失敗作

高藤カイ

タイトル未定


「おいーっす」

 僕は化学室の扉をノックもせず気怠く開けた。

「うん」

 放課後の化学室にいるのは一人だけ。黒板前の椅子に座って文庫本を読んでいる彼女はこの高校のたったひとりの科学部員。彼女は僕と同様気のない返事をする。文庫本から視線を上げることすらしてくれない。

「飲む?」

 僕は彼女の対面、教卓として使われている実験台まで椅子を持っていき腰を下ろす。すると着席したと同時に彼女が尋ねてきて僕は反射的に「飲む」と返す。

 実験台の上には実験器具が散乱している。でも今ここで何かしらの実験をしているわけではない。水道水を入れたフラスコはガスバーナーで温められていて彼女はそのお湯をインスタントコーヒーとともに小さなビーカーに注いでいく。そしてビーカー挟みを取っ手にして僕の目の前に置いた。インスタントコーヒーの瓶の傍にスティックシュガーの束が転がっていて彼女はその一つを投げてよこしてきた。

 僕は適当にコーヒーの味を調えビーカーに口をつける。ビーカー挟みを使うと非常に飲みにくいけどでも熱々のビーカーを素手で触るよりはましなのでそこは我慢するしかない。

「毎回思うが、なんで実験器具使ってコーヒー飲んでるんだ?」

「その方が科学っぽいでしょ」

 僕は科学部員である彼女が一体どのような部活動をしているのか知らない。いつもコーヒーを飲みながら本を読んでいる姿しか見たことがない。ただその姿もビーカーのコップと制服の上から羽織っている白衣のせいで一応様にはなっていた。

「この雰囲気だけリケジョめ」

 僕が彼女について知っている数少ない情報のうちの一つは彼女はとりあえず形から入るタイプの人間であることだ。今日も彼女は見た目だけ科学者でプライベートな時間を満喫している。

 僕は飲みにくいコーヒーを啜りながら化学室の窓から校庭を眺める。九月の空からは燦々と輝く太陽の光が降り注ぎ地面を強烈に熱している。その熱した校庭を運動部員が疲弊しながら走り回っている。その様子をエアコンでキンキンに冷えた室内から眺めるのは何か自分が特別な立場の人間になったかのような錯覚があった。くつろぎ空間で苦労人を眺めるのは気分がいい、とかなり性格の悪いことを思ったりする。

 僕がここに来るようになったのは夏休みが明けてからのこと。まだ一週間程度しか経過していない。

 僕は高校入学早々好きな人ができた。部活の勧誘活動をしていた女子の先輩だ。一目惚れだった。ただ先輩は陸上部の部員で一方僕は疲れるから走るのは嫌いだった。だから先輩と同じ陸上部に入部してお近づきになるなんて選択肢はかなり早い段階で諦めていた。でもそれ以外で先輩と親しくなる方法が思いつかなかったので僕は毎日の登下校時に道路からフェンス越しに校庭を覗き込みながら「どーすっかなー」と思いながら走る先輩の姿を眺めていた。

 自分が奥手だとは思わない。奥手というより行動力がないだけ。行動するのが億劫で楽しているだけ。頑張って親しくなり下手をして玉砕するよりは、陰ながら片想いしている方が省エネで気が楽だ。まあどことなくストーカーの心理みたいな感じもするけど、そこは目を瞑った。

 そんなストーカー気質が増したのは夏休み前だった。夏休みは当然学校に登校しない。しないからこそ校庭で走る先輩の姿を見ることもできない。一ヵ月も先輩の姿を見ないとなるときっと先輩に対する想いが醒めてしまいそうだった。

 そこで僕は口実を作った。学校近くのスーパーでバイトをすることにしたのだ。学校の位置的にちょうど駅と反対方向のスーパーだ。そのため僕は夏休みの間通学定期券で学校最寄り駅まで来て学校の前を通ってアルバイト先に向かう。その際午前中から部活動をしている先輩を遠目で見ながら一日の英気を養う。

 そんな夏のバイト生活の終盤。夏休み最終週に事件は起こった。いつも通りバイトに向かう道すがら学校の校庭を覗き込む。その日は珍しいことに先輩の姿はなかった。休みだろうかと思ったときちょうど校門裏とフェンスの境目の辺りに先輩の姿があった。目の前には同じ陸上部員の男子がいる。確かあの男子部員は長距離の選手か何かでいつもは校庭ではなく学校の周囲を走り込んでいたような気がする。練習を始める前だろうか。

 そうして朝から容赦ない夏の日差しを浴びながら歩きなんとなく先輩たちの方を見ていた。すると例の男子部員がいきなり愛の告白をし始めた。僕は思わず「おいおいマジかよ」と呟いてしまったが幸いにも僕の独り言は先輩には聞こえなかったようだ。その場所は学校の敷地内であれば死角となる。しかし敷地外の歩道側だと丸見えだった。僕は思いがけない場面に遭遇して足が止まりそうになった。

 僕の存在を気取られないよう単なる通行人のふりを決め込もう思ったそのとき、先輩は告白の返事をした。返事は男子部員の告白を受け入れる内容だった。

 その返事が聞こえた瞬間僕は立ち止まって固まった。動揺してしまい思考が停止した。僕の片想いが終わった瞬間だった。

 ただ僕のわずかに機能していた理性の部分が早く立ち去ることを警告してくれていた。そうして僕は疲れるから走るのは嫌いなはずなのに真夏の朝の道を全力疾走してアルバイト先に向かったのだった。到着してから大量の汗が噴き出てきたけどでもそれがかえって気を晴らしてくれた。嫌な気持ちが吹っ切れたような感覚がして初めて走って気持ちがいいと感じた。失恋したものの意外とダメージが残らなかった。

 そうして夏休みが終わり二学期となった。先輩を眺めるためだけに始めたアルバイトだけど、失恋したから辞めるのは何か違うような気がした。せっかくこの一ヵ月で商品の場所を覚え仕事にも慣れたのでなんとなく辞めるのはもったいなかった。

 学校が始まったことによりバイトのシフトは十七時の夕方から閉店までの時間に変わった。けど学校が終わるのは精々十六時頃だ。一時間くらい暇になる。けどいったん帰宅してからバイトに向かうのは二度手間だからその一時間を学校周辺で潰すしかなかった。

 そうして暇つぶしにふさわしい場所を見つけるために校舎を徘徊して辿り着いたのが化学室だった。コーヒーの香りに誘われて僕は躊躇なく扉を開けていた。

「飲むか?」

 白衣姿の彼女は突然入室してきた僕に動じることなくインスタントコーヒーの瓶を指さして尋ねてきた。

「ここは……なんだ?」

「ここは化学室。科学部の活動場所だよ」

 彼女はさも興味がないような態度で答える。

「ただ、どうやらこの場所は、彷徨える者たちが集うみたいだ」

「……マッドサイエンティストみたいな魔力でも垂れ流しているのか?」

 僕はとりあえず軽口をたたいてみたけど白衣の彼女はそっけなく「非科学的だ」と一蹴した。加えて「それに、魔力ならマッドサイエンティストではなく魔女だろ」と軽口を軽口で返されてしまった。

「それもそうだ」

 そうして僕はお言葉に甘えてコーヒーをいただくことにした。

 これが僕が放課後の化学室の科学部カフェに足を運ぶようになったきっかけ。バイトがある日はいつもここで時間を潰すようになった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

失敗作 高藤カイ @takatokai1c

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