23:濡れ鼠の協力要請

 ◆   ◆


 駅の改札を出ると、本格的に雨が降り始めていた。


 前方でぽん、ぽん、と連続して傘が開く。

 サラリーマンが開いた黒い傘と、OLらしき女性が開いた赤い傘。


 二人はそれぞれ傘を手に、違う方向へ歩いていく。


 セーラー服を着た二人の女子生徒が鞄を頭の上に掲げ、なんだか楽しそうに騒ぎながら駅前のコンビニへ走って行った。


 私はその様子をぼんやり眺め、左手に下げていた花柄の傘を広げた。

 左肩にかけた鞄を持ち直し、雨の中へ踏み出す。


 車が行き交う駅前の大通りに沿って歩く。

 大通りといっても繁華街のような人通りはない。私の地元は田舎だ。

 五分ほど歩いて足のつま先の向きを変え、こうして大通りを外れれば、歩行者も外灯もまばらになり、全体的に視界が暗くなる。


 今日は雨だから、なおさら視界が悪い。

 角のたばこ屋の横に立つ外灯に照らされ、銀色の線がいくつもいくつも視界を上から下へ流れていく。


 まるで誰かが泣いてるような雨だ――そう考えて、ため息が漏れた。


 雨、涙、と連想していって、最後に浮かんだのは悠理ちゃん。


 涙ぐむ姿なら見たことがあるけれど、実際に泣いた姿を見たことはない。


 でも多分、彼女は泣いていると思う。


 おかしくなったのは、一週間前の月曜日、一色さんが転入してきてからだ。

 なんと彼女は転入初日で黒瀬くんと付き合い始めた。


 悠理ちゃんからそう聞いたときは驚いた――いや、そんな表現では生温い。私は心底驚愕した。


 黒瀬くんは悠理ちゃんのことが好きなんだと思っていた。

 井田先輩から付きまとわれて怯える私に、黒瀬くんは悠理ちゃんのことを色々話してくれた。


 本人は慰めのつもりだったんだろうけれど、あれは完全に惚気としか受け取れず、微笑ましかった。


 ストーカー事件が解決した後も、黒瀬くんは悠理ちゃんとよく喋っていた。

 それこそ一色さんが転入してくるその前日まで、二人は楽しそうに笑っていた。


 悠理ちゃんは付き合っていないと言い張ったけど、二人が好き合っているのは傍から見ても確実だった。


 それなのに黒瀬くんは一色さんと付き合い始め、その翌日から悠理ちゃんを無視するようになった。


 百万歩くらい譲って、黒瀬くんが一色さんを好きになり、一色さんへの配慮として悠理ちゃんを無視するようになったことを認めたとしても、だ。


 一色さんが黒瀬くんだけじゃなく、緑地くんや赤嶺先輩、挙句の果てには白石先輩とまで同時に交際するようになったことは、全く理解できない。


 何より理解しがたいことに、この異常事態を誰もが受け入れている!

 四股をかけられている黒瀬くんたち当人はもちろんのこと、一色さんを悪く言う人が誰もいない!

 白石先輩の大勢のファンクラブ会員も、黒瀬くんや緑地くんのファンの子も、誰一人!


