陸攻乙女のギンバイ戦記

矢舷陸宏

ギンバイの糖子

第1話 「戦記」の始まり

 暗がりの椰子林を強風が揺らしていた。

 轟々と唸り声を上げる風は、しかし自然に発生したソレではない。人工で引き起こされているものである。

 その轟音と風の発生源は大きな飛行機であった。

 双発の大型機が景気よくエンジンを唸らせ、機体同様の大きなプロペラを元気に回して強風を巻き起こしているのである。

 葉巻のような特徴的な形をしたその大型機は、軍で採用されている爆撃機であった。

 現に胴体内部の爆弾倉には人間の上半身程の小さな爆弾が搭載されており、今まさに出撃しようとしているような様子である。否、実際にこの爆撃機は今から飛び立とうとしていた。

「お弁当積んだー?」

 そんな勇ましい光景に似合わない、間の抜けた言葉がプロペラに負けないほどの大声で投げ掛けられる。

 声の主は、これまた勇ましい爆撃機には似合わない少女であった。

 ポッチャリとした寸胴の身体に、丸っこくて可愛らしい童顔。飛行服を着ているというよりも着られている姿はどう見ても軍隊一日体験といった感じの女学生にしか見えない。

 しかし右腕に燦然と輝く帝國海軍の「二等飛行兵曹」の階級章が、彼女が間違いなく帝國海軍の飛行搭乗員である事を悠然と物語っていた。

「はぁ。載せましたよ」

 声を投げられた同乗の搭乗整備員(以下、搭整)が答えると、少女は「ぃよし」と満足そうに頷いた。

「よし、じゃないですよ」

 コツンッと少女の後頭部に拳が当たる。

「もっと他に気にする事があるでしょう」

 そう言うのは先ほどと同じ年頃の少女である。ただ先の少女のような柔和な雰囲気は一切なく、目付きは異様なまでに鋭くて冷たい雰囲気を持っていた。

「飛行長が〝黄里は何処だ!〟とさっきから怒鳴っていましたよ」

 目付きの悪い少女が言うと、丸っこい少女の方は顔色を青くした。

「指揮所にいたから急いで行った方がいいですよ」

 頷いて少女は言われたように指揮所まで駆けて行く。走り方まで不細工で兵隊らしくなかった。

黄里きざと参りました!」

 駆けて行った先の航空指揮所で目的の人物を見付けた少女――黄里糖子とうこが踵を鳴らして申告をすると、それを見た飛行長は「遅いぞ!」と怒鳴り声を上げた。

「飛行準備は出来たのか」

「はぁ。概ねできました」

「そうか」

 飛行長は頷く。

「解っていると思うが、本日の飛行では三○八号の機長をお前が務める事になる」

「はぁ」

「言うまでもないが機長の責は重大だ。機長の判断ミスが搭乗員全員の死を招く事になる」

「はぁ」

「お前も初めての機長で緊張をしているとは思うが、だからといって失敗をする事は許されない。その事だけは忘れるな」

「はぁ」

「本当に解っているのか?」

 呆れ顔で飛行長が訊いて来たので、糖子は即座に「勿論です!」と元気よく言い返した。

「ところで飛行長」

「なんだ」

「バナナを積んで行ってもよろしいでしょうか」

 しばしの間があった。

 どうやら糖子が何と言ったのかを脳内で反芻しているらしい。

「ばなな?」

 それでも理解できなかったのか、飛行長は大真面目な顔をしている糖子に聞き返す。

「はぁ。飛行時間も長いですし、機上で冷やすと美味しいと聞きましたので」

「…………」

 しばし無言。

 それでようやく理解できたのか、飛行長は額を抑えて呆れたように溜息を吐いた。

「なんか心配したのが莫迦に思えて来たぞ……好きにしろ」

「ハッ!」

 元気よく敬礼をして、糖子は愛機「三○八号」の元に駆けていく。

 その後ろ姿を見送りながら、今回の飛行の空中指揮官である中尉が「大丈夫ですかね」と飛行長に訊ねる。

「あの様子だ。心配する方が莫迦に思える」

「何故あんな飯の事しか考えていない奴を機長に?」

「他にいないから仕方がない」

 言いながら飛行長は額を抑える。

「何しろ新しい作戦の準備で何処も彼処も人手不足だ。猫の手も借りるしかないような状況なんだよ」

「それはそうですが……」

 その答えでは中尉は不満であったらしい。しかし彼が満足するまで説得する気は飛行長にはなく、また今回出撃の搭乗員たちが指揮所前に集まり出したので会話自体を止めた。

