈が余るが、その丈が余るマフラーが映画で見てきたなびくマフラーのようでかっこよくて、私は幼い頃から大好きだった。

 気づいているかもしれないが、私が今巻いているマフラーは、今この時巻かれているマフラーそのものだった。

 つまり言えば、これは姉マリアからの貰い物なのだ。質が丈夫で、ここ二十年使っていても全く破れも廃れもしない、不思議なマフラーだった。

「はいっ、巻けたー!」

「ありがと、お姉ちゃん!!」

「どういたしましてー!! んん~可愛いっ!! さすが私の妹!!!」

 ギュッとマリアに抱きつかれた幼い私は笑っていた。

 昔から姉好きの性格だ、いつも甘えてばかりだったことを覚えている。

「行ってきまーす!!」と、元気よく家を出る幼い私。

 純粋っていいなぁ。私も、今でも純粋でいられたらと強く願ってしまう。

 時刻は午後十六時頃。居間を出て二階に上がり、バルコニーに出向いて柵から顔を出す。ラウトヤルヴィの雪に包まれた小さな町中が、辺り一面に見えた。

「シモ?」

 ふと名前を呼ばれ、振り返る。

 なんで、どうして呼んだ、どうして呼ばれた? 呼ばれるはずなんてないのに。

 そう思い振り返った先にはマリアが立っていた。黒いマフラーを思わず軽く掴んで下にさげてしまい、口元が顕になる。

 懐かしい感覚に覆われた。

「……シモ、よね?」

「……」

 無言で頷く。

 そうか、私の今の歳はこの頃の姉と同じくらいの歳だろうか。

 ……いや、今は私の方が上だ。三十四だから、姉よりも十つは上だろう。

 言うなれば姉妹のように見えるだろう。

「そのマフラー、まだ付けてるのね……忘れん坊のシモのことだから、てっきりどこかに置いてってるのかと思った」

 私の隣にやって来て、柵に肘をかけて一緒に景色を見る。

 田舎な町だが、春になれば桜が咲き、夏になれば農家を営む者がおり、秋になれば紅葉が美しく、冬になれば白銀の景色が広がる。

 心寿として生を受けていた時、二月の旅行先の北海道で見えた『太陽柱サンピラー』が見えないかなぁと、冬の時期は大抵バルコニーに出てこの景色を見ていた。

 太陽柱サンピラーはここでは見えないことは分かっているが、それでも季節が変わる事に色々な姿を見せてくれるバルコニーが、ラウトヤルヴィという町が、私は大好きだった。

「今のシモは、だいたい何歳くらい?」

「三十……より越えたくらい。三十五歳かな」

「じゃあお姉ちゃんよりも十個上くらいなのね、追い越されちゃったわ……今、何してるの?」

「軍に入って、戦ってる」

「軍!? 危なくないの!? それに戦ってるって……」

「正直、危ないよ。でも、マリーやヒルや、お父さんやお母さんの為に、私は戦ってるの」

 柵にかけた腕に口元を埋めながら、私は言う。

 本当のことだ。行方不明になったヒルヤも、マッティやユハナ、アンッティやトゥオマス、カトリの野郎の為にも、私は今まで戦っていた。

「お姉ちゃんは知らないと思うから、今言っておく。カトリお姉ちゃんも、今は軍に入ってる。でもソ連の捕虜として捕まって、自殺したんだって」

「嘘、そんな……じゃあそのネックレスは……」

 私の首元にかけてあるネックレスに触れながら、姉は聞いたこともない声をあげた。

 フィンランドの国旗がアクセサリーとしてついている、姉カトリの遺品だ。

「その前にお姉ちゃんと会ったんだ。緊急で配属された所で偶然会って、久々に話をしたよ。その時にネックレスを渡されたの」

「そうだったのね……」

 姉の言葉が止まる。

 疑問に思い姉の方を向くと、心配そうな顔を浮かべる彼女の姿がそこにある。

「……ねぇシモ、疲れてるんじゃない? 大丈夫?」

「疲れてるよ……懲りないソ連の連中に手こずってる」

「そうじゃなくて!」

 どうじゃなくて?

