第28話 覚悟を決めて

「じゃあ、気をつけろよ」

「生きろよシモちゃん、コルッカちゃん、ガルアット!!」

「流れ弾は伏せて避けるのが一番だぜ!!」

 翌朝八時四十六分、出発のために銃を持ち直したシモナは「はい」「えぇ」「分かりました」と一人一人に返答をしていく。

「カワウの方にはこちらから連絡してある。ここからあちらまでは二日くらいかかるだろうし、気をつけて帰れよ」

「はい、色々とお世話になりました!!」

「ありがとうございました」

「ました!」

 それぞれ敬礼をして、待機していた車に向かおうとした時。

「シモ!」

 そう呼ぶ声がし、シモナは足を止める。

 九○度振り返ると、そこには息を切らしたカトリが立っていた。

 シモナを目を合わせたカトリは何も言わず、何も持っていないシモナの左手を掴んで、とあるものを手にのせ固く握らせる。

「……俺の形見。大事にとっとけ」

「…………」

 シモナはカトリを見る。

 昨日あれだけのことがあったのに、彼女は気味が悪いと思えるほどの微笑みを残していた。いつ見ても腹立つ顔だ、なんて思いながら、シモナは何も言わずに踵を返し車に乗り込んだ。

 味方兵が見送る声が聞こえる中、シモナは左手を開く。

 握らされたものは、カトリが普段大切そうにつけていたフィンランドの国旗ネックレスだった。過去にシモナがネックレスのことを聞いた時、「聞きたいか? これはなぁ……お姉ちゃんと仲の良かったやつがプレゼントでお姉ちゃんにくれたものなんだ。めちゃくちゃ大事なものなんだぜ」とカトリは少々恥ずかしげに、はにかみながら答えてくれた記憶がシモナの頭の中にぎった。