 各機の機長が搭乗員が集まった事を中尉に申告、全員集まった事を確認してから号令が掛かる。

「飛行長に敬礼!」

 搭乗員全員が敬礼。いずれも糖子と似たような年頃の、若いというよりも幼い顔立ちの飛行兵ばかりであった。

 飛行長は彼らに答礼をすると、本日の飛行の目的が新たな駐屯地に向かう事、爆弾を搭載しているが、あくまで運搬が目的なので信管を外さない事、飛行中の諸注意や天候や航路などを事細かに説明をしていき、最後に「我が隊初の長距離飛行であるから無理をしないように」と付け加えた。

「特に三○八号機は機長が未経験だ。絶対に無理をしないように」

 その注意を最後にして、再び「敬礼!」の号令、続く「掛かれ!」で全員が愛機へと走っていく。

 糖子も航路図を貼りつけた大きな板と筆記用具片手に三○八号まで駆けて行くと、まずは搭乗口で一度立ち止まる。

「今日もよろしくお願いします」

 挨拶をして一礼。乗る前に愛機に挨拶をするのは糖子の習性であった。

 搭乗口に掛けられている梯子を昇って機内に入り、そのまま真っ直ぐ機体前部へと向かう。機体はまだ掩体壕に入っているので機内は暗いが足元に灯りが付いているので苦労するような事はなかった。

 機体前部に出ると途端に世界が明るくなる。

 操縦前の風防と天蓋から明るく日光が入って来ており、操縦席では地上整備員が暖機運転をしていた。

 操縦席は左右あり、右の主操縦席の真後ろには指揮官席が、そしてその後ろには電信席があって大きな無線機が置かれている。左の副操縦席の後ろに席はないが代わりに大きな航法机が設置されており、そこが航法を主任務とする偵察員の仕事場になっていた。

 先ほどの目付きの悪い少女がやって来て地上整備員と交代して主操縦席に座り、他の持ち場にも各搭乗員が就いて点検を行う。

 糖子も航法机に航路図や筆記用具、航法計算盤などを広げて今日の飛行経路を確認した後に機内ブザーを鳴らした。それに反応して各配置から「準備良し」という返答。

「出発準備良し」

 糖子が指示を出すと、即座に操縦員の返答。

「了解、出発します」

 グオンッとエンジンが独特の音を出し、それを合図に地上にいた整備員たちが車輪止めチョークを外す。

 チョークを外すと同時に整備員たちが機体から離れて行き、全員が完全に離れたのを確認してから三○八号はゆっくりと動き始めた。

 轟音を立てながら椰子の林に隠されていた三機の大型爆撃機がゆっくりと姿を現す。

 一機ずつ離陸線に着いていき、三○八号も離陸線に着いた所で糖子は再度ブザーを鳴らして準備万端かを確認、折り返しブザーが鳴った事で準備の完全を確認した。

「ではお気をつけて」

 今まで機の誘導をしていた地上整備員が敬礼をして機を降りる。彼が出て行くと同時に昇降口が閉じられ、飛行準備は完了した。

 双眼鏡で管制塔を見ていると「発進良し」の合図。操縦員に「発進せよ」の命令で、機は今までの亀のような鈍間な動きが嘘のような猛烈な勢いで走り始めた。

 この飛行場の滑走路は決して長くはないが、操縦員は慣れた様子で滑走路を一杯に使用して離陸する。

 今まで見えていた緑と茶の風景が消えて行き、あっという間に周囲は青一色の世界へと変わっていく。

 高度千五百メートルまで上昇し、既に上空で待機していた二機と合流、編隊を組んでからさらに上昇を続けていった。その間に改めて各所の点検を行う。

 飛行してからしか出来ない点検もあるし、何より不具合があって機器が止まりでもしたら死ぬのは乗っている糖子たちだ。点検は何度してもしたりないくらいである。

 この最終点検でも異常はなし。まずはホッと一安心する。

 編隊はそのまま上昇を続けて行き、高度三千メートルで水平飛行へと移った。一番燃料消費の少ない飛行高度、いわゆる巡航高度である。

 改めて周囲を見渡し、各部異常が無さそうな事を確認してから、糖子は航路図と筆記用具、航法計算盤を持って操縦席の下を潜り、機首の爆撃席へと移動した。

 機首は半球型の透明になっており、全面は上下左右死角ゼロの世界で、爆撃席に座っていると空を飛んでいるかのような錯覚を受けてしまう。高所恐怖症の人間なら泡を吹いて白目を剥きそうな状態だが、糖子には既に慣れ親しんだ気の楽な場所である。

