桜の約束
tsumuri
第1話
桜の約束
「早く食べちゃいなよ。遅れちゃうよ?」
とてもよく晴れた月曜日の朝。
僕ら出会って2度目の春を迎えた。
去年の暮れに事故を起こしてしまい僕はまだ寝たきりの生活を余儀なくされていた。
仕事にいけない僕は焦りから君に当たってしまい、そんな僕に君は愛想を尽かしてしまったようだ。
仕事に支えられていたなんて思いたくはないけれど少なくとも僕の居場所を作っていたのは仕事だったのかと思わなくもない。
君と顔をつき合わせて過ごしているのに、もう長いこと会話をしていない。
また今日も君は何も言わずうつむきがちに出て行った。
ご丁寧にカギまで掛けて。
最初に出会ったのは、桜が我先にと咲き誇るよく晴れた3月のある日だった。
話半分で聞いていた僕に店長が告げる。
「まぁ、なんだ、今日はお偉いさんが来ることになってるから愛想良くしてくれよ?古谷に限って問題はないと思うけど。」
「大丈夫ですよ。何を今更。お偉いさんて誰ですか?」
「どうも常務が各店舗の見回りをしてるそうなんだ。新宿店の店長に就任した田中が昨日電話で教えてくれてさ、どうも抜き打ちらしい。」
常務とやらが新宿店を一通りチェックした後、明日は吉祥寺店だなと漏らしたらしい。
散々あれこれダメ出しをして、おまけに朝食はしっかりとれと田中店長の生活習慣にまでしっかりと口出しした後で。
抜き打ちチェックを行うということを頭の片隅に入れておけば各店舗の店長はいつ誰が店舗に来ようと万全の体制でお店をまわしてくれるとでも思っているのだろうか。
世の中そんなに純粋な人ばかりではない。
そんなことをしても、対お客様の体制が徐々に対お偉いさんの構図に変わるだけだ。
人はいつだってラクをしたい生き物だから。
「…って聞いてる?」
「あ、すみません。何でしたっけ?」
「だから、今日から新しいアルバイトの子が来るから色々教えてあげてくれって。」
「あぁ、了解です。」
短く返事をし、僕は仕込みを続けた。
大手と言うほどではないが、都内に12店舗を構えるチェーンの居酒屋で働き始めてもう5年が経った。もちろんこんなに続ける事になるとは思いもよらなかった。
広い店ではないが、比較的繁盛しているように思う。普段はキッチンに2人、ホールに3人の5人体制で回していて、店長は事務所と店を行ったり来たりして店内の確認と事務作業を行なっている。
平日は夕方5時から深夜2時まで、休みの前の日は朝の5時まで営業している。
僕は仕込みから入ることが多いので普段は開店の2時間前には店にいる。
お酒を飲んでウサを晴らす大人は情けないなと思っていたのになぜこの仕事を選んだのか。単に時給がよかったからだったような気もするがはっきりとは覚えていない。
仕込みも終わり17時の開店に向けて店の看板を出しに行ったときだった。
「あの、今日からお世話になります小林と申します。宜しくお願いします。」
振り向くとジーンズに赤いパンプス、レザージャケットを羽織り長い髪の毛を後ろで1つにまとめあげた女の人がすぐ横に立っていた。
まさか面接にもこの格好で来たのかな?とふとよぎったがすぐに挨拶を返す。
「こちらこそ宜しくお願いします。古谷です。中に店長いるんで入ってください。」
「はい。ありがとうございます。」
階段を降りていく後輩を見るともなしに見送った後、看板につけたクリップ式ライトのコンセントを差し込んだ。
ついこの間までこの時間は薄暗かったのに、ブラッドオレンジの光の玉がまだビルの間で輝いている。
店に戻ると小林さんはお店の制服に着替えていた。制服といっても、ラフな浴衣の様な和装で、男性は紺色、女性はピンク色でどことなくゴワゴワした手触りが気にいっている。
小林さんが着ると見慣れたはずの制服が少し華やかに見えた。
「こちら今日からアルバイトで入る小林さん。飲食の経験もあるし大丈夫だと思うけどみんな色々と教えてあげて。じゃあ小林さん簡単に自己紹介して。」
