【2月】ハッピーエンドの先も、物語は続いている。
【慰安旅行】温泉でも相変わらず、の巻
◇1◇ ここさ、良いのがあるんだよ。
さて本日は待ちに待った慰安旅行である。
我らあけぼの文具堂東北営業部、一課から四課の総勢58名は、3台のバスに分かれて岩手県へと旅立った。
途中サービスエリアに立ち寄ったりしながらホテルへと到着し、各課の事務から部屋割を告げられ、代表者にルームキーが手渡される。
その後は、まぁはっきり言ってしまえば自由時間。ただ、18時には宴会がスタートするので、遅れないように、というわけである。
とはいえ、ハイ解散、とならないのが役職者の辛いところ。はめを外しすぎないようにだとか、無礼講だとか言いながらも部下にアルコールを強要したり、女性社員を給仕役あるいは召し使いのようにお酌をさせたりしないように、なんてちょっと考えりゃわかるだろうって呆れてしまうような注意事項が配られたりする。あとはもしもの時――地震や火事など――の避難誘導はどのように行うかといった、重要な確認もある。そうそう起こることでもないが、これだけの人数で動くのだから用心に越したことはない。
そうしてやっと解放され、一息つく。
フロントのカウンターの向かいにある休憩スペースに、フリードリンクが用意されているのを見つけ、ソファに身を沈める。
キーは同室の瀬川君に渡してあるし、ここでコーヒーを一杯飲むくらいは良いだろうか。
そんなことを思い、コーヒーを淹れる。香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。それを一口飲んで渡されたパンフレットを見る。そこに書かれているのは施設案内と、ここの温泉の種類、それからその効果効能である。
泡風呂……打たせ湯……露天。うん、この辺りは絶対外せない。歩き湯? ははぁ、石が敷き詰めてあるのか。ううん、良いかも。
あとは――、お、おお? これは……!!
「伏見主任」
低く控えめなその声が聞こえた方を見る。同じパンフレットを持って立っていたのは部下の――だけじゃないんだけど――片岡君だ。いや、2人きりの時は藍って呼んでるけど。一応慰安旅行だから、まぁ会社のようなもの、というか……。
「片岡君。何、コーヒーかい?」
「え? あ、はい」
「どれ、待ってな。座って座って」
紙コップをひとつ取り、コーヒーのボタンを押すと、彼はなぜか「あああそんな!」なんて声を上げた。
「えっ、どうした片岡君。先にミルク入れるとかそういうマイルールあるタイプだった?!」
だとしたら、ごめん。
そう言おうとしたところで、彼はふるふると首を振った。
「違いますよ。主任に淹れてもらうなんて。すみません」
「何言ってるんだ。たかだかコーヒーを淹れるくらい誰がしたって良いじゃないか」
「そ、そうですけど……」
「大丈夫、料理は出来なくてもボタン押すくらいは出来るから。はい、熱いぞ」
「……ふふっ。ありがとうございます、いただきます」
何だい片岡君、いまの笑いは。
いや、わかるよ。もちろんこちらも笑わせるつもりで――いや、和ませるつもりで言ったわけだし。
片岡君はコーヒーを、ずずず、と啜って顔をしかめた。あれ? やっぱり料理が出来ないとボタンを押すことすらままならないのか!?