 その爆撃席に陣取り、糖子はセットされている爆撃照準器を覗きこんだ。無論、爆弾を落とす為ではない。偏流や風向、風速を見る為である。

 機長であると同時に航法担当の偵察員である糖子は、時々にこうやって偏流、風向、風速を測定して機位を割り出して航路図に書き込んでいくという仕事があった。

 このように機位を割り出し、事前に決められている航路を飛ぶように指示、修正をする、いわゆる「航法」が偵察員の仕事であり、この航法を少しでも失敗すると機体は青い海の上を延々と飛び続けて辿りつけるのは陸地ではなくあの世という結果になってしまう。そのため偵察員の責任は極めて重大であったが、しかし今日の飛行は先頭を飛ぶ指揮官機に付いていけば良いだけなので気持ちも随分と楽なものである。

 とりあえず異常がない事を確認すると、糖子は積み込んでいたバナナの一本を取って皮を剥いた。

 高度を取って冷やせば美味しいとは飛行長に言ったものの、冷えていないバナナも大好きだ。黙って一本ペロリと食べてしまった。

 三○八号は機長が糖子であり、それはつまり糖子よりも上官がいないという事である。だから機内で何をしようと上官からのお叱りを受ける事はないわけであって、バナナを食べたところで文句も言われない。

 機長と聞くと責任重大であるが「上官が同乗していない」と考えると気も楽で、何だか楽しくすら感じてしまうあたり、糖子の性格は楽観的というよりも単純極まりなかった。

 今日は天気が良いし、前にくっ付いて飛んでいけば良いだけなので飛行も楽である。流石に機長なので仕事を放棄して寝る事は出来ないが、それでも操縦員が優秀なので飛行は全部投げてしまっても問題はない。

 航法の偏流、風向、風速から機位を測定というと難しそうだが、航法計算盤という便利な文明の利器があるので図上で計算していくよりも随分と楽だ。ボヤボヤしていると寝てしまいそうになってしまう。

 ウツラ、ウツラとしていると不意に大きな振動が機内を襲った。

「なになになに?」

 何事かと思って機内前部に大急ぎで戻る。

「何かあったの?」

 直ぐに操縦員に訊ねると「右エンジンが不調なようです」という冷静な返答。即座に窓からエンジンを見てみれば、なるほど、右のプロペラの元気が全くない。

 大慌てて機体中頃の機関席まで行くと搭整がエンジン類の計器と睨めっこしていた。

「どうかしたの?」

「エンジントラブルです」

「見れば解るよ!」

 焦りからか思わず大きな声を出してしまったが、搭整は冷静な様子で「原因究明中です」とだけ答える。いじらしい事この上ないが、今は搭整に任せる以外に手はない。

「なんとかなる?」

「原因が解らない事にはなんとも」

 口調は淡々としているが、しかし搭整の額には脂汗が浮かんでいる。

 そうこうしている間にプロペラがピタリと止まってしまった。

 こうなるととても編隊に追従など出来ない。機体は徐々に前を行く二機から離れて行き、高度も下がり始めてしまった。

「なんで私が初機長の時に……」

 思わず口から呪詛が漏れたが嘆いたところで事態が好転するわけでもない。気を落ち着けて隊内電話でエンジントラブルである事を指揮官機に伝えると「目的地まで辿りつけるか」という問いが返ってきた。

「行けそう?」

 不安気な表情で糖子が訊ねると搭整は「微妙なところです」と即答する。

「重量物を棄てて身軽にすればいけるかもしれません」

 その旨を指揮官機に伝えると、即座に「重量物を投棄せよ」という返答がきた。

 重量物となると一番重そうなのは爆弾だ。いちおう運搬せよとの命令は来ているが、どうせ使い道などはない事は解っている厄介者である。

 着陸する時にも面倒だし、さっさと棄てちまえという事で投下すると、爆弾はそのまま海まで真っ逆さまに落ちていって海面に派手な水柱を立てた。

 落着した爆弾は信管の安全装置を解除していないので爆発はせず、そのまま静かに海中へと沈んでいく。

「もう少し軽くした方が良いかもしれません」

 搭整はそう言うが、さて次は何を棄てたものか。

「弁当で良いじゃないですか」

 迷っている糖子に呆れるような表情で操縦員は言う。

 確かに彼女の言う通り、いの一番に棄てても良いのは弁当だ。何しろ搭乗員全員の分を積んでいるからそれなりの重量がある上に、投棄しても飛行そのものには何の問題もない。精々搭乗員の腹が減る程度のものである。

