◆5◇ 彼の心臓は持つのか否か?

 しかし、急に朝ご飯を作るなんて、一体どうしたんだろう。

 多少塩辛かったり、じゃりっとしたりもしたが、最初は誰でもそういうものだ。


 ただ、今日はやけに喉が渇くなぁ。


 そう思いながら借りてきた映画を並んで見る。どうやら潤さんも同じらしく、2Lのポットの中のお茶はもう半分以上がなくなっている。


 そして、大量に飲料を摂取すればどうなるか――。


「ごめん、ちょっと」

「あ、はい」


 ……というわけである。

 

 お互いに一度映画館で見たことのある旧作だったので、その都度止めなくても良いよとは言われているものの、それでも何となく一時停止をしてしまう自分がいる。


 しばらくして、今度は俺がトイレに立ち、またしばらくして今度は潤さんが、とそんなことを繰り返し、やっと落ち着くころにはもう夕方になっていた。明日も休みだから2泊する約束だ。


「お茶の飲みすぎで昼を抜いてしまったから、夜はしっかり食べよう」

「そうですね。ああでも、ちょっと買い出しが必要ですね」

「おお、それじゃスーパーに行こうか」



 スーパーに向かう道すがら、何が良いかな、と潤さんは難しい顔をしている。もしかして夜も作ってくれる気なのだろうか。だとしたら、あまり難易度の高いメニューは駄目だ。それから、ひとつひとつは簡単でも、俺が作る時のように何品も、というのはまずい。だから例えば丼ものとか、そういう、一品でOKみたいなメニューが良いだろう。と、なれば……。


「……潤さん、俺今日カレーが食べたいんですけど、いかがでしょう」

「おお、カレーかぁ、良いかも。それなら私にも作れるだろうか」

「一緒に作りましょうよ」

「そうだね、藍がついてくれるなら安心だ」



 ※ ※ ※ ※ ※ ※


「じゅ、潤さんっ! それじゃ指がなくなります!!」

「え? そうかい?」

「ゆ、ゆゆゆ指引っ込めてください! 猫の手! 猫の手ぇっ!」


「潤さん、もうちょっと火を弱めましょう!」

「強火の方が早く出来たりしないのかい?」

「早く出来るというか、炭になります!」


「潤さん、皮はピーラーで剥きましょう! その方が薄く剥けますし、安全です!」

「藍が包丁ですいすい剥いてるの恰好良かったんだけどなぁ」

「――かっ……〇◆□%¥★◎▲!!??」


「あああ潤さん! じゃがいもは! じゃがいもはいっそレンチンで皮を剥きましょう! 凸凹してるから危ないです」

「へぇ~、それで剥けるのかぁ」

「それと、潤さん、ジャガイモの芽は食べられないやつです!」


 などと様々な工程を経て、やっとカレーは煮込みの段階に入った。あとは、灰汁あくを掬いつつ、根菜が柔らかくなるのを待ってルウを投入すれば良い。ここまでくれば一安心。ご飯もあと20分ほどで炊きあがる。


 あとは俺がやりますよ、と言ったのだが、彼女はコンロの前から動こうとはせず、じっと鍋を見つめている。時折、ちょっとだけ焦げた玉ねぎが顔を出す。


「あの、潤さん?」

「何だい? これって、灰汁かな?」

「それは泡ですね。もう灰汁は良いかと。あとはにんじんやじゃがいもが柔らかくなるのを待ちます」

「成る程。私には正直どれが灰汁でどれが泡なのかさっぱりだな。あぁ、ごめん。それで、何だっけ」


 エプロン姿の潤さんがにこりと笑って俺を見る。その姿にどきりとした。なんていうか、ものすごく『奥さん』に見えたのだ。もし、こんな潤さんが毎日見れるなら、俺はもう死んでも良い。いや、良くはないけど。


「どうしていきなり料理を? 今朝もそうですし、いまも」


 くつくつと煮込まれている鍋に視線を移しながらそう尋ねる。エプロン姿の潤さんを見続けていたら、そんな妄想が実現してくれればと、未来を期待してしまいそうで。


「いや、何ていうか、これもけい兄対策というか……。まぁ、そんなところだよ」

「恵さんって、あの……、昨日のですか」 


 直さんのお話の件。

 それはつまり、潤さんの一番上のお兄さんである恵さんに、俺との交際が知られてしまった、という件である。知られてしまった、とはいっても、別にやましいことをしているわけではもちろんないわけだが。それでも成人した男女が恋人という関係になったならば、その先に結婚があろうがなかろうが一言挨拶くらいはするべきなのかもしれない。特に、長兄の恵さんというのは、学校の教師をしている――からというわけではないものの、彼女の話を聞く限りでは、なかなかに固い人物であるという。だからなおさら、こういうことはきちんとしておかねばならない。