「……主任すみません、砂糖をひとついただけますか」
「あれ、そうか。片岡君砂糖いるんだっけ」
「すみません実は……」
「いやいや、謝ることはないよ。はい、砂糖とマドラー」
そうか、いつも片岡君がコーヒー淹れてくれるから、彼の好みを知らないんだ。砂糖はひとつ。よし、もう忘れない。
砂糖を入れ、くるくるとかき混ぜてからそれを飲むと、やっと片岡君は人心地ついたような顔をした。
「時に片岡君。パンフレットはもう見た?」
「はい、ざっとは」
「気付いたかい、ここの温泉……」
「はい、種類多いですよね。のぼせる前に全種類制覇しないと……」
「うん、それもそうだけど。ほら、ここ」
テーブルの上に置いたパンフレットを指差す。示したのは、別館のページにある『露天混浴』の文字だ。
「ええ!」
「ここさ、良いのがあるんだよ、混浴だって。小さい方の別館にだけど」
理想を言えばそこで熱燗なんていただけたら最高なんだが、さすがに慰安旅行ではまずいだろう。
すると片岡君は持っていた紙コップを勢いよくテーブルに置き、腰を浮かせた。
「――だっ、
「ちょっ、大丈夫、片岡君!? いまフロントで氷もらってくる!」
「大丈夫です大丈夫です、本当に。ちょっと跳ねただけですから!! そんなことより!」
使い捨ての紙おしぼりで
「どうした、片岡君」
「混浴なんて駄目ですよ、主任!!」
語気は強いが声は小さい。片岡君はそんなに地声が大きい方ではないのだ。
「何でさ。一緒に入れるよ?」
「そっ、そうですけど!」
「ウチのアパートの浴槽は狭いからねぇ。ここならゆっくり裸の付き合いが――」
「ちょっ……! 何言ってるんですか、主任!?」
「え?」
何をそんなに慌てて。
「駄目ですって! 他の人もいるんですから!」
「そうか。やっぱり怪しまれるか」
なるべく社内の人にはバレないようにしましょうって言ったの片岡君だしな。やっぱり気になるんだろう。
「そうじゃなくて!! 主任の裸見られたらどうするんですか!!」
「ははは。やだなぁ、ちゃんとタオルは巻くさ」
そんなことを気にしていたか、片岡君は。しかし案ずるな、ちゃんとタオルは巻く。そこは指定されたタオルであれば巻いた状態で入浴が出来るんだから。
それに……私の裸なんて需要もそうないと思うけど……?
「そうじゃなくて! 肩とか足とかもですよ!」
「ええ……? そこも……?」
さすがにそこまで隠すとなると一体何枚のタオルが必要になるだろう。
「あの、主任。本当に伝わってません……?」
「伝わるって? 何が?」
「えっと……いま何考えてます?」
「いや、タオル何枚借りたら全部隠せるかなって」
肩にかけるのに1枚、胴に巻くので1枚。手足は左右1本ずつ必要になるから4枚。足首辺りはさすがに良いだろうか。だからまぁ6枚もあれば……。
なんて考えていると、とんとん、と肩をつつかれた。す、と差し出されたのは『PenTalk 2.0』である。何、持って来たのか、片岡君! 慰安旅行にまで!
『潤さんの肌を他の男に見られたくないんですよ。わかってください。』
「な……!?」
慌てて片岡君の顔を見ると、彼はそのきりりとした眼差しでまっすぐとこちらを見つめていた。しばらく視線を合わせていると、その頬が徐々に赤く染まっていく。
『だから、お願いします。混浴は駄目です。』
そこでやっと気付く。
自分達はいわゆる恋人同士という関係であって、普通、『彼氏』というものは『彼女』の裸を他の男性に晒したくないものだ、と。
「ごめん、片岡君。そこまで考えていなかった」
頭を下げると、片岡君は手と頭をぶんぶんと横に振った。「でも」と声を発してから、また思い出したように『PenTalk』を手に取る。焦っているのか上手く変換されないらしく、何度も何度も画面をタッチしている。
『でも、今度一緒に入りたいです。良いですか?』
恐る恐る差し出された画面にはその文章が記されていた。
「良いですかも何も、さっき誘ったのはこっちだよ?」
そう返すと、片岡君はきりりとした目を優しげに細め、下唇を噛んだ。実に嬉しそうな顔だ。どうやら彼は嬉しさを隠そうとする時に下唇を噛む癖があるらしい。
「今度2人で温泉に行こう。部屋に露天があるところ探しておくから。そうだなぁ、再来週辺りにでも」
「えっ」
「どうした?」
何でそんな驚いてるんだ。
『露天つきの部屋ですか?』
「そうだよ? そしたらほら、誰にも見られなくて片岡君も安心だろう?」
『その点は安心ですけど。』
「けど? 何さ」
『それだと泊まりになるのでは。』
「そりゃそうだよ」
日帰り温泉も悪くないけど、せっかくだし海の幸山の幸に舌鼓なんていうのも悪くないじゃないか。
何てことを考えただけで、おっとよだれが。いかんいかん。
「あ、旅費? 旅費を心配してる? そこはまぁ心配しないで良いよ。そんなに高くないところ探すし」
本当は、車出してくれるなら、それくらい全額持つよって言いたいのだが、片岡君はあまり良い顔をしないのだ。普段も、ガソリン代と高速代を払わせて、初めて食事を奢らせてくれる、というような。
『そうじゃなくて。』
――ん? 何やら困ったような顔。話が急すぎたか? 給料日後にした方が良かったかな?
