24:有栖が夢から覚めたとき

 責任は重大だ。

 私の双肩には親友の恋の行方と、黒瀬くんたちの命運がかかっている。


 大福と深夜まで話し込んだ九月十七日、火曜日。

 私は特別校舎の屋上に続く扉を見つめ、深呼吸を繰り返した。


 朝、同じ美術部の先輩に伝言を頼んでおいた。

 先輩がちゃんと伝えていてくれたなら、白石先輩はこの先で待っているはずだ。


 私たちが普段使っている教室棟の屋上ではなく、特別校舎の屋上を待ち合わせ場所にしたのは万が一にも邪魔が入らないようにするためだった。


 白石先輩のファンは多い。

 二人きりで話しているところを目撃されたら厄介なことになる。


 一色さんは教室で黒瀬くんと仲良くお手製のお弁当を食べているはずだから、心配いらない。


 ――見ていてね、大福くん。

 きっとあなたの信頼に応えてみせると、校舎の外にいるはずの大福に呼びかける。


 彼は神さまが作り出した存在、ある意味神さまの一部なので、神さまと行動を共にしている一色さんに近づきすぎると感知されてしまう。彼が私の家の近くで待ち伏せしていたのはそういう理由かららしい。


 一週間前、九月十日の夜、悠理ちゃんは黒瀬くんに告白し、一色さんたちの悪意によって失恋させられた。


 そのことで大福が猛抗議した結果、彼は一色さんのアパートで監禁された。


 隙を見て脱走した後、彼は駆けずり回って味方になってくれそうな人物を探した。


 そこで白羽の矢が立ったのが私。

 皆が一色さんに好意を抱く中、唯一私は彼女を嫌悪していた。


 私はそんな自分が誇らしい。

 神さまの洗脳よりも友情が勝ったのだから。


 良し、行こう。

 三度目の深呼吸を終えて、私は唇を結び、屋上の扉を開けた。


 青空に薄く雲が浮かんでいる。

 風の吹く屋上に一人立ち、陽に透ける淡い茶色の髪をそよがせる白石先輩の姿は、それだけで一枚の絵になった。


 ただじっと見惚れることができれば、どれだけ幸せだろう。

 でも私は彼を賛美するためではなく、彼の目の曇りを拭い去るためにここに来た。


「こんにちは、白石先輩」

「こんにちは。どうしたの? 突然呼び出して。井田がまた何かやったかな」

「いえ、井田先輩は関係ありません。おかげさまで、井田先輩とはあれから一度も顔を合わせていませんから」

 私は言いながら、白石先輩に歩み寄った。


「それなら良かったけど。僕を呼び出した理由は?」

 白石先輩が小鳥のように首を傾げる。

 その仕草すらも優美。

 枝毛一つ見当たらない髪がさらりと揺れた。


「質問したいことがあるんです。私と同じクラスの一色さんと先輩が付き合っているというのは本当でしょうか」

「うん、そうだよ。日曜日には乃亜を招いてお茶会を開いたんだ。拓馬や陸も乃亜のことが好きだから、誰が乃亜の隣に座るかで揉めてね。乃亜は困ったように笑ってたよ。乃亜の困り顔って可愛いんだ。もっと困らせたくなる」


