片岡君はしゃべらない

宇部 松清

【伏見side】片岡君がしゃべらない。

◇1◇ 片岡君はしゃべらない。

 カタカタカタカタ、と小気味良いタイピングの音がそこかしこから聞こえてくる。めずらしいことに、誰の電話も鳴らない。貴重な静けさである。

 いつも何かとうるさい加山課長が外出中というのも大きい。


 時刻は現在11時56分。


 ――そろそろだ。


 手元の資料に落としていた視線をパソコンのディスプレイへと移し、その時を待つ。


 ――来た。


 社のマスコットであるフクロウの『福郎ふくろうくん』が画面の端からとことこと歩いてきて、口にくわえているものをこちらへ差し出した。

 それと同時にぷかりと浮かぶのは『メール1件!』という雲の形の吹き出し。


 何年か前に在籍していたエンジニアが作ったらしい、遊び心のある社内メールシステムだ。


 雲の中の『メール1件!』をマウスでクリックする。


『件名:お疲れ様です。

 本文:主任の貴重な休憩時間に恐縮なのですが、急ぎで確認していただきたい資料があります。よろしければご返答願います。 片岡かたおかあい


 毎日11時57分きっかりに送られてくるメールである。そして、返すのはほぼ定型文と化しているこの文章。


『件名:お疲れ様です。

 本文:わかりました。 伏見ふしみじゅん


 いつもいつも、今日こそは少しだけ変えてみようかな、と思いつつも、ついついここまで打ったところで送信をクリックしてしまう。

 すると、メール画面がぱたんぱたんと折り紙のように畳まれ、あっという間に手紙へと変わる。そう、あのな赤いハートのシールで封をしてあるやつだ。ひらりと舞うそのラブレターを福郎くんがくちばしで華麗にキャッチする。そして、来た時は徒歩だったくせに、今度は羽を広げて画面の端へと消えていくのだ。


 飛べ! 福郎くん! 健闘を祈る!


 何となく心の中でそんなことを思い、敬礼する。もちろん敬礼も心の中で、だ。


 もっとも、そんなことをしなくとも、彼は任務を完璧に遂行するのだが。


 と、同時に昼休みを告げるベルが鳴る。

 これが、先々週からの流れである。



 2週間前、名古屋にある本社で行われた研修から戻ってくると、6台のデスクが対向式に配置された我が島、通称『伏見班』の中の1人、片岡藍君がマスクをつけていた。そう、先ほどのメールの差出人である。


 自分の席はその6台のデスクの端、お誕生日席なんて言われがちな位置にある。

 低めのパーティションがあるとはいえ、班員を全員見渡せるような配置だ。

 そして片岡君の席はというと、その右側の列の端、つまり、こちらのデスクにぴたりとくっついている状態である。


 小さなオフィスだから、もし仮に片岡君が隣の班の一番端の席だって、きっと気が付いただろう。何せその小さな顔の約半分が白いマスクで覆われているのだから。


 常に真剣な切れ長の目と自然に整えられた眉毛が、ここ2週間の片岡君の顔の全てとなっている。


 その片岡君のマスクだが、サイズが合っていないのではないか、というのは、かなり早い段階で班内の話題になった。


「こっちの女性用のマスクにした方が良いんじゃない?」


 と発言したのは、伏見班の小橋こはしひかる君だ。

 小橋君が自分の鞄から、私物らしい5枚入りのマスクを取り出してそう言うと、『女性』という単語を耳聡く聞き付けた隣の班の中西主任が早速割り込んできた。


「その『女性用』って表現、やめてもらえません?!」


 と、鼻息荒く。


 中西理佳主任というのは、何かと『女性』という言葉に敏感な女性だ。


 ここ『あけぼの文具堂東北営業部二課』は中西班と伏見班の2つで構成されていて、中西班は電子メモパッドやラベルライターなどの電子文具を担当し、我が伏見班はというと紙ファイルやバインダーなどといったアナログ(ここではそう呼んでいる)文具商品を担当している。

 このようにはっきりと取り扱う商品が異なっているために、業務中は班をまたいでの交流があまりない。といっても、敵対しているだとかそんなドラマのようなこともないんだけど。お昼を一緒に食べている女性社員もいるし、飲み会などは班の垣根を越えてよく開催されている。まぁ概ね、平和な職場であるといえるだろう。かといって、よく求人情報誌で見るような、『アットホームな会社です!』まではいかないが。あれはちょっと胡散臭すぎる、うん。でもまぁ、そうなんじゃないだろうか。営業だからといって、他者を蹴落としてまで――ということもない。