 空腹極まりないので少し迷ったが、しかし墜落するよりはマシなので仕方がなく糖子も弁当を投棄する事に決めた。

 積まれている保温器ごと引っ張り出して銃座の窓を開ける。

 保温器ごと棄てられれば手っ取り早いのであるが、何しろ重い上に銃座の窓が狭いので中々思うように窓から出す事が出来ない。仕方がないので保温器を開けて一つずつ投棄する事にした。

 勿体ないと思いつつ一つ、二つと弁当を投棄していく。開けられてすらいない弁当は最後まで蓋を開く事無く次々に落ちて行った。

 そんな物悲しい光景を見ていると、ふと今日の弁当は何だったのだろうかと気になり、投棄する前の弁当箱の蓋を開けてみた。

 今日の弁当は巻寿司だったらしい。

 具沢山の巻寿司が弁当箱にギュッと詰められ、添え物として玉子焼きと焼き魚が入っている。弁当箱に詰まっている様子は彩りこそ悪いが、見ているだけで食欲をそそった。

 途端にグーッとお腹が場違いな鳴き声を上げる。

 昼が近いというのに未だ昼食を食べていない。それなのにこれを棄ててしまったら、あと数時間は空腹で過ごさねばならないのである。

 このまま棄てるのは作ってくれた主計科に申し訳ないし、そもそも一口も食べないで料理を棄てるなんて勿体ない事この上ない。

 腹に巻寿司一個程度の重量物が増えたところで問題はないだろう。

 左右を見渡し、誰も見ていないのを確認してから糖子は弁当箱から巻寿司を一つ取り出して口に詰め込んだ。最初から二口程度で食べられるように小さく切られているので、そんなに無理をしないでも口内に押し込める。

 これがとても美味しい。

 良質な海苔が使われているし、米の固さも糖子好みだ。椎茸や筍にも出汁が小気味良く染み込んでおり、青菜がそれらを上手く調和している。

 気付けば、もう一つ口の中に放り込んでいた。

 食べれば食べるほど、噛めば噛むほどに美味しい。知らずに放り込んだ焼き魚も生臭さのない、しかし魚の味がしっかりと生きている見事な物である。玉子焼きも出汁がよく利いていて至極美味しい。

 いずれも軍隊で作られた荒削りな味付けであるが、しかしそれが逆に食欲をそそり、気付けば次から次へと弁当箱の物を口に放り込んでいた。

「機長」

 不意に背後から呼ばれ、思わず糖子は「フゴッ!」と妙な声を出してしまった。

「エンジンが直りました」

 言われて銃座の窓からエンジンを見てみると、なるほど、先ほどまで沈黙していたプロペラが元気よく回転をしている。弁当に夢中で全く気付かなかった。

「原因は?」

「燃料コックの開け忘れでした」

 すいません、と搭整は頭を下げる。

「次からは気を付けるように」

 そう言いながら、気付かれないように糖子は空になった弁当箱を閉める。

「……墜落しそうなのに弁当食べてたんですか?」

「へぁッ? い、いや、そんなわけないじゃない」

 慌てて糖子は否定したが、残念ながらその否定は全く意味を成していなかった。

 頬に付いている米粒が雄弁と糖子が弁当を食べていた事を物語っていたからである。

「……大した人ですね」

 感心三割、呆れ七割といった様子で搭整は呟く。

 結局この後の飛行は全く問題がなく、糖子を除いた全員が弁当抜きで腹を空かしたまま飛行を続け、目的地には数時間後の夕方前に到着した。

 そして夕食になる頃には糖子の「墜落寸前にも関わらず弁当を食べていた」という武勇伝(?)は部隊全員に周知されており、これ以降、糖子は「ゴミ箱スカッパー」「食一方反吐令嬢」「ギンバイの糖子」などという有難くない勇名を欲しいがままにする事になった。


 こうして――彼女の、糖子の「ギンバイ戦記」が始まるのである。

 

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