 重症だ。

 知ってはいたけれど、改めて洗脳された本人の口から聞くとダメージが大きい。

 白石先輩が素敵な笑顔で言うからなおさら、頭がくらくらした。


「……一色さんが四股かけていると知っていて好きなんですか」

「乃亜が一人に決められないって泣くんだもの。しょうがないでしょう? だから皆で抜け駆け禁止っていう協定を作って――」

「わかりました、もういいです」

 聞くに堪えず、私は遮った。

 白石先輩はきょとんとしている。

 何が私の癇に障ったのかわからない、という顔だ。


「先輩」

 私はにっこり笑った

 これからが勝負。

 悠理ちゃん、大福くん、私に勇気を貸して。


「私、井田先輩から助けてくれた先輩のこと、心から尊敬してました。でも、その感情はいま綺麗に消えました。先輩ってその程度の人だったんですね。見損ないました」

「……何だって?」

 空気が凍って、亀裂が走る。

 常に微笑んでいる先輩の顔から表情が消えた。

 怯むな。私は自分に言い聞かせ、毅然と胸を張った。


「常識で考えてみてください。ただ一人の人を全力で愛し、愛されるのが恋ですよね? でも先輩が夢中になっているのは四股をかけている女性です。つまり先輩は、普通の人に比べて四分の一しか愛を注がれていない現状に満足してるってことですよね。つまり、その程度のつまらない人だったってことでしょう?」


「乃亜は特別な子なんだ。四股なんて下品な表現は止めてくれないかな。乃亜はただ同時に四人の男を愛してしまっただけだよ」

「言い方を変えたって事実は変わりません。一色さんのどこがどう特別なんですか。四人の男性に同時に手を出す特別最低な女性だという意味なら同意しますけれど」


「いい加減にしろ。乃亜を侮辱するな」

 口調が変わった。先輩が発散している敵意は尋常ではなく、その目を見ているだけで殺されそうな心地になる。


 全身が粟立った。

 殴られるかもしれない。

 でもそんなの、ここに来たときから覚悟している。

 こうなったらとことんやってやる!


「侮辱されてるのは先輩のほうなんですよ!!」

 私は白石先輩に詰め寄り、その両腕を掴んで睨み上げた。


「目を覚ましてください! 一色さんは先輩の敵です! 神さまを味方につけて、いいように先輩の心を操ってる!」

「……何を言ってるんだ?」

 神さまという突拍子もない単語に怒りも忘れたらしく、白石先輩は眉をひそめた。


「信じられないでしょうけど聞いてください! この世界は乙女ゲームの世界で、一色乃亜はヒロインなんです!」


 私は昨日の夜、大福から全てを聞いた。

 初めはもちろん信じられなかった。


 でも、攻略対象キャラだという黒瀬くんや白石先輩が二次元からそのまま飛び出してきたような魅力を備えたイケメンであることや、悠理ちゃんが黒瀬くんに怪我をさせた日の放課後、喫茶店で「私はモブだから! 彼の運命の相手は別にいるから!」と叫んだことを思い出すと、認めざるをえなかった。


 黒瀬くんと悠理ちゃんの恋は一色乃亜の都合で成就しなかった。

 私はその運命を覆す。

 黒瀬くんや白石先輩の目を覚まさせる。

 そのためにここにいる。

 そのためなら、なんだってしてみせる!


「乃亜の傍には人の心を自由に操れる神さまがいる、先輩はその影響を受けているんです! いいえ、先輩だけじゃない、黒瀬くんも緑地くんも、赤嶺先輩も、みんなです! でなきゃおかしいと思いませんか、この状況! お茶会に招くほど可愛がってる後輩たちや、幼いころから先輩に仕えていた赤嶺先輩と一人の女性を取り合ってるんですよ!? ゲームならそれでいいかもしれないけれど、現実でそれをやるなんて狂ってる! 乃亜は愛されるための努力もしないで、皆を一方的に支配したんです!」


 私は白石先輩の腕を激しく揺さぶった。

 悔しさと怒りで涙が溢れてくる。


「乃亜は先輩や黒瀬くんたちをとことん下に見て、馬鹿にしてる! 私は乃亜を許せない! 先輩はそれでいいんですか!? 乃亜に支配されたままでいいんですか!?」

 滲む視界で白石先輩を見上げる。


「先輩は支配される側じゃない、支配する側でしょう!? 井田先輩を徹底的に打ち負かし、私を心底痺れさせた先輩はどこに行ってしまったんですか!? 白石有栖は決して誰にも屈しない! たとえ相手が王さまだろうが神さまだろうが冷たく笑って踏みにじる! 私が好きになった先輩はそういう人なんです! いつだって自分を貫き通す、世界で一番格好良い人なんです!!」