「一色さんなら許せるよね」と、悠理ちゃんをあれだけ目の敵にしていた吉住さんまで言うのだから、みんなどうかしてしまったとしか思えない。


 周囲の説得は諦め、勇気を出して一色さん本人に直接「四股は酷いと思う」と苦言を呈しても、「拓馬たちが了承してるんだから部外者に口出しされる筋合いはない」とのこと。


 悪びれもしない彼女に私は苛立ち、本当にこれでいいのかと悠理ちゃんに問い質そうとした。

 でも。


「止めて」


 たった三文字。一言だった。

 悠理ちゃんは私と目を合わせようともせず、俯いたまま、はっきりとそう言った。

 悠理ちゃんがこれだけ強く私を拒絶したのは初めてだった。


「拓馬のことは言わないで。聞きたくない」


 悠理ちゃんは無表情だった。

 感情がないわけじゃない、むしろその逆。

 あれは、溢れ出そうとする感情を無理やり殺したが故の――泣き出す寸前の無表情だった。


 言葉を失って立ち尽くした私に、悠理ちゃんは笑った。

 笑顔のまま、速やかに話題を変えた。


 あれから一週間、悠理ちゃんは普段通りに過ごしているように見える。

 怒るべきときに怒り、笑うべきときに笑っている。


 そして、たまに、魂が抜けたような顔をする。

 心だけが遠い遠い場所をさまよっているような。

 迷子になった子どものような、途方に暮れたような……見ている私が辛くなるような、切なくて、寂しい顔を。


 胸が痛み、私は傘の柄を握る手に力を込めた。


「…………」

 しとしとと降る雨の中。

 シャッターの下りた、とうに潰れた小さな本屋の前で、私は足を止めた。


 視界内には誰もいない。足音も聞こえない。

 ただ雨音と、通りを走る車の音が聞こえるばかり。


「……私」

 雨音に消えるような、微かな声で呟く。

 150センチもない身長のせいか、皆からはおとなしくて気弱だと思われているし、私もそうだとばかり思っていたけれど、違うことは自覚しつつある。

 ストーカー事件が良くも悪くも私を変えた。


「一色さんが」

 足元に転がる小石を見下ろして、息を吸う。


「大っ嫌いっ!!」


 全力で蹴っ飛ばした小石は彼方へと飛んでいき、あっという間に闇夜に消えた。

 ほんのちょっとだけ気分がすっとし、左肩にかけた鞄を持ち直していると。


「奇遇だな。オイラもだ」


「っ!?」

 どこからともなく聞こえてきた声に、私は飛び上がった。

 不意打ちを受けた心臓が大きく跳ねている。


「な、何? 誰?」

 見回しても誰もいない。

 そんな馬鹿な。いま確かに声が。


「こっちこっち。足元。下だ」

「下?」

 肩にかかった鞄の紐を強く掴み、身を縮めたまま下を向くと、ずぶ濡れの鼠が足元にいた。


「きゃーっ、鼠ぃぃ!!」

「違う! ハムスターだ!!」

 後ろの二本足で立って、鼠――もとい、ハムスターは強く抗議してきた。

 威嚇するように口が開いている。

 よっぽど鼠呼ばわりが嫌らしい。

 ハムスターを飼ったこともなく、それほど思い入れのない私には、正直、鼠もハムスターも似たようなものだと思うんだけど。尻尾が短いか長いかの違いでは?


「……は、ハムスター? しゃべっ……?」

 一色さんへの怒りでどうかしちゃったのかな。


 私、相当疲れてる?

 夢でも見てるの?


「オイラ大福って言うんだ。よろしく」

 ハムスターは、後ろの二本足で立ったまま、ぺこり、と頭を下げてきた。


「………………」

 その礼儀正しい様子を見て、初めて興味が沸き、私は少しだけ警戒を解いた。


 何だろうこのハムスター。

 文字通りに濡れ鼠で、みすぼらしくて、怪しいことこの上ない。

 でも、理性的で、飛び掛かってくるような気配もない。


「信じられないと思うけど聞いてくれ。オイラ悠理の友達……いや、友達っていうのかな……とにかく味方なんだ。オイラはずっと悠理の傍にいた。一時期は悠理の家で飼われてもいた。だからお前のことも知ってる、中村由香」


 ハムスターは全身を雨に打たれながら、両手を広げた。

 これは害がないことをアピールしたいのだろうか。


「悠理って……悠理ちゃんのこと?」

 私は恐る恐る屈んで、小さなハムスターに傘をさしかけた。


「そうだ。お前の友達の野々原悠理だ。オイラは悠理が拓馬のことで傷ついて泣いてたことも知ってるし、一色乃亜の正体も知ってる。全てがおかしくなっちまったのは乃亜のせいなんだ。正確に言うと乃亜の傍にいる神さまが原因だ。あいつをどうにかしないと永遠に拓馬は乃亜のものだし、悠理は泣いたまんまだ。オイラそんなの許せない。お前もそうだろ。だから協力を頼みたい」


