大図書館の猫

原田 ひう

第1話 ハインリヒのキャリア

 私の名前はアニー、21歳。アン・エリザベス・ダーウィンというのが正式な名前だけど、父のチャールズは私が小さな頃から私を猫っ可愛がりにアニーと呼ぶ。おっと、猫っ可愛がりなんて言葉を使ったら、またハインリヒにどんな冷たい目線をおくられることか……。

 ハインリヒというのは私の上司にして親友の猫だ。それはそれはゴージャスなトラ猫で、右目が金色、左が碧色のオッドアイ。人間なら王族筋の上流階級にでも属しているに違いないと噂される風貌だったろうハインリヒは、ヴィクトリア女王が治める大英帝国の大図書館グレートライブラリーで主任ライブラリアンを務めている。女子で初の大学卒となった私が大図書館グレートライブラリーへのキャリアを掴んだのも、ハインリヒとの繋がりが可能にしてくれたことだ。何しろハインリヒがここまでのキャリアを上り詰めるに至った後押しをしたのが私の父、チャールズ・ダーウィンと辞書編集者のロジェが開発した音声翻訳機なのだ。翻訳機が出来た頃は私も病気から快復していたので、ハインリヒと一緒に家庭教師ガヴァネスからヨーロッパの数言語を一緒に学んだこともある。そんなハインリヒがトップを務めるからこそ、私も新卒のペーペーでも能力を認められ、こんな大層な職場で職業婦人になることができたってわけ。

 ハインリヒは年齢不詳だけど、私が10歳で重い病気の治療のためにこの温泉保養地にして文化の都、グレートモルヴェンの街にやって来た時すでに天才猫として名を馳せていた。人間の言葉が分かるハインリヒは、問い合わせられた書籍を理解してすぐ持ってくることができたから、まずは比較的規模が小さかった音楽図書室付きのライブラリーキャットとしてキャリアをスタートさせた。ライブラリーキャットと言うと本来は大学なんかにいるマスコットキャラ的な存在のことだけど、ハインリヒの場合は実際の図書館業務を伴っていたのだ。

 音楽図書室は比較的小さいといっても、首都ロンドンを押しのけてヨーロッパ一の蔵書を誇るこの大図書館グレートライブラリーにある設備だから、未来の名音楽家のたまごたちがさらなる知識を求めてやって来る。その頃ハインリヒと友達になったエドワード・エルガーは音楽図書室の常連だった。今はライプツィヒに留学するために事務員の仕事をしてお金を貯めているけど、中々ね……と先週エドワードは頭をかいていたっけ。

 まあ、それはさておき、音楽図書室付きだったハインリヒがほぼ完璧に人間の言語を理解していたのは間違いないと誰もが理解していた。そこで人間もハインリヒの話す言葉が分かればどうか、と音性翻訳機の開発の話が持ち上がり、私の療養のためにグレートモルヴェンに移住してきていた父チャールズが、辞書編集者のロジェと共に開発プロジェクトに参加したのだった。

 この翻訳機のおかげで人間との会話が可能になったハインリヒは、その語学能力を飛躍的に向上させて今や50か国語を自由自在に操るようになっている。そもそもが天才的頭脳の持ち主であるこの猫は、人語の読み書きを学んでからは自分でありとあらゆる知識を得られるようになったため、ヨーロッパ一の大図書館のトップを務めるに至ったのだ。



 ここで私はタイプライターの手を止めた。

「アニー、またろくでもない創作をしているんじゃないだろうね?」

 私の顔を憮然とした表情で見下ろしているのは猫のハインリヒだった。書架に渡した梯子の上に立ち、館外への配達業務をこなす街灯型配達機ガスランプポストに書籍情報を入力している。

「だいじょうぶ、創作じゃありません。事実の羅列ですよ、ハインリヒ」

 私はあからさまに疑念の色をみせる金と碧の目を真っ直ぐ見つめ、にっこりと笑った。

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