 言い返そうとしたがやめてしまった。

 姉の『そうじゃなくて』は、私が思っていることと全く外れたことを言ってくる前兆のようなものだと知っていたから。

 でもその外れたことは、いつも私の心情を的得ている。だから、余計に気になるのだ。

「……そうじゃなくて、心の方でだよ」

「どういうこと?」

「シモ、寂しいでしょ?」

「なんで分かるのさ」

「当たり前よ~、お姉ちゃんはみんなのお姉ちゃんなんだもん。シモはお姉ちゃんの妹なんだから、それくらいわかるわよ」

 流石私の姉だ。シスコン……いいや、妹好きなこともあってよく分かっている。

「じゃあ、どこをどう寂しがってるように見えるのか、お姉ちゃんには言える? 言えるなら、言ってみてよ」

 試しにそんなことを言ってみた。

 姉は特にはぐらかす様子もなく、んーと考えたあと、私の顔を覗き込んで言う。

「強いて言うなら、家族を亡くした悲しみ、寂しさかな」

「他は?」

「仲間、それと……そうね、『もう一人の家族』を亡くした悲しさもあるんじゃない?」

 もう一人の家族……それはルトアの事だろう。

 的を得ていた。今まさにそんな気持ちなのだから。

「……隠せないね」

 姉と目を合わせ、私は小さく呟く。

「……マリーが出ていって、カトリが少年院に入れられたあと……ヒルヤが行方不明になったんだ」

「そうなの……?」

「うん。結局は一人になって……。それを見兼ねたお父さんとお母さんが、私が拾ってきたルトアって言う男の子を養子として新しく出迎えたんだ」

「……」

「ルトアは私と同じく軍に入ったよ。でも、カトリと同じく捕虜として捕まって、寝返ってソ連についたの。私がその子を撃ち殺して、私も怪我をして……。だから、今の私は夢を見てるんじゃないかな?」

 大人しく聞いていたマリアは「そうなのかもねぇ」とクスクス笑いながら返してきた。

「……なんで、そう言えるの?」

「だって、今の時代に大きくなったシモはいないもの、当たり前よね」

「……」

「でも見られてよかった。死なずに成長して、こうして夢になって出てくる妹がいるなんて、やっぱり私は幸せなお姉ちゃんね」

 儚い笑いを零しながら、姉はそう呟いた。

「……マリーが思ってるより、戦争は本当に苦しいものだよ。十二年もすれば、もう戦争が始まってるんだもの。その時に、このラウトヤルヴィはソ連の領地になっちゃう」

「ここが……本当なの?」

「本当だよ。領地を取り戻すために、フィンランドの国を取り戻すために、家族のために、友達のために……数えきれない理由のために、私達軍人は戦ってるの」

 あと二十年もすれば、このバルコニーから見える景色は見られなくなってしまう。

 そう思うと、不思議と寂しさが増してきた。

「一九三九年九月一日。この日から、この地はソ連のものになってしまう。だから、今からでもいいから……逃げる準備をしておいて欲しい。お母さんとお父さんに、このことを伝えて欲しい。戦争が始まったら、もうこの世界も、この景色も、この町も、何もかも見られなくなっちゃう。家を焼いて、故郷を捨てて、遠い街に行かなきゃいけないから……だから…………」