「ちょ、ちょっと待って。一体何がなんだか……神さま?」

 喋るハムスターとの出会いだけで衝撃なのに、彼(?)が話す内容も、頭痛を誘発するには十分すぎた。

 こめかみを押さえて揉んでいると、ハムスターは頷いた。


「ああ。神さまは乃亜がありとあらゆる面で有利になり、皆に愛されるよう仕向けている。四股をかければ非難を浴びて当然だろう。その相手が人気者ならなおさらな。それを『大したことじゃない』ことにし、乃亜が何をしても許される空気を作り出しているのがこいつだ。拓馬たちの心を操ってるのもな」


「!? ちょっと待って、心を操るって……!?」

 唖然としてハムスターを見ると、ハムスターは再び重々しく頷いた。


「拓馬が乃亜と付き合ってるのは本心じゃない。それが乃亜の望みだから、神さまが拓馬の恋心を上書きしちまったんだ。本当に拓馬が好きなのは悠理なのに、乃亜だと錯覚させられてる」


「何それ……それが本当なら、許せない!」

 皮膚が痛みを覚えるほどに強く手を握る。

 この一週間ですっかり変わってしまった黒瀬くんや、異常に一色さんに甘い皆の言動も、神さまという人智を越えた存在が介入したからだと思えば説明がつく。

 というか、それ以外に納得なんてできるわけがない。


 ――黒瀬くんもそうだけど、白石先輩が平気で四股をかける女を好きになるなんて、おかしいと思ってたんだよ。道理で。

 私は目を閉じ、大福と名乗るハムスターの言葉を全面的に信じることにした。

 悠理ちゃんの苦しみを思い、目が眩むほどの怒りを覚える。


「……でも、相手は神さまなんでしょう? どうやって対抗するの?」

 目を開き、大真面目に尋ねる。


「対抗できるとしたら有栖しかいない」

「白石先輩?」

 驚いた。


「でも、いま白石先輩は神さまに操られてる状態なんだよね?」

「そうだ。だから由香、お前にはなんとか有栖の目を覚まさせてほしい。あいつが無理なら誰にも無理――ぶしゅっ」

 ハムスターはくしゃみをして、ぶるりと震えた。


「ああ、ごめんね」

 話に聞き入るあまり忘れていたけれど、彼は長時間雨に打たれ続けてきたのだろう。

 早く乾かさなければ風邪を引く。


 私は慌てて鞄からタオルを引っ張り出した。

 朝、天気予報アプリを見て、念のためにと持ってきていて正解だった。


「はい。乗って」

 傘の柄を肩にかけ、両手でタオルを持って、差し出す。


「……タオル汚れちまうぞ?」

「いいよ。タオル一枚よりも、大福くんが風邪引かないことのほうがずっと大事だよ」

 安心させるように笑う。


「……そんじゃお言葉に甘えて」

 ぴょん、と大福は私の手の中に飛び乗って来た。

 タオルで優しくその身体を包み、軽く揉む。

 なんとなくおにぎりを作っているような気分になった。


「……やっぱり由香は悠理の親友なんだな」

「どうして?」

 独り言のように呟かれた言葉が気になって、私は手を止めた。

 すると、大福は笑った。

 ハムスターの表情なんてわからないけれど、そんな気がした。


「悠理と初めて会話した日も雨だったんだ。あいつ、オイラが濡れることを心配して家に来るかって聞いてくれたんだ。それからオイラ、悠理の家に住むことになったんだよ」

「……そうなんだ」

 胸が温かくなるエピソードを聞いて、私は微笑んだ。


「でも、それならどうしてここに? 悠理ちゃんの家に帰らなくていいの?」

 首を傾げると、大福は寂しそうに俯いた。


「……オイラ、ずっと前に拓馬の感情制限が外れていたことを神さまに報告しなかった罰を受けてるんだ。いまのオイラは悠理と一切の接触ができないようになってる。悠理の目にオイラは見えないし、聞こえないし、触れない。だから、この前あいつがオイラの名前を呼んで泣いてたときも慰めてやれなかった。ずっと傍にいたのに。ただ、見てるだけで……」

「……感情制限?」

 大福の小さな口から出てくるのは、知らない情報ばかり。


「……順を追って話したい。オイラ、今日だけお前の家に行ってもいいかな」

 大福はつぶらな目で私を見た。


「いいよ。悠理ちゃんの友達なら大歓迎」

 私は微笑み、大福の頭をタオル越しに撫でた。

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