「どうした、片岡君」
片岡君は背中を丸め、画面を隠すようにして何やら文字を書いている。何度も何度も書き直しているところを見ると、焦るあまり字が崩れてしまっているようだ。どうしたどうした耳まで真っ赤じゃないか片岡君。
やっと変換が上手くいったらしく、片岡君はそれをテーブルの上に置くのではなく、直接手渡してきた。押し付けるように、ずずい、と。
「――おおお?」
渡し終えるとさっと視線を逸らされてしまう。バレンタインに本命チョコを渡された時のようだ。え? いやもちろん同性からだったけど。
渡された『PenTalk』をちらりと見れば、長いこと画面とにらめっこしていた割には短い文のようである。
が。
「ん?」
『そうなると、さすがに俺の理性も限界です。』
おお?
……片岡君。さんざんウチに泊まりに来てるのに一向に手を出してこないと思ったら。成る程、君の理性ってやつはなかなか良い仕事をしてるじゃないか。
あのねぇ、片岡君。
別に学生同士ってわけでもないんだよ?
そりゃ恋人同士っていってもそればかりじゃないさ。だけど、そこまで我慢するのもどうかと思うよ。
ちょっと借りるよ、と呟いてタッチペンを取る。
さらりと書いて、その画面を片岡君に向ける。変換なんて正直面倒なのだ。
『臨むところだ。良いじゃないか、大人同士なんだし清い交際じゃなくても。』
その画面を見せると、片岡君は余程びっくりしたのかソファから転げ落ちそうになった。何をどうすればその状態で転げ落ちられるのだろう。片岡君、君、コメディアンの才能あるな。
それが何だか可愛くて、ついつい意地悪心が顔を出す。
『藍があまりに手を出してこないから、こちらから襲いかかるところだったよ。』
追い打ちをかけるようにそう書いて見せると、彼はもうKOとばかりに後方に倒れ、背もたれに身を預けてぐったりと天を仰いでいる。
しまった、やりすぎたか。
フロントでおしぼりをもらってこよう。
と、向かう途中で気が付いた。
おや、良いものがあるじゃないか。うむ、さすがは老舗。
おしぼりを受け取って片岡君のもとへと戻ると、彼はまだダメージを受けているのか先程と全く同じ姿勢で呆けている。
その額に冷たいおしぼりを乗せると。
「うわぁ!」
と飛び上がって声を上げた。
うん、やっぱり君はコメディアンの才能がある。
いや、そんなことより。
「ごめん、片岡君。反応が面白くてつい調子に乗ってしまった」
「い、いえ、良いんです……」
『面白くて』というのは嘘だ。本当は『可愛くて』なんだけど、男性に『可愛い』はないだろう、と我慢した結果である。
額が冷えたことで幾分か落ち着きを取り戻した片岡君は、すみません、なんて呟いて座り直した。額のおしぼりが落ちないように手で押さえながら。
「あぁそうそう片岡君、いまちょっと良いものを見つけてさ」
そう切り出すと、彼はおしぼりを額から取り、「何ですか?」と言いながらそれをきちんと畳み直した。
「この後、宴会の前に温泉に入るだろ?」
「そうですね。宴会まで結構時間ありますし」
そうだろうそうだろう。
そして、温泉に入ってもまだまだ時間はある。さすがに時間ぎりぎりまで入ってたらのぼせるし、全身がふやけてしまうだろう。
「それでも時間あるよね?」
「そうですねぇ……。あぁ、でも山中さんが麻雀やるみたいでメンバーを募ってました」
「へぇ、片岡君って麻雀わかるのかい」
「いや、もう多少かじった程度です。だからたぶんカモられて終わりでしょうね」
「ははは。だったら止めといた方が良いな。それよりだったら、私と――」
す、とフロントの脇を指差す。
「勝負しないか、片岡君」
その方向にあるのは、かなり年季の入った卓球台である。
やはり、温泉といえば卓球だろう。うん。
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