「うん、まぁ……そんなとこかな」


 と、潤さんは何だか照れたように笑った。

 もしかしたら、料理くらいは出来ないと交際なんて認めない、とかそういう考えの持ち主なのかもしれない。

 そういうことなら。


「そういうことなら、俺も協力します!」

「う、うん?」

「カレーがひとりで作れるようになれば、料理の基本はマスターしたも同然です! さすがに毎日カレーは厳しいですけど、シチューと肉じゃがでローテすれば。ああ、肉じゃがの味付けはもういっそ麺つゆに頼りましょう! 問題ありません!」

「あ、藍?」

「頑張りましょう、潤さん!」


 そう言って、右手を差し出すと、潤さんはお玉を離して、恐る恐るその手を握ってきた。それをもう片方の手で包むようにしてぎゅっと握る。


「う、うん。頑張る……」


 いつもは教わる立場だから、その真逆となるこの関係が、恥ずかしかったり、嬉しかったりするけど。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 もしこのまま私が料理のひとつも出来ないままだとして。


 果たして藍は、私とのを考えたりしてくれるだろうか。


 などという考えが、今朝ベッドの中で浮かんだのだ。

 藍の腕の中で、ぬくもりに浸りながら、その柔らかな肌に口づけを落としていた時のことだ。

 毎朝、こんな目覚めが出来たら、なんて幸せだろうって、最初はそう思った。そうなると、やはり同棲なり結婚なりが必要条件で……と安易に連想して。


 思い出したのである。

 いままでの恋人達のことを。

 

 同棲が始まった途端に主夫化し、やがて他の女性に手を出した彼らのことを。


 でもそれは、私に非があったかもしれないのだ。

 私がもっと女性らしく料理が出来たりすれば、違ったのかもしれない。女性=料理なんて、中西主任が聞いたら膝詰めで説教コースかな、なんて苦笑したりもしたけど。だけど、一理あるかもしれない。


 下手なりにでも、食べられる、という程度でも料理が出来るようになったら――、


 そしたらその時は、藍に、結婚を前提とした同棲を提案してみても良いだろうか、なんて。


 出来れば、恵兄に藍を紹介する時には、そういう話も含めて出来れば良いかな、なんて思ったりもして。


 だから、藍に「どうしていきなり料理を?」と聞かれた時、つい『恵兄対策』なんて口を滑らせてしまったのである。


 しかしやけに藍が協力的というか、張り切っているのが気になる。

 やっぱり藍は私が料理が出来る方が嬉しいのだろう。

 だとしたら、これは頑張らねばなるまい。


 何せ、いつもは背中を丸めて自信なさげにしている藍の背中がぴんと伸びている。そうだ、藍は結構背が高いのだ。そんなことまで再確認する。そうだ、彼は、私よりも背が大きくて、胸板も厚くて、優しくて、頼りになる男なのである。


「ご教授願います、


 固く握手をした後でそんなことを言うと、藍は「ひょえっ!?」と奇声を上げて飛び上がった。


「せ、せせせせ、先輩っ?!」

「そう、藍は料理の先輩だ。私が、人並みに食べられるものを作れるようになるまで、どうか根気よく付き合ってほしい」

「も、もちろんです!」


 藍は真っ赤な顔で何度も何度も頷いた。そんなに振ったら首がもげるぞ。


「さて、そろそろルウを入れても良いだろうか」

 

 そんなことを呟いて、にんじんとじゃがいもに菜箸を刺してみる。それはすぅっと奥まで入っていった。良く煮えているようだ。


「あぁ、もう大丈夫ですね。じゃ、潤さん、その箱の裏に書いてあ――ああああああああ!?」

「え? 何?」

 

 市販のカレールウのパッケージを破り、チョコレートのようにぱきぱきと折った後でそれをすべて鍋に投入していると、またも藍が目を剥いて口をあんぐりと開けている。


「じゅ、潤さん! ぜ、全部入れました!?」

「うん。まずかった?」

「……だ、大丈夫です。水を入れれば良いんです、水を入れれば。水。水を……」


 水? 水かぁ。入るかな、いまでもかなりなみなみに入ってるけど。


 と思いながらやかんに水を入れる。


 たぶん、藍にも伝わったのだろう。彼は「大丈夫ですよ」と優しく言った。


「こっちの鍋に半分移しましょう。それから水を足せば良いんです」

「さすがだな。そうしよう」


 そう言うと、藍はやはり「ひょえぇ」と奇声を発して、お玉で掬っていたカレーを少しこぼした。


 そしてなぜか――、


「頑張れ、俺の心臓……」


 と、わけのわからないことを呟いた。


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