【お兄ちゃん日誌④】次男・伏見朋
3月15日
俺は今日ほど自分の仕事を恨んだことはない。
俺の勤め先は、
いま俺が手掛けているのは、『トクホ』と呼ばれる特定保健用食品で、食事と一緒に飲むことで、血糖値を下げるとか、体に脂肪をつきにくくする――といった効果が期待出来るものである。その中でも力を入れているのはコーヒーだ。苦味と甘味のバランスが重要な微糖、ミルクがまろやかなカフェオレ、すっきりした後味のブラック、そして、妊娠中でも安心して飲めるカフェインレスタイプなどなど。まぁ、その辺のことはどうでも良い。
問題は、
家族や子どもの預け先などには緊急連絡先として開発部の番号を伝えるようになっているので、これまで、トラブルというトラブルもない。
――いや、あったのだ。今日。
ラボでの業務を終え、事務所に戻り、鍵付きのロッカーから鞄を取り出す。そこでちらりとスマホを見ると、緑色のお知らせランプが点滅している。無料メッセージアプリの
部下が、どうしたんですか、と駆け寄ってくる。しかし、そんなことはどうでも良い。
18:03 朋兄、今日って仕事? 帰りにお土産持っていこうと思うんだけど。
18:30 仕事みたいだね。宅配ボックスの中に入れておくよ。日持ちするやつだけど、早めに食べて。
時刻は現在20:30。
残業というわけではない。そもそもの始業時間が遅いのである。
慌てて事務所を飛び出し、タイムカードを切りに戻り、再び廊下に出て、今度は鞄を忘れたことに気付き――などという間抜けすぎる往復を繰り返してやっと外へ出る。間に合うわけはないと思いつつも、震える手でスマホを操作した。
コール2回で、あの何よりも愛しい妹の声が聞こえてきた。
「もしもし、朋兄? ごめん、仕事中だったみたいで」
「良いんだ。こっちこそすまなかった、返事が出来なくて。それで、潤、いま何してた?」
「いま? いま居酒屋だよ。会社の人達と飲んでる」
「そうか……」
まぁ、周囲が騒がしかったからな、そんなところだろうとは思っていたが。何せ潤は人気者なのだ。きっと社内でも争奪戦が繰り広げられているのだろう。しかし、『会社の人達』で良かった。一対一なんて俺が許さん。まぁ、でも同性なら……いやいやイカンイカン! 潤の魅力の前では性別なんて関係ないのだ。男だろうが女だろうが2人きりなんてお兄ちゃんが許さんぞ!
あぁ、こんなことなら俺も営業に行くんだった! 営業ならいつでもどこでも返信出来るのに。社内の人間にとられる前に食事に誘えたのに!!
畜生! 明日にでも異動願いを叩きつけてやろうか。
などと歯噛みをしていると――、
「そうそう、いま飲んでるよ、『クリスタル・ドライ』」
「え?」
「朋兄のところの新商品でしょ、これ」
「あ、あぁ、そうだよ」
「部下が教えてくれたんだ、クリスタル・ドライ出してるところ。キレがあって最高だね。喉ごしも良い」
「ほんとか!?」
「身内だからってお世辞は言わないよ、私は。トクホの微糖コーヒーはいまいちだったしさ」
「ぐぅ……っ!」
潤、よりによってそれは俺が担当してるやつ……!
「でもこれは美味しい。早速ケースで注文したよ」
「そ、そうか……ありがとう……」
畜生! クリスタル・ドライの担当め! って、アイツ俺の後輩じゃねぇか!! 悔しいけどこれはフィードバックしてやろう。アイツにはこれからも潤のために美味いビールを作らせてやる!!
「とりあえず、お土産は早めに食べてよ。日持ちするっていっても、せいぜい1週間だからさ」
「わかった……。店を紹介してくれた部下の子にも礼を言っておいてくれ。それじゃ……」
通話を終え、とぼとぼと家に帰る。
ダイヤルロック式の郵便ポストから宅配ボックスの鍵を取り出し、それと同じ番号のボックスを開けた。
中に入っていたのは温泉饅頭のようである。
じわり、とその文字がにじむ。
そうか、潤。俺が昔あんこが好きだと言っていたのを覚えててくれたんだな。やっぱり潤は俺のことが一番好きなんだ。そうなんだ。わかりきってたけどさ。うん、わかっていたけど。
涙を拭いながら部屋の鍵を開け、中に入る。
今日は俺もクリスタル・ドライで乾杯することにしよう。
……しかし、慰安旅行も終わったばかりなのに、一体誰と温泉に行ったのだろうか。
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