モブに転生した私が幸せを掴むまで。

星名柚花@書籍発売中

01:まさかの転生

 私には前世の記憶がある。

 私はいわゆる社畜だった。労基に触れないようにタイムカードを押してから始まる長い長いサービス残業。会社での寝泊まりはほとんど常態化し、眠気覚ましのコーヒーや栄養ドリンク片手に仕事に追われる日々を送っていた。


 気づけば十円ハゲができ、肌は荒れに荒れ、二年で体重は八キロも落ちた。


 それでもこのご時世、簡単に再就職先が見つかる保証はないし、これ以上の過酷な労働環境だったら……と悲観し、胃を痛めながらも会社にしがみついていた私は、とある休日、息抜きに遊んでいた学園系乙女ゲームキャラの何気ない「無理するな」という台詞を聞いた瞬間、頬を思い切り張られたような気がした。


 何故私はこんなに苦しいのに無理を押し通しているんだろう。

 会社を辞めよう。


 仕事漬けで遊ぶ暇すらなかったおかげでそれなりに貯金はある。

 たとえ再就職先が簡単に見つからなくたってしばらくは大丈夫、ホワイトな企業への転職目指して頑張ろう。


 決意した翌日、私は退職届を提出した。

 瞬間湯沸かし器のような上司は怒鳴り、退職届を突き返してきた。


 それでも私は頑として意思を曲げず、辞めると主張し続けた。

 なんだかんだと理由をつけて引き伸ばされたけれど、どうにか二カ月後に会社を辞めることができた。


 闘いが終わったその日の夜、私はおかしなテンションで泣きながら酒を飲み、笑いながら酒を飲み、ひたすら酒を飲み、急性アルコール中毒で死んだ。


 飲み過ぎには気を付けなければいけない。

 もっとも、転生したいまの私は、まだ飲酒できる年齢に達してないから、まだもう少し先の話だけれど。





「よーし、終わったっ」

 良く晴れた四月上旬の昼下がり。

 引っ越し後の荷ほどきを終え、段ボールをまとめて一か所に置いた私は、達成感とともに大きく伸びをした。


 ここは高校進学に伴って引っ越してきた学生向けのアパートの203号室。

 間取りは1DKで、一人暮らしにはちょうど良い広さだ。


 一人暮らしを許し、費用を全額負担してくれた両親には感謝しかない。

 お金を稼ぐって本当に大変だもんね。

 ええ、身を持って学びましたとも。


 優しい両親と妹に恵まれて、野々原悠理ののはらゆうりとして生まれることができて本当に良かったと、私は心からそう思っている。


『引っ越しの片づけ終わったよ』

 スマホを取り上げ、家族で作ったグループに向けてメッセージを送る。

 五分ほどして既読の文字がついた。


『お疲れ様。明後日からの高校生活、頑張りなさい。身体にはくれぐれも気を付けて』

 母からは労りのメッセージが返ってきた。


『はーい』

 私は幸せ者だとしみじみ実感しながら、笑顔のスタンプを返す。

 スマホを部屋着のポケットに入れてキッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。


 冷蔵庫の中はほとんど空っぽだ。

 買い物に行かなきゃ、そのついでに段ボールを捨てようと考えながら、ペットボトルの蓋を開け、コップに注いでお茶を飲む。


 そのとき、ガチャリと扉を開ける音が聞こえた。

 昼間は不在だった202号室の住人が帰って来たようだ。


 ちょうどいい、引っ越しの挨拶をしに行こう。

 上下左右の部屋のうち、あの部屋だけ終わってないもんね。


 私はコップを置いて服を着替え、リビングの壁に備えつけられた全身鏡の前に立った。


 全身鏡の向こうから見返してくるのは一人の少女だ。

 美少女ではない。容姿は至って平凡そのもの。


 でも、私には十分に魅力的な少女に見える。

 何せ十五歳。前世の私より十歳以上も若いからね。

 若いという事実は、それだけでかけがえのない財産だ。


 適度に日焼けした、瑞々しく、弾力のある肌。

 セミロングの髪にはきちんと栄養が行き届き、白髪の一本も見当たらない。


 服装は白のパーカーに花柄のスカート。

 ワンポイントの入った靴下は、母と一緒に行ったデパートで買ってもらったものだ。


 寝癖良し。

 スカートは膝丈だし、短すぎるってことはないよね。


 あれこれと点検した後、私は顎を引いた。

 何事も最初が肝心だ。

 隣の人がどんな人かはわからないけれど、できるだけ好印象を持ってもらえるようにしないと。


 にこっと、鏡の前で笑顔を作ってみせる。

 うん、オッケーってことにしておこう。


 私は引っ越しの挨拶用に買っておいたお菓子を紙袋に入れ、靴を履いて外に出た。

 隣の202号室の前に立ち、インターホンを鳴らす。


「はい」

 扉越しに返事が聞こえた。

 若い男性の声だ。高校生か。大学生か。

 社会人かもしれない。

 学生向けと言っても、学生以外は絶対不可というわけではないもんね。


 でもいまの声、なんだか聞き覚えがあるような。気のせい?


