第6話
学生時代に精神疾患を抱えていた友人がいた。始めのうちは周りはおろか本人ですら気づいてはいなかった。
僕はそいつのことをずっと温厚な優しいやつだと思っていた。仲間内の悪ふざけも笑顔で嗜め、声を荒げたことさえ聞いたこともなかった。
ある日、学校でその友達の彼女が顔を腫らしていたので大丈夫か?どうした?と聞いたが、その彼女は何も答えなかった。友達の方に聞いてみても分からないと繰り返すばかりで、どこかでぶつけたにしては変な反応だったが、とくに気にもせず過ごしていた。
それから1週間が過ぎても、2週間が過ぎても彼女の腫れた顔が治らないことに違和感を覚えた。
ガーゼを当てているので実際の傷の具合は分からないが、左目が上手く開かないくらい腫れている日が時折あった。
中々治らないな。病院行ってんならヤブだから変えた方がいいんじゃないか?という僕のたわいのない会話にも大丈夫だからという返事しか返ってこない。
その翌日、両方の頬にガーゼを貼って彼女が学校に訪れた。
とうとう僕は友達を問い詰めた。
「彼女はどうしたんだ?何があった?お前が知らないはずがないだろう?」
怒りを持って接したつもりはない、本当に心配で理由を知りたかっただけだったのだが友達からは驚く言葉が返ってきた。
「もしかしてお前ら付き合ってんのか?アイツがお前に色目使うからちょっと叱っただけだ。」
耳を疑った。
なんだ?付き合ってる?それはお前らだろう?色目?最近ろくに話もしていない。叱った?お前がやったのか?頭の中を「?」がぐるぐるまわっている。
信じられなかった。本当にこれがあいつか?同じ人間とは思えない言葉使い、目つき、態度。理解が追いつかず何も言えず立ち尽くしていると泣きそうな声が聞こえた。
「なぁ、古谷、おれどうすればいいのかな、、?わからないんだ、、普段はなんともないのについかっとなって、耳鳴りが始まると周りが見えなくなっちゃうんだ。なんなんだよ!くそっ!アイツのこと大切にしたいだけなのに!」
聞き覚えのある声が不安そうに僕の耳に届いた。不安と言うよりも悲痛に近い。
思い出してみると僕が心配になり彼女に話かけた翌日にガーゼの下の腫れは大きくなっていたのか。沈んだ反応はそのせいだったのか。
何も言えず僕はその場をあとにした。
数日後、友達は電車に飛び込んだ。
人の溢れそうなホームからはじかれるように。当初は事故なのか自殺なのか判別つかなかったが、自宅の机から遺書ともとれる手紙が見つかり、親や友達、彼女や僕の名前の後に謝罪の言葉を並べてあった。
彼女は通夜の会場で僕を責めた。
中途半端に優しくしようとするからこんな事になったんだ。何も言えないなら聞くな。
あたしが我慢していればよかっただけなのに。彼を返して。
悲痛な言葉の数々が空に響いては消える。
彼女はずっと泣いていた。
あんなに酷い目にあっていても、彼の優しさを信じていたし、彼が全てだった。と。
僕には何が正解だったのかはわからない。ただ、分かることは僕は友達を失い、友達を傷つけたということ。
その原因は不用意な優しさやただの好奇心だったのかもしれない。ということ。
お通夜の日は朝からずっとしとしと雨が降っていた。
まるで誰かが泣いているみたいだった。
あと50メートル。息も絶え絶えになりながら走っているがまだ前を走る男には追いつかない。
僕は彼の気持ちなんて考えてなかったのだろう。
彼の方が追い込まれていたのかもしれない。
目の前の男と亡くなった友人が急にリンクする。
スマートフォンからは警察の人がしきりに話しかけているが、言葉は聞き取れない、こっちの声もおそらくはっきりは届いていないだろう。GPSかなんかでそのうち見つけてくれるのかな?なんてことを考えながら走るが、男はまだ少し先を走っている。
男は道路に飛び出して真ん中で止まった。
夜間のドライバーは道が空いているせいで昼間に比べスピードを出している。真っ黒なパーカーの男がいつのまにか道路の真ん中に立っているなんて誰が想像出来るだろう。事故は確認不足から起こるものだが、確認が出来たとしても車は急に止まれないことくらい子供にだってわかる。
あと10メートルくらいだろうか。息が切れて来たがお構いなく両手を振り、走る。
タクシーが割増の表示のままスピードを上げてこちらに向かって来ていた。
行き先をまだ確認出来てないのか、酔っ払ったお客さんの相手をしているのか、車のスピードとは裏腹に運転手の意識はナビの地図と後部座席に集中しているように思える。
まだこの事態には気づいていないんだろう。
タクシーが迫っている。
僕は男にようやく追いついた。
無性に腹が立った。助けてやりたいなどという偽善的な部分ではなく、純粋に周りにかけた迷惑、お前も大変か知らないが大変なのはお前だけじゃない!
リンクはまだ外れていない。ダブった顔に向けて2人への思いが混ぜこぜに溢れ出す。
甘えるな!逃げるな!
2発殴られた分もきっちり返してやる。
その為にはちゃんと生きろ。
そんな気持ちを全部込めて男に渾身の右ストレートをお見舞いしてやった。
男が後ずさりしながらよろけて歩道に倒れこみ、入れ替わりに僕が道路に倒れこんだ。
車のライトが迫ってくる。
倒れたまま色んな事を思い出した。
こないだラッキーを感じて、幸せの予感を全身で受け止めたあの日ほどうまいビールを飲んだ覚えはない。
店長はどこに異動になるのか、本当に僕に店長が務まるのか。
色んな思い出がダイジェストのように目まぐるしく流れて行く。
最近のことや、学生の頃、子供の頃。
楽しかったり、つらかったり。
でも、なんだ、悪くないじゃないか。
何より、今が一番幸せだ。
ダイジェストの映像が赤ん坊の泣き顔になったところで真っ白になった。
まぁこんなもんか。
追いかけて来ていた女性がまた叫び声をあげた。
…救急車、救急車を呼んでください!
早く!早く!!
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