第15話 独ソ不可侵条約
「独ソ不可侵条約……?」
一九三九年八月二十三日、午前七時四十分。
ラジオが乱雑に音を奏でる部屋の中に一番大きく響いたのは、シモナのそんな声。
偶然休みの日でシモナが寝ている時に、ラジオニュースで偶然そのことを耳にしてしまったのだ。
後に起きてきたルトアと共にラジオに釘付けになっていると、やがてシモナも起きてきてその事実を知った……というのが主な遡り。
「……どう思う?」
「俺はどうも思わない。なんでこいつらが条約を結んでるんだ?」
「それは僕にもさっぱり……」
『独ソ不可侵条約』
一九三九年、八月二十三日。
ドイツとロシアで結ばれた不可侵条約。
天敵であり犬猿の仲で知られるアドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンが結んだのだ。
不可侵条約というのを簡潔的に説明すると、『条約を結んだ国には無闇に特攻したり戦争を仕掛けません』っていう、結構重要な条約のことで、まさか仲の悪い同士が不可侵だなんていうとんでもない条約を結んだことには、流石の世間も騒がずに居られなかっただろう。
「ぴええ、何これ……」
シモナも珍しく驚いた声を出していた。
逆に僕がびっくりするんだけど、何その声……と口にしたかったが、あまりにも直球すぎる質問故に、今シモナの機嫌は少なくともいいとは言えないため、頭の中でだけ言っておいた。
「……もしかして、戦争が始まるのか……?」
「冗談はよしてくれよルトア、俺達よりも何倍も上の、他国の軍人達も、あんなくだらない戦争で命を落とした人達ばっかりじゃないか」
「あぁ、第一次世界大戦かぁ……」
第一次世界大戦は、一九一四年七月二十八日から一九一八年十一月十一日にかけて、連合国対中央同盟国の戦闘により繰り広げられた世界大戦のことだ。
ヨーロッパや中東を主にして行われた戦争のため、フィンランドは幸運にもこの戦争には巻き込まれなかった。
フランス、イギリス、ロシア、セルビア、モンテネグロ……などなど、数々の国が参戦した中、今あげた国はどれも『連合国』の一部に過ぎない。
連合国だけではなく、ドイツやオーストリアなどの中央同盟国も参加していたため、一九○五年産まれのシモナが産まれてから九年という僅かな時間が経過してから始まっていた、世界的にも大規模な戦争だったと、シモナから聞いている。
「……次に戦争が始まるとしたら……名前はどんな名前になるんだろう……?」
ふとルトアが呟く。
確かに。戦争が行われることを仮定にするとして、次はなんという名前になるのだろうか。
「……第二次世界大戦……」
ルトアとシモナは同時につぶやく。
もはやそうとしか考えられなかった。
今日の不可侵条約は、あまりにも突然すぎる。世界的に巻き込む大きな戦争になるでしょう、なんてアナウンサーの人はラジオ越しに話している。
『こうして巻き込まれたのも、全ては不可侵条約のおかげだ』
きっと、戦争が始まる時。
我々は言うのだろう。
『おかげ』だなんて不謹慎な言葉は、使わないようにしようか。
『全ては、不可侵条約の「せい」だ』と、そう言っておこう。
「祖国のために、愛する者のために、私達は死んだ未来を生きている」
ふと、ルトアがそんなことを呟いた。
疑問に思いシモナがラジオからルトアへと視線を写す。
「
「……誰かは、分からないのか?」
「あぁ分からないさ。戦争好きのイカれた人が言ったんじゃねぇの?」
にしし、と笑いながらルトアは言う。
「ふとした一言だったのにな。その言葉が忘れられねぇんだ。もしかしたら、前世を生きてるシモナの座右の銘にピッタリだな」
「さぁ、どうだかな」
顔を見合わせて、二人は笑った。
***
「……それは、どういうことですか」
その日の深夜。
マンネルヘイム元帥に呼ばれて、シモナと僕は司令室にいた。
「ニュースを見ただろ? 犬猿の仲で有名なヒトラーとスターリンが結んだんだよ。おかしい話だろう、何かあるに違いないんだよ」
「それは分かりますが、何故私が呼ばれたのですか……? もし呼ぶのであれば、ユーティライネン中尉なのではありませんか?」
僕はシモナの正面に立つカール元帥の目を見る。
