あらすじ
風見鶏
迷い線のデッサン
迷い線のデッサン-1
「何時に来れそう?」
「うーん、七時くらいかな」
「分かった。駅で待ってるね」
携帯の向こうから、聞き慣れたあの人の声がする。小さく頷いて携帯を置いた。
ため息。吐き出した息が、未だに暖まらない夜の空気に白く浮かんで消える。それを目で追って、口元に笑みが浮かんだ。
「……バカ」
零れる嘲笑。バカ、バカ、ほんとにバカ。分かっているのに、甘えてしまう。気づいているのに知らんぷりをしてしまう。子供な自分が死ぬほど嫌だ。
携帯の時計が六時半を告げ、私は近くのカフェに入った。
「ブレンドコーヒーで」
本当にバカみたい。七時からのデートで、三十分も前に着いちゃうとか。ああでも、昔はあの人も早く来てくれていたっけ。二人して待ち合わせの三十分前に来て、以心伝心だと言って笑ったことがあったっけ。
運ばれてきたコーヒーのカップを傾けて覗き込むと、情けない顔をした自分と目が合った。せっかく整えた化粧が、着たワンピースが、切った前髪が、塗ったマニキュアが、泣きそうに揺らめく。
そんなのは、昔の話だ。
ゆらゆら、ゆらゆら。揺れる液面に合わせ、視界も歪む。
「あれ、橘さん?」
不意に、声をかけられた。顔をあげれば見覚えのある顔。慌てて目を拭う。
「笹本さん」
「お久しぶり」
あの人の、高校からの親友、だ。
「何してるの?」
「あ、ちょっと人を待ってて」
目で相席を問われ、頷く。流れるような動きで彼は目の前に座った。
「そうなんだ。……仕事の調子はどう?あまり見かけないけど」
笹本さんは私と同じ職場で働いている。違う部署だから会うことは少ないけれど。あの人に紹介されて判明して、それから会社で会えば話をした。
「最近仕事が立て込んでて。笹本さんは?」
「俺はわりと暇だったから、たまに橘さんの担当の近くまで行くこともあったよ」
「え、全然知らなかった」
嘘だか本当だか分からない笑顔に、思わず私も笑顔を返した。と、彼の笑顔がより深くなる。首を傾げれば、よかった、と言われる。
「よかった、橘さん、笑った」
「え?」
「橘さん、元気ないみたいだったから」
ちょっと心配になって。
ジワ、と何処かが温まる音がした。
「ありがとう」
「いーえ。どういたしまして」
店にかかったアンティークの時計が、五十五分を指す。携帯がメールを受信し、ブルブルと震えた。
「葉月?」
「そうみたい」
「デート、なんだ」
笹本さんの顔がクシャリと笑った。
もうすぐ着くよ、と書かれたメールの画面に、立ち上がる。
「ごめんなさい、もう行かなくちゃ」
「楽しんで」
荷物をまとめ、自分の伝票だけを手に取る。歩き出そうとした瞬間、呼び止められた。振り返ると、シャッと何かをかけられる。霧状のそれがヒヤリと冷たい。驚いて彼を見ると、いたずらっぽい顔。
「元気が出る魔法」
ふわりと甘い香り。彼のものと同じだ。
笹本さんはいつも優しくて、私の欲しい言葉をくれる。そんな気の使い方、あの人は絶対にしない。その気の使い方が嬉しくて、
「ありがとう」
笑顔になれた。
会計を済ませ、店の外に出る。思いがけず冷たい風に吹き付けられ、首を竦ませる。駅まで歩くだけで、凍えてしまいそうだ。
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