リスタート

まきや

1. ミナミ



 波…

 ミナミ

 ミ・ナ・ミ


 ビクッとして起きた私は、ボサボサの前髪のすきまから、細い目を全開にして「ここ」を探していた。


 かっこ悪いから、あわてて周りを見たりしない。ここがどこか解ってるし、少しだけ目をつむってただけ、のフリをする。


 誰もいなくたって、周囲へのPRはいつも欠かさない。


「鹿沼ぁ~ 次わぁ~、六田むつだに止まりまぁ~す」


 電車の窓越しに、看板とかそんな物を探していたけれど、答えを先に言われてしまった。


「まだじゃん」

 損した。びっくり損。私の人生何秒か縮まった。

 その何秒かで、大切な何かを伝えられたかもしれないのに――なんて、くだらない妄想はいくらでも浮かぶ。


 ドアが閉まるまでに、ずり落ちたお尻を引っ張りあげ、座席にセットした。ポスターケースを抱える右腕を肘掛けに乗せて、反対の方はバッグにしっかり巻きつける。

 これでまた一眠りする体勢ができあがった。


 目を閉じて頭を右に傾ける。おやすみなさいと言いかけたけれど、何かがひっかかった。


「何でビクッとしたんだろ?」

 覚えていない。いや、少しだけ、私、名前を呼ばれたような気もするけど。


 考えていたら、傾けていた右眼から涙が一滴、頬にそって流れた気がした。


「えっ?」

 コンパクトミラーを出して目元を見てみたけれど、何もない。

 情緒不安定なのかな…疑ってみる。でも私にだって私がわからない時がある。


 イライラして銀色に染めた髪をクシャっとしてやった。

 それっきりどうでも良くなって、私は目をつむって、もう考えるのを止めた。



 騒がしい放送と外から入ってくる混雑の音で、電車が大きな駅に止まりそうなのがわかった。


 それまで私だけの空間だった車内ここを、独り占めする時間が終わる。


 私の身体と吊り革がおんなじ角度になり、傾きが終わったら、まもなく昼の移動客が乗り込んでくる。


「そうだ、コーヒー…」

 ホットを飲んで少し落ち着きたい気持ちが顔を覗かせる。


「○×台~、△□◇…」

 ドアが開くと、車外の放送と乗客の足音、その他が騒音になって、一気に流れ込んできた。すっかり降りるタイミングを外した私が、端の方でモジモジしているうちに、座席は埋まっていく。


 ドアの左右の隙間もなくなって、取り残されたサラリーマンは私の前の壁になった。


 別に外なんて見えなくてもいいけど…あれ?

「けど」ってなんだ。

 私ってそんなに気にする女になったのか?

 いやいや。私の大事なショートブーツだけは踏まないでねって、教えたかっただけ。


 乗車が落ち着くと、どの駅でも変わりのない、田舎っぽい小節のメロディが、発車の知らせを告げる。


 その度に私は小さくため息をついてる。

 ひと駅ひと駅、どんどん重くなる気持ちが、身体から漏れてるんだろうな。

 隣のおばさんにチラ見られるのも、そのせいだ。


 ミナミ(23歳)という名前の女を、今日この電車に乗せた理由は、もう私が昨日の夜に整理してまとめていた。

 それでも不安だから紙に書いて、黙読までしたのに、いまだにこのは納得できないらしい。


 いやいや。

 昨夜、天井を見ていた瞳が閉じて、意識が飛ぶまでは、準備できていたはず。

 けれど今日は、全然関係のない発車メロディが引き金になって、私の心の盾がどんどん剥がれていく。

 吊り広告に、大きなサイズと派手なフォントで「変われる勇気」とか載ってるのが、何か腹立たしい。

 けれど気を紛らわすには、怒りの燃料が少なすぎて、すぐ心が萎えてしまった。


 こんな時は、ポケットの中の友人たちに勇気を頂こう。


  メッセージ――既読ありの返事なし。

  ポム太郎の様子――あげ過ぎた餌を放置、爆睡中。

  牧場の収穫――時間短縮には100ジェム必要です。


 裏切り者! 私はスマホをリュックのダブルポケットに手荒く放り込んだ。


 カーブで車体が気持ち悪く左右に揺れるたび、手元の黒い筒状のケースの底が、ずり下がってくる。


 今日の私の、唯一の武器。今までの自信が、この中に何枚か入っている。でも本当に効くかどうかは、わからない。


 いつも見てくれる同僚や上司は評価してくれるけれど、今回の相手はこの世界とは無縁の二人だから。


 ポスターケースをシャギーコート越しにぐっと抱きしめた。


 目の前にいるマイカバー文庫本持参の中年が、眼鏡の下から見てくるのは無視した。


 私には「これ」しかないし。


 次の駅の名を放送しながら、電車のスピードが緩められていく。

 立っている人が回れ右をして、降りる準備をし出していた。


 ドアがスライドして、待ち構えていた客たちが同じ足音を立て、戸口に向かっていく。


 本に集中していた中年も、結局つり革を離して、その駅で降りる列に加わっていた。


 ばさっという何かの音がして、中年の身体が後ろに弾けた。人の流れが一瞬、吹き溜まる。


 トラブル…?


 やがて人の動きは再開し、降りる客がはけていった。私の車内の視界が再び開いた。


 対面にいる真っ白と安っぽいペンキの赤。それが私が最初に見た、山猿そいつの色だった。

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