♡ ♡ CASE 2♡ ♡ 筋肉馬鹿・大槻隆の恋!
2月14日の朝、徒歩で通勤している大槻隆の視界の先に『フローリストMISAKI』が見えてくる。店の前では、いつものように
「――あ、おはようございまぁーすっ、大槻さーん!」
「っああぁ、おおはようございます」
いつも自分から挨拶をしようと思うのに、夏果は大槻があの辺だろうか、と計った距離よりも前で声をかけてくるのだ。弾けるような笑顔で、大きく手を振って。
先手を打たれ少々ペースがつかめず、せっかくすぐに見せられるようにと準備したカランコエの画像も手の中である。
「良かった、タイミングばっちり」
「タイミング? 何がですか?」
確かに毎日こうして時間がとれるわけではない。彼女も接客が入る場合だってあるし、大槻にしてもいつもより早く出る時もある。だから、タイミングが良いというのは大槻にとっても言えることだ。というのも――、
勧められて買った多肉植物の花が、この数日前に咲いたのである。
夏果の言う通りに水をやり、カランコエは日に当たる時間を短くすると花が咲くらしく、その小さな鉢をすっぽりと覆い隠せる段ボールを用意したりした。そうして、開花するのをいまかいまかと待ち望んだ結果が出たのだ。
仕事もそうだが、やはり目に見える『結果』があるのは良い。
それを写真におさめたは良いものの、それを見せたい相手になかなか会えない。かといって、接客しているところに割り込んでいってまで見せるものでもないと思う。
花屋の店員からすれば、花が咲くのなんて珍しくも何ともないんだ。俺にとってはかなりのニュースだとしても。
そう思って諦めること数日、やっと今日はこの写真を見せられる、と大槻は頬を緩ませた。
夏果の方はというと、「ちょっと待っててくださいね」と言って、慌てて店の中へと入ってしまった。何だ何だとそれを目で追うと、いつも彼女が花束を作ったりラッピング作業をしているカウンターの上に置いてあった紙袋を掴み、再び駆け足でこちらへと向かってくる。
そうだ、確か一週間くらい前に多肉植物の育て方の本を借りる約束をしていたんだった。
今日が何の日かも忘れ、そんなことを思う。
「はい、大槻さん。どうぞ」
店のロゴがついた小さめの紙袋は、マチが広く小さめの鉢も入るようになっている。大槻が買った多肉植物のカランコエの鉢はこれよりもさらに小さな紙袋に入れてもらったのだが、この大きさからしてやはり本、あるいはさらに別の多肉植物を勧められるのかもしれない、と大槻は当たりをつけた。
案外植物のある生活も悪くない。
そんなことを思い始めている大槻である。
確かに、筋肉を育てるのも植物を育てるのも似ているかもしれない、とも。
そういう意味では、すでにそれなりの形からスタート出来る多肉植物というチョイスも良かったと思う。筋肉の、現状の美しさを保ちながら高みを目指す、という部分が、これの場合は健康状態に気を配りつつ開花を目指す、という点で似ていると思ったわけである。
さて、大槻が受け取った紙袋である。本だとしても植物の鉢だとしても、そのどちらにしても軽すぎる。
「夏果さん、これ……?」
そう問いかけながら、楕円形のロゴシールで留められたその隙間から中をちらりと覗く。微かに見えたのは、赤ワインのような色の包装紙と、金色のリボン。
「バレンタインです、大槻さん。甘いもの、大丈夫ですか? 一応甘さは控えめにしたんですけど」
そうはにかみながら話す夏果の表情にどきりとする。そしてやっとその単語で、今日が何の日であるかを思い出した。
「ああぁありがとうございます! 甘いの、大丈夫です! 好きです!」
それは嘘じゃない。さすがにべったりと甘いクリーム系のものは少量で御免被りたいところだが、甘いもの自体は嫌いじゃないのだ。
「良かった。でも、これから会社なんですよね。ご迷惑ではありませんか?」
「迷惑だなんて! そんな!」
どうせ俺がもらうチョコなんて伏見からの徳用チョコか、一目で義理とわかるやつなんだから。
「大槻さんたくさんもらいそうですもんね」
夏果は会社での大槻の評価も知らずにくすくすと笑っている。
そう、これくらいの付き合いならばそう思うだろう。少々筋肉の量が多めの好青年、と。ただし、黙ってさえいれば、だが。
「い、いえ。自分はその……」
そう返しながらふと思い出すのは同期の伏見潤である。
あいつは毎年えぐいくらいもらうんだ。くそ。
もごもごと言い淀んでいるその姿を見て多少は察したらしい夏果は、こほん、と小さな咳払いをし、そういえば、と胸の前で手を合わせてからその華奢な腕を捲った。
「見てください、大槻さん。ほぉら、だいぶたくましくなったと思いません?」