「…………」

 きっと、その人は姉の好きな人だったのだろう。

 しかし、後に聞いた話だと、その人は遠い北の地域へと引っ越してしまったんだそう。

 チリ、と鉄の音を響かせ、フィンランドの国旗は朝日に輝く。首にかける部分は頑丈な黒色の紐製だ。

「……」

 もう一度、カトリを見る。

 紐の部分を短縮させて持ち、フィンランドの国旗が見えるように手にかざし、彼女は少し微笑んでこう呟いた。

「Kiitos」と。

 カトリにはその言葉が聞こえていた。

 ハッとして追いかけようとした時には、もう既に車は発車してしまっていた。

 朝日が背中で輝く。振り返り、その朝日を眩しそうに見つめる。

「……ほんと、素直じゃないやつ」

 一つ涙を流したカトリは、目元を雑に拭い、朝日に向けてそう呟いた。

 五つも下のくせに、まるで年上のような態度をとるシモナに毎回呆れを切らしていたが、いなくなると寂しいものだ。

 車に乗った時のあの微笑みは、きっと彼女なりの照れ隠しなんだろう。

「……祖国のために、家族のために。お前のためにも、マリアのためにも、きっと生き抜いてみせるさ」

 踵を返したカトリは静かに呟いた。

 二日後の同時刻頃から、ラーッテ林道を抜けてカワウ中隊の待つ拠点へと無事帰隊した三人は、待っていたユーティライネンからとあることを聞かされた。

 シモナの姉、カトリが捕虜としてソ連軍に捕まり自害したとの報告だった。行方不明扱いとして収めるつもりだとだけ言い、ユーティライネンは拠点の中に入っていった。

 シモナは、左手にずっと持っていたカトリのネックレスを見つめる。

 その目にはフィンランドの国旗以外に何が映っていたのか、何を映していたのか。それはコルッカにも、ガルアットにでさえも分からない。

 登る朝日が三人を照らし、シモナは目を細める。

 今思えば、あの姉の微笑みは気味が悪いと感じる反面、美しいものでもあった。

 姉が見た最後の朝日はこんなにも綺麗ではなかったのかもしれない。

 姉がくれたこの遺品は、もしかすれば大事なものだったのかもしれない。


 姉が見たソ連の全ては、残虐だったのかもしれない。


「……それでも」

 ネックレスの金具を外して通し、首にかける。

「……私は、あなたのことが大嫌いだった」

 吐き捨てるように呟いたシモナに「やっぱり嘘つきですねぇ」と、コルッカは笑いながら隣で呟いた。

「全くだ。いつからこうなったんだか」

「ふふっ……お姉さんの為にも、生きてあげなきゃですね」

「……そう、だね」

 朝日を見続けるシモナの頬から、一筋の涙が流れた。コルッカ、ガルアットはそれをただ見つめる。

 チリ、と鉄の音を鳴らし、ネックレスはあの時のように朝日に輝いていた。


 ***


「終わったか?」

 その頃、ソ連軍拠点本部。

 司令室に入ってきたソ連兵に、窓の外を見ながら質問を投げかける。

「えぇ。やはり『白い死神』の姉だったようです」

「そうか……あちらのことは?」

「何も話さずに自決しました」

「……そうか」

 白い死神の情報は未だに掴めない。

 だがあの白い死神を捕虜として捉えれば、ソ連軍は大いに有利になることは明らかだった。

「……少し、出るとしよう」

 くるりと振り向き、キリル・アファナシエヴィチ・メレツコフは呟く。

 マンネルハイム線を突破した際、ソ連軍にとってあまりにも奇怪で不思議な戦略を取ったフィンランド軍に押され、一度撤退しているのだ。

「増援を増やせ。最前線を多くしてもう一度マンネルハイム線に乗り込むぞ」

「はっ」

 司令室を出てバタバタと忙しなく動いている部下をよそに、キリルは帽子を深く被り、低く呟いた。

「さぁ、私の可愛い部下モルモット達。私のために死んでおくれ」


 ***


「……!」

 スン、とひと嗅ぎしたシモナの表情が険しくなる。

 同時に足も止まり、目線はソ連軍の大きな拠点へと向いた。

「どうしました? シモナさん」

「シモナ、どしたの?」

「……来る」

「何が?」

「カワウ中隊、戦闘準備だ! 敵兵リュッシャがまた乗り込んでくるぞ!!」

 ユーティライネンが慌てて皆に告知をする。

 臭いを嗅いだことで得た情報をコルッカが質問したところ「薬莢、大砲の臭いだ。奴らの使うものには皆変わった臭いがあるのが特徴的なんだよ」と答えてくれた。

 マンネルハイム線は、一度シモナも戦場としておもむいた経験がある。その時にかなりのソ連兵を殺した筈だからと、少し警戒を解いていた。

『今一度言おう。恥知らずの集団を絶滅せよ。フィンランド偽政者の回答は、偽りかつ無礼であった。我々の国にとって、それははかり知れないほどの侮辱である。レニングラードに覆い被さる手を切り落とせ。ソ連国民の怒りを招く者たちに災いあれ!!!!』

 ラジオから流れる乱雑な音声。

 開幕当時のニューヨーク・タイムズに書かれていた記事内容と、今ソ連兵が言っていることは全く持って同じなのである。

 二度目の宣戦布告。かなり不味い状況に追い込まれたのかも知れない。

「地雷を埋め込んでおけ! できるだけ早くだ!!」

「ソ連が来るまで、まだ俺らには時間がある!! 急げ急げ!!」

 そんな時でも臨機応変に対応をするフィンランド兵は、元日本人のシモナから見てもとても頼もしいものであった。

 

 もしかすれば、頭の硬い現代日本人よりも賢いのかもしれない。そう思った。

「祖国のために、勝利のために、家族のために、領地のために、我々は戦う。幾度いくたびの敗北を決しようとも、幾人いくにんの犠牲を出そうとも、我々は止まらないであろう」

 ユーティライネンは密かにぼそやく。

 何よりも指揮官のユーティライネンや、最高司令官のマンネルヘイム、そしてここにいるフィンランド兵に運命は任されている。

 ユーティライネンにとってはプレッシャーだろう。

「さて、出発しよう、カワウ中隊諸君。汚い敵兵リュッシャの顔を、銃で穴だらけにしようではないか」

 しかしこの青年は怯まない。

 臆することなく、まるでピクニックに行くかのようなわくわく気分で戦場に赴くその姿はやはり『モロッコの恐怖』そのものだった。

「何言ってるんですか? 一人一二五人殺せばいいだけですよ」

「シモの言う通りだな!」

 シモナは、そんなユーティライネンが怖くもあり憧れでもあった。

 自分の持っていないものを持っているからだ。シモナから見てその後ろ姿は、何処と無く兄姉と重ねてしまうほど頼もしいものであり、憧れはいつまでも憧れなのだと、その時シモナは感じた。