「突然すみません、隣の203号室に引っ越してきた野々原と申します。ご挨拶に伺いました」

 ドキドキしながら待っていると、中から物音がして、やがて扉が開いた。


「こんにちは」

 挨拶と共に姿を現したのはシャツにジーパンという、ラフな姿の背の高い男性。

 切り揃えられた艶やかな黒髪。

 きめ細かな白い肌に、切れ長の瞳。通った鼻梁。

 道を歩けば異性だけではなく同性の目すら引きそうな秀麗な顔立ち。


 彼の顔を見た瞬間、私の全身を激しいショックが貫いた。

 脳みそがひっくり返るような衝撃と共に思い出す。


 アパートがあるのは都下に位置する藤美野ふじみの市。

 そしてアパートの名前は『メゾンドカラフル』。

 メゾンドカラフルの202号室――そうだ、ここに住んでいるのは、前世の私が遊んでいた乙女ゲーム『カラフルラバーズ』のキャラクター!

 ヒロインに「無理するな」と言い、その言葉が前世の私に転職を決意させた――


「――拓馬たくまっ!?」

「え? なんでおれの名前を?」

 突然名前を言い当てられて驚いたらしく、彼は大きな目をさらに大きくした。


「あっ」

 はっとして口元を押さえる。


「いいえ、すみません! 知り合いによく似ていたもので、勘違いです、なんでもないんです、ごめんなさい」

 私は狼狽しながら頭を下げた。

 心臓がバクバク言っている。

 信じられないけど間違いない。


 市の名前、ヒロインが暮らし始めるアパートの名前、202号室の住人の名前、全てが遊んでいた乙女ゲームと一致する。


 ここは『カラフルラバーズ』の世界なんだ!

 なんでいままで気づかなかった、私!?


「これどうぞ、良かったら食べてください! それでは!」

 私は拓馬の手に紙袋を押しつけるようにして、脱兎の如き速さで203号室へ戻り、後ろ手に扉を閉めた。


「…………」

 狭い沓脱くつぬぎを数歩で踏破し、無言で身を反転して廊下に座り込む。

 頭の中はかつてないほどの大混乱。


「三次元になっても拓馬は超格好良かった! 声だって超イケボだったし背も高くてモデルみたいだった!」ともう一人の私が身悶え、「そんなこと言ってる場合か!」ともう一人の私が突っ込んでいる。


 いやいや、ちょっと待って。落ち着け。

 私は胸に手を当てて深呼吸し、覚えている限りのゲーム情報を頭から引き出した。


 ゲーム中に野々原悠理なんて出てこないし、203号室の住人は謎のままで終わったはず。


 つまり私は完全なるモブってことだ。


 対してゲームのヒロイン、一色乃亜いっしきのあは高校二年の春に藤美野学園に転入して来て、201号室に住み始める。


 そして攻略対象の中でもメインとなるキャラ、黒瀬くろせ拓馬とクラスメイトになるのだ。


 学校内や外で起きるイベントもあるけれど、何より二人は部屋が隣同士だからこそ親密になっていく。


 拓馬は致命的に料理下手で、本人にもその自覚があるため、昼食はいつも購買、夜はコンビニ弁当かスーパーの総菜。


 栄養面で大いに不安になる食生活を送っていると知った乃亜はそれから毎日のように彼のために手料理を作って、次第に距離を縮め……って、ちょっと待って?


 乃亜が転入して来るのは約一年後。

 それじゃいま、ヒロイン不在の状態じゃない?


 ヒロイン不在の乙女ゲームの世界に転生なんて、こんなことってあるの?


「いや、そもそもこれは本当に現実なの? 乙女ゲームの世界に転生なんてありえないでしょ! そうだよ、私、夢でも見てるんじゃ」


 頬を強くつねってみる。

 痛みはこれが紛れもなく現実であり、安易な夢オチで終わらせてはくれないことを思い知らせ、私は崩れ落ちた。

 背中から廊下に倒れ、両手で顔を覆う。


「……なんでこんなことに……死ぬ間際、お酒を飲みながら『カラフルラバーズ』をプレイしてたから、強く印象に残った、とか?」


 べろんべろんに酔っ払っていたせいであまりよくは覚えていないけれど、私は咽び泣きながら「拓馬のおかげでやっと社畜から解放されたよぉぉ」などと、携帯ゲーム機の画面越しに拓馬に報告していた気がする。


 となると、これは拓馬への感謝と熱い思いが起こした奇跡?


 しかし、仮にそうだったとしても、何故にモブ?


 転生するならヒロインじゃないの?

 私はプレイヤーとして、ヒロイン視点で物語を楽しんでいたのに。


 モブとして転生したところで、私にどうしろというの、神様!?

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