はい、とうなずいたあと小さく深呼吸をしてから真っ直ぐにこちらを向いた。
「本日からお世話になります小林です。飲食店で働いた経験はありますがお酒を扱うお店ではなかったのでたくさん覚えることもあると思います。精一杯やらせていただきますのでご指導宜しくお願い致します。」
さっき見た小林さんの私服が頭をよぎりながら、やっぱり自信がある人だな、とか凛としてるなぁ、そういうの羨ましいなとぼんやりと考えた。
僕を含めたバイトの面々が返事をし、宜しくお願いしますと声を揃えた。
「古谷くん、じゃあとりあえず今日は小林さんに色々と教えてあげてよ。小林さん、古谷くんは口下手なところあるけど怒ってる訳じゃないから安心してね。」
「あ、そうなんですね。お店の入り口でご挨拶したときに少し不機嫌なのかなと思ってしまってました。すみません。古谷さん改めて宜しくお願いします。」
ほんとにはっきり言う人だな。いっそ気持ちがいいとさえ思える。
「店長、要らないこと言わなくていいです。小林さん改めて宜しくお願いします。口下手な古谷です。」
新人の緊張をほぐすために叩いた軽口ではあったが効果は思いのほか大きかったようだ、初めての場所で緊張しない人はいないんだろう。小林さんの肩の強張りが少しとれたように思えた。
開店10分前スタッフは各々の持ち場のチェックをしていく。
「今日は、ホールでの仕事内容を伝えていきますね。この時間は自分の持ち場の最終確認を行います。」
イス、テーブルの汚れや並び、消耗品や調味料の補充。トイレのチェック。
一通り確認し終えるとちょうど開店時間になった。
17時ちょうどにお店に飛び込んでくる人もなかなか居ないので、ゆったりと待ちの姿勢をキープしたまま小林さんに1つ仕事をお願いする。
「さっき僕が置いてた看板わかります?お店の前に置いてたやつなんですけど。
あの看板にクリップ式のライトがついててコンセントも差し込んでるからスイッチだけ入れてきてもらっていいですか?」
わかりました。と言い残し、彼女はお店の外へ向かった。
女性スタッフは小林さんのほかにあと2名いるが今日はどちらも休みなので、今日の女性スタッフは小林さんだけだ。
飲食店のみならず、接客業は女性がいいなとは思う。男性が悪い訳ではないが、どうしても圧力が出てしまうんじゃないかな、いや、やはりバランスなのかななどと考えているうちに小林さんが戻ってきた。
そのすぐ後ろに本日最初のお客さんが現れた。
いらっしゃいませー!
スタッフの声に続くようにお店のあちこちで声があがる。
いらっしゃいませー!
3名様ご案内致します!
あまりに馴染んだ声だったので、ご案内の声が小林さんだと気付かず、そのまま案内までさせてしまいそうになり慌ててかけよった。
彼女は動じず、喫煙確認をしてくれていた。
「古谷さん、禁煙席ご希望のお客様です。どちらにご案内すれば宜しいですか?」
「ありがとう。替わります。」
「ご案内致します。こちらへどうぞ。」
なるほど。飲食店の経験者というのは伊達じゃないな。
基本的な確認事項はどこの飲食店もきっと大差ないんだろうな。
日本人は基本的にはされて嫌なことはしない。と教わっているから飲食店のマニュアルは自ずとそこに準ずるものになっていくのか。
外国のどこかの国では、飲食店の店内で子供が騒いでいても、親は特に注意もせずランチを楽しんでいるそうだ。
日本では白い目で見られるところだろうが、大国は違う。
子供はそういうものだという考えがある。ひいては人間はそういうものだ。となる。
迷惑をかけないことが美徳の日本とは反対に、迷惑をかけないのは無理だから人の迷惑くらい許してやれ。
電車は遅れ、修理業者はオフには来てくれない。
そんなもの。だそうだ。
サービス大国に暮らす日本人はそのギャップに驚き受け入れるのに時間がかかると、日本人メジャーリーガーと結婚したアナウンサーがいつかのテレビで言っていた。
午後8時をまわり店はほぼ満席状態。
ここから2時間くらいはピークの忙しさになる。