 姉も同じなのかもしれない。

 長女マリアの背中を追いかけて成長したからかは分からない。

 それでも、シモナの心の中では、あの性格をどうにかしてあげたいという願いは少なからずあったはずだ。

『後戻りは出来ない』

 自分で言ったその言葉の意味が、シモナは今になって嫌でも分かったことを酷く後悔した。


 ***


「シモナさん、私こういったわくわくする戦場は初めてです」

「奇遇だな、私もだ」

「なんで楽しいって思えるのさ? 僕はちっとも楽しくないよぅ……」

 珍しく弱々しい声をあげたガルアットに「おいおい、どうしたんだ?」と声をあげるユーティライネン。

「いや……僕、この戦場だけは嫌な予感がして……」

「どういうことだ、それ」

「なんか……シモナに何かある気がするんだ。上手く言葉には表せないけど……絶対にシモナを狙う連中があの中にいるはずなんだ」

「……一応警戒しておきましょう」

 コルッカの言葉に、シモナは不安そうな顔で頷いた。

 やがてユーティライネンが皆の見える位置に立ち、声をあげる。

「カワウ中隊の諸君!! 我々は今ピクニックに来ている!!!!」

 唐突なその発言に、フィンランド兵は笑いを包んだ。

 その冗談はシモナでも思わず笑わざるを得ないほどだ。珍しく笑い顔を見せたシモナに、コルッカは少しだけ安心した。

「ピクニックに来ているからこそ、奴らからのプレゼントという名のお弁当を楽しんで受け入れ、風船を割るように引き金を引こうではないか!!!!」

 戦場で笑っていると言ったら、恐らくこの中隊のみであろう。

 しかし、フィンランド兵からは『親父』とまで親しまれているユーティライネンの周りは何故か笑顔が多かった。それは戦場でも、プライベートでも。

 ユーティライネンはとにかく明るく、嫌なことがあってもヘラヘラと笑っているような態度を取るため、一部のフィンランド兵界隈からはかなり恐れられたそう。

「さぁ、迎撃ピクニックに行くぞ、カワウ中隊諸君!!」

 ガシャン、と、皆一斉に銃を構える。

 あたり一帯は緊張が走るわけでもなく、ただ静かな空気が冷たく包み込むのみ。

「……あぁそうだガルアット、迎撃命令が出たら白い煙を撒いた方がいい」

「んん、それで他の皆は見えるの?」

「もちろんだ!!」

「見えるに決まってるさ!! 俺たちをなんだと思ってんだぁガルアット!!」

「ならいいや、分かった」

 とはいえ、ガルアットはやはり嫌な予感を感じていた。

 虫の知らせのような、そうではないような。

 なにか計り知れないことが起こるのではないかと、彼はとても不安に思っていた。

 本当に、ここでいいのか、これでいいのか。

 戦争なんて、何も生まないんじゃないか。何も生まれないんじゃないか。

 でも、国のためだ。シモナの姉のためにも生きなければならない。

「来た」

「……!」

「え、多くない……?」

 その数は、ユーティライネン率いる軍勢の何倍もの人数を上回る、ソ連の兵隊モルモット

 皆が皆死んだ目をしており、まさしく死ぬために生まれてきた道化人形と言ったところだろう。

 一定位置で止まり、フィンランド兵とソ連兵は、間を開けて向き合う形になった。

「……まだ、ですか?」

「まだだ、命令があるまで撃つな」

 静寂が訪れる。

 それまで吹き付けていた風が止み──


「─────!!!!!!」


 それぞれの怒号、罵声、叫び声を上げながら、ソ連兵は真っ直ぐ走って向かってきた。

 上空から見れば、まるで蟻の軍隊が獲物に向かって猛突進している光景と全く持って同じだ。


「撃てーーーーッ!!!!!!」


 発砲命令が出た。

 一斉に射撃音が響き渡る。耳元を掠める程度に飛んでいく弾丸の音を聞きながら、シモナやコルッカ、その他のフィンランド兵達は撃ち続けた。

 最前線で突撃する必要は無かった。地雷で勝手に死んでくれるし、あとは狙撃兵がいれば大抵はなんとかなる……と、その時は思っていた。

 まさにその時、シモナにとって驚くべき情景が見えていた。

 まて、とガルアットに煙を出すことを止めさせ、よく見てみる。

「……嘘だ、あれは……」

「シモナさん?」

 ルトア?

 こちらに銃を構えているルトアの姿が、双眼鏡越しに確認できたのだ。

 嘘だ、そんなはずはと、シモナは自身の目を疑った。しかし視界の先に見えるのは、紛れもないルトアなのだ。

 狙撃兵として、シモナを始末するようにでも言われたのだろうか。それとも、捕虜として捕らえるよう命じられたのか。どちらにせよ、シモナにとっては最悪の結末を迎えることになる。

「いたの?」

 ガルアットが不安げにつぶやく。

 彼もルトアに気づいたのだろう。

 ルトアも、彼女に気づいていた。

「いた。……やるしかない」

 リロードをして、愛銃のモシン・ナガンを構える。

 シモナのいる位置からルトアまで、およそ百メートル。この距離であれば当たるのは確実だろう。


 ────確実なのに。どうしてだろう。


 軸がぶれる。心臓から聞こえる鼓動は早く、呼吸が乱れている。

 何をしている、指を当てよ、撃てよ。引き金を引け。あそこにいるのは、もう義弟なんかでは無い。

 ただの……ただの、一人の『敵兵ルトア』ではないか。

「───!!」

 最大の殺意を込め、弾丸を放つ。

 その弾丸が、ルトアの頭に吸い込まれた際、その『死神の目』の恐ろしさにルトアの目が何処か血迷ったような光景をしていたのだけは、はっきりと覚えている。

 その後のことは、よく覚えていない。

 左顎辺りで鈍い音がした。

 一瞬の冷たさ。しかしそれはすぐに熱さ、痛みに変わり、銃が両手から引き離される。

「……え?」

 横にいたコルッカが状況を把握出来ずに、ただただシモナを見つめていた。

 フードローブから赤い鮮血が円斑えんまだらに広がり、白銀の雪にじわじわと広がっていった。

 シモナ自身もまた状況を把握出来ずにいた。

 気がつけば倒れていたのだ。さっきまで痛かったのに、痛感覚が麻痺を起こし、痛みを感じきれない。

 口が動かない。まるで何処かが砕けているかのように。

「シモナ……?」

「シモナ、さん……? ……シモナさん、シモナさん! やだ、お気を確かに!!」

 そんな声が耳に届いた後、シモナの意識はテレビが消えたかのように、急に無くなってしまったのであった。

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