 視界が滲む。

 私には勿体ないくらいの、綺麗な景色。

 溢れてくる涙を袖で拭おうとすると、咄嗟に出た姉の手によって止められる。

「……?」

「だめよ袖で拭いちゃ。汚れちゃうじゃない」

 ポケットから取り出したハンカチで目元を拭われた。

 あの時と同じ、優しい手つきで。

 ついでにと、頬についていた少しの汚れまで綺麗に拭き取ってくれた。

「……ありがと」

「いいえ~っ」

 姉はやはり笑っていた。

 怒った顔なんて滅多に見られなくて、一度姉を怒らせようと、カトリとヒルヤと三人で試したこともある。

 それでも笑っていた。

 この人は優しすぎる。それが故に、人を傷つけられない。

 分かっていたことだ。姉はいつもそう。本当に怒ると怖いけれど、それでもその怒りを顕にしないで、優しく接してくれる。

 幼い私から考えれば都合のいい姉だったのかもしれない。

 その時は疑問に思っていた。どうして笑っているのだろうと。でも成長した今、姉の立場になって考えれば、この人は優しすぎると感じてしまった。

「お姉ちゃん、どうして怒らないのさ」

「え? どういうこと?」

「……だって、本気で怒った姿を見たの、私もヒルもカトリも一回だけだよ? なんで怒らないのかが逆に不思議でしょうがないよ」

 きょとんとした顔で私を見ていた姉は、急に吹き出して大笑いしていた。

 何か面白いことでも言ったのだろうか。私はあわあわしながらどうしたのかを聞いてみた。

「あっはは!! いやぁ、なんて言うのかと思えばそんなことか!! なになに、気になったのー?」

「そ、そんなんじゃないし……違うし! 全然違うし!!」

 拗ねてそっぽを向いてみせた私に対して、「ごめんごめん、ちゃんと話すからこっち向いてよ!!」と、未だに笑いながら私の肩を掴んで姉は言う。

 呆れた顔をしながら姉の方を向いた私を見て、姉はまた言葉を繋げた。

「そうねぇ……シモが下の子を何人も持ったら分かると思うわ」

「下の子って……どういうこと? 妹とか、そういうの?」

「そうそう。シモは今、ヒルと……ルトア君だっけ?」

「うん、ルトア」

「うんうん……その子達と関わってるでしょ? それよりも下よ。私とシモくらい離れている妹を持てば、自然と分かるわ」

 なんの事か分からず首をかしげていると、「うーん……じゃあ、もう少し簡単に言いましょっか」と、私の両腕を優しく掴んで腰を下ろし、私を見上げるような姿勢で言う。

「生命の誕生を、その綺麗な赤い目で見なさい」

「生命の……誕生」

「そ。そうしたら、おのずとお姉ちゃんの気持ちがきっと分かるはず。分かった?」

「……分かった」

「よしよし」

「お姉ちゃん」

「ん?」

 立ち上がった姉はまたきょとんとした顔で私を見つめてくる。

 綺麗な赤い瞳。私の瞳と同じ色だが、姉の方が余程綺麗だ。

「目が覚めたあとでいいから、お願いがある」

「なになに?」

「……あの、ね。会いに来て欲しい」

「会いに?」

 ここは夢の中だ。話してるとはいえ、現実的に会っているとは言えない。

 だから、私はそう願った。十年……いや、二十年ぶりに、姉の姿が見たくなったから。

「……分かった! お姉ちゃんが約束しよう!!」

「ほんと?」

「うん、だから指切りしよ!! ほら、小指出して!」

 幼なじみに、将来結婚しようなんていう儚い夢を持つ子供のような約束だ。

 言われるがままに右手の小指を差し出し、姉の右手の小指と絡める。

「指切りげんまん、嘘ついたら……」

 フィンランド語で指切りの歌を口ずさみ始める姉の姿を見て、自然と涙が出てきた。

 袖で拭っちゃ駄目。

 スカートのポケットに入れていたハンカチを取り出して、私は涙を拭いながら姉の口ずさむ指切りの歌を聴いていた。

「指切った……ってもうっ!! また泣いてるし!!」

「ごめ……泣くつもりなんて何も無くて……」

「全く……ん? それ、お姉ちゃんがあげたハンカチじゃないの。まだ持ってたの?」

「? うん、持ってたよ……?」

 ハンカチも、今さっき姉が拭ってくれたハンカチと同じものだ。マフラーと同じ、形見として取っておいているものだった。

「なんで持ってるのよ?」

「……だって、忘れそうな気がしたから。戦場にいると自分を忘れる気がして、怖くて」

「……」

「だから、カトリやマリーの物を持ってたら、自分を忘れないって思って。家族がいるから、大丈夫って思えるの」

 微笑んで、私はそう言う。

 本当のことだ。これまでに自我を失いかけたことは何度かあったが、姉のマフラーを見ればすぐに我に返る。そんなことがしょっちゅうだった。

「そっか……」

「なんで?」

「ううん、嬉しくて」

 横髪をすくい上げ、今度は姉が笑った。

 酷く綺麗な笑顔が、沈む夕日に照らされて美しく輝いている。

 それがたまらなく可愛くて。

 ずっと見ていたかった。

