【お兄ちゃん日誌⑥】 次男・伏見朋
それは雨の日のことだった。
会社に向かうために乗った地下鉄内での出来事である。
「あれは……」
間違いない、彼だ。
あの鋭い眼光。間違いない、TOOLSで会ったあけぼの文具堂の営業マンだ。
彼との距離は10mもあるだろうか。
俺から彼が見えるということは、当然その逆もあるわけなのだが、彼は俺に気付いていない。これがもう少し近くて、且つ、向こうも俺に気付いているのであればこの間のペンについて礼のひとつでもするところなのだが。いや、あれは本当に良かった。
とはいえ。
仮に向こうがこちらを見たところで、だ。
果たして俺を覚えているだろうか、という問題もある。俺からすれば彼はかなりのインパクトだが、対して俺はというと彼ほどパンチが効いているわけでもない。それに営業だから、毎日たくさんの人にも会うのだろうし、いちいち顔も覚えていられないだろう。
まぁ、彼の方はすぐに覚えてもらえそう……というか、何なら夢にも出て来そうだが。
いや、そんなことは良い。
問題は――、
「ひぃ!」
「すみません!」
というやりとりが聞こえてくる、という点だ。
しかし、彼の名誉のために言わせてもらうが、決して彼は向かいに座っている女性に対し、その凶悪な目付きでもって睨み付けたりなどしていないのである。恐らく彼女の方がよほど男性に――というか、あの手の顔に耐性がないものと思われる。
これは間に入った方が良いだろうか。
そう何度か腰を浮かせたのだが、数回目の「ひぃ!」「すみません!」の後、彼は自身のその目を隠す、という驚きの対処法でその場を切り抜けたのである。少々その隠し方がいかがわしいお店のそれに見えなくもなかったが、決して俺がその手の店に出入りしているとかそういうことではない。
2人の会話は断片的にしか聞こえてこないものの、どうやら女性の方が彼にペンを借りたいらしい。いや違うな、借りるだけならばこんなに揉めないのだろう。
……金を出せ、とか?
つまり、ペンの代金を払え、という。
いやいやそれは。
似合いすぎる。
似合いすぎてまずいだろう。
たとえそれが正規の価格だったとしても、だ。
彼の容姿でそんな台詞を吐いてしまえば、それはもうそれ以上の意味を持ってしまう。
だとしたら、これはもう本当に俺が間に入って――、
と、いよいよもって腰を上げたその時だった。
「お?」
女が笑い出したのだ。しかも結構気持ち悪い感じに。
おお、引いてる引いてる。彼も引いてるわ、さすがに。
いや、これどういう状況なんだ。
名刺交換までし始めたぞ。
いやいや本当にこれどういう状況なんだ。
彼女が下車し、彼は、何やら疲れたような顔をして再び腰を下ろした。
真っ白に燃え尽きたボクサーみたいなポーズで数秒間放心していたが、思い出したように鞄から文庫本を取り出して読み始め――、
「――っぐ!? げっほ、げっほ!」
と咳き込んだ。
おいおい一体何読んでんだよ。
気になるじゃないか。
あとで聞いてみようかな。
いやさすがにそれはな。
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