第2話

 夕陽に染まる堤防の上、彼女になりきり私は彼としゃべる。あれこれ百回以上も繰り返してきた。いつしか、彼女の言葉が自然と口から出てくるようになった。だからまるで私の演じている彼女が、本当の私であるかのように錯覚してしまう。


 でも、本当はどうなのだろうか。


 きっと彼女も私もそして彼も、全てが偽物だろう。だってこの世界は、《私の一番大切な》本の中の世界なのだから。


 じゃあ私は何者なのか。

 どうしてこうなっているのだろうか。

 思考をフル回転させていると、パッと目の前が暗くなり、しばらくしてまた明るくなった。



 明るくなると、そこは彼女の部屋であった。部屋にはものが少なく、ベッドの上に置いてある複数ものぬいぐるみが異質に感じる。そして、そのベッドに寄りかかる少年――慧と私は互いに向き合って談笑をしている。これも百回以上繰り返した会話だ。


「……でさ、先週の日帰り旅行、楽しかったよな」


 そう、彼が話しかけてくる。


「まあ、半分ぐらいは電車の中だったけどね」


 少し嫌味ったらしく言うと彼は、もうしなさげな顔をする。


「……ゴメン、流石に大変だったか」

「うーん、確かに大変だったけど……それ以上に楽しかったからいいの」


 そう言うと彼はホッとした様な顔をした。


「そう、それなら良かった」

「——そういえば……最後に行った温泉ってなんて言う名前だっけ?」


 彼に尋ねる。


「確か、いわきの…………湯元温泉だっけ?」

「そう、湯元温泉! あそこは特に良かったよね」

「確かにね! 君が満足してくれたなら本当に良かった」


 彼はそう言って満面の笑みを向けてくる。

 その笑顔はどこか私の主人と似ていて、つい、たくさんの思い出が浮かんでくる。今だってそうだ。



——あれは、付き合い始めて数年が経った頃だ。


 私は主人と二人で電車旅に出た。その旅では、私の好きな本であり、主人と私を出会わせてくれたきっかけとなった本——つまり《私の一番大切な》本で、作中に主人公とヒロインの二人で訪れた場所をなるべく順を追って訪れた。

 いわゆる聖地巡礼みたいなものだろう。


 特に印象深かったのが、今話しているいわき湯本温泉の前に訪れた郡山だ。駅直結の高い総合ビルの最上階にあった展望室でのことだ。主人は雪に覆われた町をバックに、


「俺と結婚してくれ!」


 なんて言って主人が持っていた箱を開くと、前から欲しいと思っていたかわいらしい指輪が入っていた。

 そこで思わず私が。


「はい!」


 なんて涙交じりの笑顔で言うと、主人はちょっと驚いた顔で言った。


「ほんとに俺なんかでいいのか? 俺なんて君に苦労しかかけてないし、これからもかけるかもだし……」


 なんて私に言った。プロポーズしてすぐ自分を悪く言うなんて笑っちゃうよね。でも、そういうのも含めて好きだった。だから私は笑顔で


「もちろん! それに私だって苦労かけると思うからお互い様だよ」


 って答えた。


 そのあとすぐ二人で同じフロアにあったプラネタリウムに行ったけど、私は指輪をもらったことが嬉しすぎて、内容なんてこれ一つも覚えて無かった。主人も何一つも覚えていないって言っていたけど、あとで理由を聞いたら、昨日寝られなかった分ぐっすり寝ることができたなんて言うもんだから、腹が痛くなるまで笑ってしまった。


 あの日はいわき湯本の温泉街にあるホテルで一泊したのは良いものの、なかなか寝られなかった。そのせいで次の日の朝、十時近くに起きたのもまた今ではいい思い出なのかもしれない。



 さて、話は戻って今は物語の中の世界。

 目の前には慧が座っている。



「じゃあさ慧、また今度もどこか旅に出ようよ! 今度もまた、慧のプランでね」


 私はそう提案する。


「そうだな……またどこか行きたいな」

「そう、だからさ約束だよ! またどっか行こうね!」


 私は目の前に座っている彼に、とっておきの笑顔で言う。そして彼に右手の小指を差し出した。

 すると彼も同じく右手の小指を前に出し、交えた。


「もちろん」


 そう言った彼は心底うれしそうに笑っていた。

 

 この後もしばらく雑談した後、慧はこう切り出した。


「ところでさ、少し話が変わるんだけど……」


 ここで、私は少し身を構える。そして、心の中で深呼吸をする。これは私が演じている彼女じゃなくて、私だ。


「なに?」

「明日買い物に行きたいんだけどどう?」

「どうって?」


 ここまでもやはり、繰り返しのまるで線路の上だ。いやこれからもそうである。しかしながら、そこには私の意志など何一つない。


「ああ、一緒に買い物に行きたいなって思って……」


 彼は笑顔でそう話しかけてくる。だが、その言葉のせいでその後、どれだけ私がつらい思いをすることになるのか、どれだけ苦労して、それでも強く生きようと頑張るのか。今の彼には分からない。いや一生分かるはずもない。

 そう考えた瞬間、無性に彼に対する怒りがあふれてきた。でも決してそれを口に出さない。いや、出せる勇気が無いのだ。


 なぜか?


――ただ怖いのだ。本来の物語とは異なるセリフを言った瞬間、この世界にも私は居ることができなくなるのでは、消えてしまうのではと。どんなに辛くても、ここが唯一の私の居場所なのだから、ここだけは守りたい、そう思うのだ。


 それに、これは自分への罰であるに違いない。きっとそれは自分が家族へ与えた悲しみ、悔しさの分だけ償わなければならないはずだ。




 だから私は必死に自然な笑顔をつくる。

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