「さ、シモ。もう時間だよ」

「え、でも……」

「いいからいいから!」

 背中をぐいーっと押され、私はバルコニーから強制的に追い出される。


「────さぁ、行っておいで」


 背中に、そう言われた。

 振り向くと、既にそこは何もいない、誰もいない空間が残るばかりだった。

 もう、来れないのかもしれない。

「……でも、いるなら大丈夫」

 そう呟いたあと、私は階段を早足で駆け下りる。

 フッと下に落ちる感覚を覚え、私はそこで意識を失ってしまった。


 ***


「…………」

 ゆっくりと目を開ける。

 見えたのは白い天井。視界がまだはっきりとしていないが、それだけは分かる。

「……! シモナさん!」

「シモナー! 起きたー!」

 左手が引っ張られる。

 見てみると、コルッカが私の左手を掴んで涙ぐみながら私を見ていた。

 その隣には、ちゃんとガルアットもいる。

 ……生きているんだと、そう悟った。

「……ただいま、もう大丈夫だから。泣かないで、ね?」

 コルッカの手を解いて、ポケットからあのハンカチを取り出してコルッカの涙を優しく拭いた。

 起き上がってふと気がつく。

 身体がどこも痛くない。それどころか、包帯すら巻かれていない。

「すごいでしょ? 僕が全部治したんだよ、シモナ」

 不意にガルアットがそんなことを言う。

「……え、お前が?」

「そ。僕が」

「すごいんですよガルアットさん! 人間? になってこう、グワーッとして……」

「果てしなく分かりにくい、三十文字で」

「とにかくガルアットさんが鬼になってシモナさんを治したんです!」

「ピッタリな回答ありがとう」

 左顎も問題なし。ただ傷跡らしきものが出来ていて、触ると違和感があることに気がついた。

 傍に置かれたラジオからは、相変わらず乱雑な音が聞こえている。

「……ん?」

 内容が、何処か違うような。

「モスクワ講和条約……」

「そうです、今結ばれてる最中なんですって!」

「平和になるよ……良かったぁ……」

 カレンダーを見る。

 三月十三日から前の日が全て×で塗られている。

 ……そうか、一週間も寝ていたんだ。

「……良かった」

「シモ!!」

 ガタンッと音が聞こえる。

 驚きながら音の方向を見ると、扉の前で息を切らした私の姉……マリアが立っていた。

「……お姉ちゃん」

「シモ、シモ久しぶり! でもその前に聞いて! ヒルが見つかったの!」

「え!?」

「え!?!?」

「なんやて!!?」

 私の周りにいた誰もが驚いていた。

 行方不明だったヒルヤが見つかったのだ。しかも今。

 どうやら、今フィンランド兵の一人に連れて来られているという。

 嬉しかった。ずっと行方不明だった妹が帰ってくるなんてと、喜びで溢れかえっていた。

「あ、シモナさん、これ返しておきます」

 そう言ってコルッカが差し出したのは、私のモシン・ナガン小銃。

 使っていたんだ……なんて思いながらも、「……いいよ、あげる」とコルッカに送り返した。

「えぇーっ!」

「いいの、別に。私もう戦場に出ることなんてないんだし」

「そうなのシモ!?」

「そうだけど……」

「そうなの!?」

「同じ反応をされては困るぞガルアット……」

 と、ちょうどヒルヤを連れたフィンランド兵が到着したようで、私は入口の方を見た。

 そこには変わらない、ヒルヤ・ヘイヘの姿がそこにあった。

「ヒル、分かる? シモだよ」

「……ねえね……シモねえね……」

 瞳が涙で溢れていた。

 フィンランド兵から飛び降りて「ねえね!!!」と叫びながら私に抱きついてきた。

「おかえり、ほんとおかえり……。もう一人でどこか行っちゃダメだよ……」

「ねえね、ごめんなさい……!! ごめんなさい……!!!」

 頬擦りをしてお互いを確かめ合う。

 私も涙が止まらなかった。久しぶりに見るのに、あの時から時間が止まっているような、そんな感覚だった。

「おかえり、ヒル」

 姉が私とヒルヤを包むように抱き寄せる。

 コルッカとガルアットは顔を見合わせた後、それを静かに見つめていた。


 一九四○年、三月十三日。

 モスクワにて、フィンランドとソビエト連邦により『モスクワ講和条約』が署名され、一〇五日間に渡った小さな冬の戦争は終止符を打たれた。

 フィンランド側は、大幅な領地の讓渡をせざるを得なかったという。

 それでも、今この時結んでいなかったら。

 このフィンランドという国は、未来では独立を果たしていなかったかもしれない。

 そう思うと、不思議と恨もうという気はなかった。

 同じく同年、退院した私はフィンランド兵の眠る仮墓場に赴き、一人一人に一つの花を授けた。

 その後、私は戦場に赴くことは無く……時は一年後に溯る。

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