 どうか届いて。祈りながら叫んだ。


「お願いです、先輩! どうか正気に戻ってくださ――」

「……ふ」

 屋上に明るい笑い声が弾けた。

 声の主は白石先輩。

 おかしそうに腹を腕で押さえ、口元に手をやり、笑っている。


「…………先輩?」

 目をぱちくりさせる。

 その拍子に、目尻にたまっていた涙が零れた。


「……中村さんの中の僕のイメージってどうなってるの。王さまだろうが神さまだろうが冷たく笑って踏みにじるって……僕は邪神か何か?」

 白石先輩が笑いを収め、長い人差し指で私の目元を拭った。

 突然の行為に心臓がどきりと鳴る。


「は、はい。邪神っぽいイメージです……」

「酷いなあ」

 口ではそう言いながらも、白石先輩は笑っている。

 憑き物が落ちたような表情を見て、私は悟った。


「……洗脳が解けたんですか?」

「うん。おかげさまで」

 白石先輩はご褒美のように、私の頭を優しく撫でてくれた。

 その感触と、私だけに向けられた笑顔で、これまでの全てが報われた。


「なんだか夢を見ていたような気分だね。しかもどうやらそれはとびきりの悪夢だったらしい。四股かける女なんて最悪以外の何物でもないのに、陸たちと取り合ってるとか……何の冗談なんだか」

 くすくすくす――白石先輩の笑みは私の背筋をひやりとさせた。


「それで? 乙女ゲームの世界だとか神さまだとか、興味深いことを言っていたけれど、説明を求めてもいいかな?」

「はい。実は――」

 私は手短に事情を話した。


「……ふうん。乙女ゲームの世界……問題は乃亜の傍にいる神さまか」

 白石先輩は顎に手を当て、考えるような素振りを見せた。


「あの、信じるんですか? 自分で言うのもなんですが、物凄く荒唐無稽な話だと思うんですけど……私も現実を受け入れるまで時間がかかったんですけど」

「まあ確かに荒唐無稽な話だとは思うけれど。いまのいままで乃亜が好きだと思い込まされてて、周りに洗脳されてる人間がいるんだから信じるしかないでしょう?」

 白石先輩は肩を竦め、続いて、何でもないことのように言い放った。


「まずは陸と幸太の洗脳を解こう」

「ええっ!? できるんですか!?」

「できるよ。陸が僕に逆らうなんてありえないし、幸太は単純だからね。神さまとかいうふざけた存在と対決する前に、あの二人にはさっさと正気に戻ってもらおう」

「……はあ」

 私は頷くしかない。白石先輩ってやっぱり凄い。


「黒瀬くんは?」

「残念だけど拓馬は後回しだ。大福の話によると拓馬は野々原さんへの恋心を消すために何度も洗脳を繰り返され、誰より強く支配されているそうだからね。僕が無理やり洗脳を解こうとすると、最悪、心が壊れてしまいかねない」


 私は腕を掴み、震えを抑えた。

 大丈夫。黒瀬くんはきっと正気に戻る。

 悠理ちゃんと素敵なハッピーエンドを迎えるんだ。

 それ以外の結末なんて認められるものか。


「だから拓馬のことはちゃんと神さまにお願いして、正式な手順を踏んで洗脳を解いてもらおうね」

 白石先輩は『お願い』を強調し、笑った。

 私は反射的に身体を震わせた。

 白石先輩の笑みは、そういうものだった。


「……白石先輩、実は滅茶苦茶怒ってます?」

「当然、怒り狂ってるよ?」

 白石先輩はにこにこしている。

 怒りのメーターはとうに振り切れているらしい。


「僕は仲間に手を出されるのが一番嫌いなんだ。というわけで、神さまと乃亜には報いを受けてもらおう。存分にね」

「……倍返しですか?」

 尋ねると、白石先輩は穏やかに言った。


「まさか。これだけ好き勝手にやってくれたんだから、最低でも十倍だよ。表面だけ謝罪されても意味がないし、骨の髄まで後悔させないとね」


 さよなら神さま。一色さん。

 私は彼女たちの末路を思い、心の中で合掌した。

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