とても輝かしい目だ。光があって、希望に満ちている……なんて言い回しだと在り来りになるかも知れないが、誰もがそういうであろう確信を持てる自信の目をしている。
「……そうだな、恐らく十一月には戦争が始まるだろう。シモナも軽い指揮くらいは出来るだろう?」
「それはそうですが……。お言葉ですがマンネルヘイム元帥、私にはまだ早すぎます。兵長である私の指揮でもし、全滅させてしまったら……」
「その時はその時だ。誰もお前を責めたりなんかしないさ」
「ですが!」
「あちらの司令長官が、あの時の特攻を制したお前のことを酷く気に入ってるみたいだぞ?」
「そんな理不尽な……! 私は命令されて、それを遂行したまでの話です! なにもその事がきっかけで戦争に発展するなどおかしいことでしょう!!」
シモナの言う通りだと思う。
こんなたった一人の少女を理由に戦争に勃発する事例なんてどこにもないのだから。
「……フィンランドは今、国境線の問題や軍事基地の設置、バルト三国の要求をされている。不可侵条約を結ばれた以上、我々は下手に動くことが出来ない。……だから、上の者や、フィンランド国の統領に任せるしかないんだよ」
「それは、私も存じておりますが……」
「……もし、もしだ。十一月までにフィンランドが要求に応じなければ、確実に戦争になる。その時は……頼む」
頭を下げられ、シモナは慌てている。
自分よりも身分の高い相手に頭を下げさせるなど……あっていいものか。
彼女は頭を上げるよう説得したが、マンネルヘイム元帥は下げ続けた。
「……分かりました、出ましょう。私がいた方が戦力になるというのならば……応じるしかありませんし。ですからお顔を上げてください、元帥」
考えた末、答えを出したシモナ。
ようやく顔をあげたマンネルヘイム元帥は「……ありがとう。君にはいつも迷惑を掛けてしまうね」と、ふわりと柔らかな笑みをこぼして言った。
「君の配属先は第六中隊。ユーティライネン中尉の司令する部隊で狙撃兵をしてもらおうと思っている」
「へ……狙撃兵、ですか? 小隊ではなく……」
「ユーティライネン中尉からの、直々な推薦だぞ? 俺は彼の気持ちが分からないが……君も、その方が力を発揮できていいんじゃないか?」
「まぁ、確かに。そうですね。分かりました」
どこか、妙に引っかかるような、まだ考えこんでいるような、そんな変な表情をするシモナ。
僕はシモナの表情の異変に気づいたが……気持ちまでは、いつものように感じ取れはしなかった。
しかし、肝心のユーティライネン中尉は今所用で出ているとのこと。代わりに誰かが指揮をしてくれるから、そこは頼むよと、マンネルヘイム元帥は笑って言った。
***
「なぁガルアット……あそこまで私に頼む必要なんてあると思うか?」
部屋に戻り、布団に潜り込んだシモナの質問を聞き逃さなかった。
寝る寸前で良かった……なんて思う。
「うーん、滅多に頭を下げない元帥があそこまでするってのは……理由があるのかなぁ?」
「さぁな、あの方は何を考えているのかいつも想像がつかない。ま、私は寝るよ。起きたら訓練だしな」
「うん、おやすみ」
目を開ける。
可愛い主人の寝顔を薄目で眺めながら、僕は考える。
この先、戦争が起こったとしよう。
その戦争で大切な人が亡くなった時……この子は何を思って、何を感じて……
……そして、何を糧にして戦うのか。
生き残れるのか、死なないのか。
部屋に戻る前、歩きながら僕がそんな質問をすると、シモナは『死なない。死ねないんだ』なんて言って微笑んでいた。
果たしてそれは本当のことなのか。
僕にはまだ分からないなぁ……なんて思いながら、僕はゆっくり目を閉じた。
独ソ不可侵条約により、独ソによる東欧の勢力圏分割が約束された後。
ソ連は数ヶ月間に渡ってバルト三国とフィンランドへの圧力を強め、バルト三国とは軍事基地の設置とソ連軍駐留を含む『相互援助条約』を結ばせた。
そんな中、ここフィンランドにも同様に、ソ連は国境線の変更や軍事基地設置とソ連軍駐留を含む要求を行ったが……。
……フィンランドは、残念ながら応じなかった。
そして、ソ連とフィンランドの交渉は条約締結から僅か三ヶ月後の十一月に、
見事、決裂してしまったのだった。
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