開店直後の彼女の対応ぶりで特に伝えることもないなと感じた僕は基本的には自分のやりやすい形で接客してくれてかまわないよと伝え、わからないことはいつでも聞いて下さいね。と付け加えた。
大手チェーンでもないので細かいマニュアルは用意されていない。スタッフは各々のやりやすい形を見つけ仕事をしている。
彼女の動きは想像よりもずっと良かった。
入店してきたお客さんには誰よりも早く声をかけ案内した後流れるように別のテーブルのお客さんの注文を聞き、キッチンに向かうついでに空いてるグラスやお皿も下げてくる。
初めは何度も様子を見に来ていた店長もいつしか事務所から出てこなくてなった。
平日なので週末ほどの忙しさではないが、その分スタッフの人数にも限りがあるため僕はホールとキッチンとを行き来し手の回らない仕事を請け負いながら店をまわしていた。
午後10時を回り空席が増え始めた。
「小林さん。賄い何がいい?キッチンに伝えとくけど?出来上がったらすぐ食べておいでよ。」
「ありがとうございます。古谷さんのオススメはなんですか?」
「そうだね、ウチのオススメはチキン南蛮。人気メニューだしうまいしそれでいい?」
「はい!お願いします!」
今日一番の笑顔にドキリとしたが、純粋に賄いに対する高揚だと言い聞かせて気持ちを落ちつける。
休憩から戻ってきた彼女は興奮したままだった。
「美味しいですね!古谷さんの言う通り!タレも自家製なんですよね?ご飯にもすごくあっててあっという間になくなっちゃいました。」
意気揚々と話す彼女はおそらく今仕事中だということすら忘れてたんだろう。
お客さんの入店音で我に返り、す、すみません!いらっしゃいませー!と入り口に向かった。
午前0時になり、彼女に今日はもう上がって下さいと伝えた。
「事務所に店長いるから声かけて帰ってくださいね。」
「わかりました。古谷さん今日はありがとうございました。明日からも宜しくお願い致します。お疲れ様でした。」
スタッフにも声をかけ彼女は店から出て行った。
同い年のスタッフの岡田がさりげなく歩み寄ってくる。
「小林さんどう?出来る子じゃない?明るいし愛想もいいし、なんせあの見た目だ。惚れそうだ。」
「はいはい。でも、確かにちゃんとしてるな。いいタイミングでいい子が入ってくれたよほんと。」
閉店後に店長が片付けをしている僕のところに来た。
「小林さんどう?ちょこちょこ様子見に来てたけど問題なさそうだよね?面接でピーンと来たんだよね。良い子だなこの子はって。」
「様子見にって途中から全然出てこなくなってたじゃないですか。でも、確かにちゃんと出来る人ですね。特に問題ないかと。学生さんなんですか?」
「そうそう、S大に通ってるみたいだね。来年卒業だけど、もう進路が決まってるから1年間になるけど働きたいってことだったから少し悩んだけど入ってくれてよかったよ。」
「へー。そうなんですね。進路って?」
「栄養士になるんだって。明日もシフト入ってるから今日みたいな感じでいいけど気にしてあげて。じゃあおれ上がるから戸締り、電気、ガス忘れずによろしく。お疲れ様。」
「お疲れ様でしたー。」
栄養士か。
まったくもってちゃんとしているな。
「栄養士かぁ。バランス良いご飯とか作ってくれるのかなぁ。いいな。そういうの。家庭的って言うか、あったかいイメージが膨らむなぁ。小林さんて彼氏いるのかな?」
「初日にそんなこと聞けるかよ。岡田、着替えたんならもう帰れよ。」
「後生だ古谷!小林さんに彼氏がいるかどうかだけ確認してくれ!頼む!」
「わかったわかった、そのうちな。おつかれさん。」
「やったー!持つべきものは友だな。お疲れ様。」
長くなりそうだったのでそう答えたのだが本当に聞くのか?大変なことを請け負ってしまった。
そうだ。無かったことにしよう。
岡田もそのうち忘れるだろう。
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