確かにうっすらと筋肉はついている。けれども、いいやまだまだ――と言いかけて、ぐっと堪える。彼女はあの小憎たらしい同期とは違うんだ。あいつよりもずっとずっと華奢な女性なんだから、と。
「すごいですね。鍛えたんですか?」
「いいえ、意識はしてるんですけどね。でもこれは自然についたというか。あぁでも、スクワットは続けてますよ」
そう得意気に言って、ジーンズの腿を、ぱちん、と叩いてみせる。
「腰痛はどうですか、その後」
「だいぶ良くなったかもです。ありがとうございました」
「それは良かった。あぁ、それと――」
ここへ来て、やっと彼女を呼び止めるための口実を思い出す。最も、呼び止められたのは大槻の方であったが。
スリープ状態になっていたスマートフォンのホームボタンを押す。そこに表示されているのは、オレンジ色の花をつけたカランコエである。せっかくの被写体であるが、生憎、
「花が咲きました」
「わぁ! やりましたね、大槻さん!」
「夏果さんのご指導のお陰です」
「いえいえ、実行してこそ、ですから」
そんなブレブレの画像に眉をしかめることもなく、夏果はその花を愛おしそうな目で見つめている。その横顔に見惚れてしまっている自分に気付き、大槻は慌てて
「どうしました?」
「い、いえ、何も!」
「あぁ、ごめんなさい。お引き留めしてしまって。これからお仕事ですもんね。頑張ってください」
「夏果さんこそ。今日も寒いですから、もう中へどうぞ。すみません」
「大丈夫です、私なら。まだまだ外の作業もありますし。でも、こんなに寒いと温かいものが食べたくなりますね」
と、夏果は肩を抱き、大袈裟に寒がって見せた。あぁ、その肩を抱くことが出来たら、などと大槻は考える。
「あの、もしよろしければ――」
「はい?」
「こ、今夜、その、温かいものでも食べに行きませんか? あっ、あの、この近くに鍋の美味い店があって、その……!」
ついそんな、予定外のことをしゃべってしまう。
ば、馬鹿! まだそんな段階じゃないだろ! もっといろんな話をして、それから電話番号を交換したりして、それから、それから……!
「す、すみません! いきなり! わ、忘れてください! ほんと何言ってんだ俺!」
その大きな図体を丸めてあわあわと慌てる大槻を見て、夏果はたまらず吹き出した。それでもあまり笑えば失礼だと思ったのだろう、どうにか堪えようと口元を手で押さえている。
「良いですよ、行きましょう」
その言葉を、夏果は実にあっさりと吐き出した。
「――へ?」
「行きましょう。何時にどこで待ち合わせましょうか?」
「え、ええと、その……」
「どうしました?」
もちろんその返事を期待していなかったわけではない。けれども、まさかこんなにあっさりと。
「いえ、あの、ほんとに……良いんですか?」
おい、大槻隆、いつものお前はどこに行った。
いつも自身に満ち溢れ、大きく膨らんでいた大胸筋がしぼんでしまっている気がする。その自覚はある。
「もちろんですよ――というか、この中に」
そう言って夏果は大槻に渡した紙袋を突いた。
「はい? この中がどうしました?」
「私の
COnneCTとは、どのキャリアのスマートフォンにも標準装備されている無料メッセージアプリで、IDさえわかれば電話番号を知らずともメッセージの交換が出来る。
いまの若者なんかは友達とのやり取りに電話やメールを使わず、COnneCTだけで済ませているらしい。大槻も家族や部下、後輩とのやりとりは専らCOnneCTである。
「え? え?」
そんないまや電話番号と同等ともいわれる個人情報がこの中に? 何で? と、大槻の頭は混乱している。冷静に考えれば少しくらいわかりそうなものだが。
彼女からの、些細な――好意に。
「もし連絡が来たら、私からお誘いしようかと思ってたんです、実は。まさか大槻さんの方から誘っていただけるなんて」
「そ……、そうだったんですか……、じゃ、じゃあ後で……連絡します……」
夢見心地でそう話す。
いや、本当に夢かもしれない、と自身の頬をつねる、というお約束まで。
痛い。
ということは、夢じゃないのだ。
ありがとう! この痛み!!
頬の痛みに感謝をしているうちにやっと現実味が湧いて来た。途端に彼の自慢の大胸筋もそのふくらみを取り戻す。
「では、後程!」
と、晴れやかにそう言って、ぶんぶんと大きく手を振り、大槻は歩き出した。
それを見送る夏果はやはりちょっと笑いを堪えたような顔をしている。
「はい、待ってます。お気をつけて」
最初の挨拶よりも幾分か緊張したようなその声に背中を押され、大槻は何度も振り返りながらゆっくりと歩き――角を曲がったところで、10分程度の立ち話分を埋めるため走り出した。
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