 適度な緊張感があり、社員同士も適度な距離感――だったのだが、この中西主任が異動して来てから、それはほんの少し崩れた。


 中西主任はいつも何かにぴりぴりしていて、『女性』『女子』『女』『母』など、もろに性別を指すワードはもちろん、『ピンク(桃色)』『リップ(薬用でも)』といった、まぁ確かに女性を連想しなくもないかな、といった単語や、果ては『ひらひらした』『ゆるっとした』『ふわっと』など最早言いがかりではと首を傾げたくなるようなものにまで口を挟むようになってきたのだ。先日は『ハンドクリーム』が槍玉にあげられた。彼女が心穏やかに手肌をケア出来るのは皮膚科で処方されるナントカっていう白色ワセリン(もう名前は忘れてしまった)らしい。知らん。


 もちろん役職者は部下に対し、『さん付け』や『ちゃん付け』もタブー。かといって、呼び捨てはもっての他。男だろうが女だろうが皆『君』を付けて呼ばなくてはならない。ちなみに、役職なしの一般社員でも、先輩から後輩へという場合にもそれが適用される。


 こうなると何が彼女の地雷なのかわからず、もともと業務中の私語はそれなりに慎んではいたものの、より一層このオフィス内は静かになった。

 しかしそんな中でもお構いなしに上記のNGワードを連発するのが、二課のKY隊長ことKY課長である。


 とはいえ、この課長がとんだセクハラジジイかというと、決してそんなことはない。彼は妻も子も、何なら孫までおり、雑談の内容と言えば9割がその「いやぁ、ほんと、孫は目に入れても痛くないっていうのは至言だよねぇ」というほど溺愛しているお孫さんなのだ。――が、そのお孫さんが『女の子(舞ちゃん・5歳)』だったのである。


 中西主任にとっては、相手が5歳の幼児であっても関係ないらしく、


「昨日舞ちゃんが『じいじといっしょにおふろ!』って言ってきてさぁ」と目尻を下げれば、「セクハラですか、課長!」

「舞ちゃんの誕生日プレゼントにエリちゃん人形をプレゼントしたんだけどさぁ」と頬を緩めれば、「セクハラですか、課長!」


 もう二言目には「セクハラですか、課長!」なのである。

 

 だから、中西主任が「セクハラですか、課長!」と声を荒らげる度に誰かが彼女を「まぁまぁ」となだめなくてはならず、そしてその役はもっぱら自分に回ってくる。なぜって、役職が同じ『主任』だからである。社歴は10年くらい違うのに。


 なのでその時も「中西主任、落ち着いてください。たまたま小橋君が持ってたマスクに『女性用』って書いてただけですよ、ほら」と、小橋君からその袋を借りて彼女に見せると、中西主任の勢いはほんの少しだけ萎んだ。まぁ、商品に記載されているのだから仕方がないだろう、うん。


 しかし! と彼女はギッと袋を睨み付けた。お、おお、まだやる気か。


「確かに女性と男性とで顔の大きさに差はありましょう。け・れ・ど! なぜそう表記する必要が? 別に顔の大きい女性もおりますし、顔の小さな男性もいるではありませんか! そうでしょう? そうでしょう? ねぇ、伏見主任!?」

「ええ、ええ。おっしゃる通りですね。まったくもって、もう、はい」

「ましてや! 見てください、この色! ぴっ、ピンクですよ! あああピンク!! 必要あります? マスクに色なんて!」

「ま、まぁ……ないかもしれませんね」


 ここで、「ピンク色にすることで女性の購買力がアップするのではないですか?」なんてことを言ってしまうとアウトなのである。初めて彼女が二課にやって来た時にそれをやらかしてしまい、自分の業務に差し支えるほどの時間を取られてしまったのだ。それが正論であっても、言わない方が良い時もある。我慢、我慢だ。

 

 とにかく、その中西主任の迫力に気圧されたのか、単に面倒になったのか、それからは誰も片岡君の大きすぎるマスクについて言及することはなかった。



「――さて」


 と、人もまばらになったオフィスで、そんなことを呟きながらデスクを立つ。それに合わせて片岡君も席を立った。

 その『急ぎで確認していただきたい資料』が入っているらしいトートバッグを持って。


 こちらも左右の尻ポケットに財布とスマートフォンをねじ込み、愛用しているシステム手帳を持つと、


「行こうか、片岡君。急ぎってことだけど、何か食べながらでも良いよね?」


 と声をかけた。

 これもここ2週間毎日の流れである。


 なぜか片岡君は昼休みギリギリに急ぎの資料やら書類やらの確認を求めて来るようになったのだ。休憩後でも良いかと言うと、午後一の会議やら外回りやらで使用するのだと返されてしまい、やむを得ず昼食を一緒に食べながら確認することになったのである。

 最初のうちはもう少し時間に余裕を持って、と小言めいたことも言ってはみたのだが、その資料の方はというと、本当に『確認』するだけで済んでしまうほどの出来なのである。さすがは即戦力の中途社員。

 だったらなおさら休憩後にちらりと見るだけでも良いような気がしたのだが、やはり、もしも、ということもある。


 それに最近は、もしかして片岡君、と思うところがないわけでもない。


 もしかして片岡君、自分と一緒に昼ご飯が食べたいのではなかろうか、と。

 もしかして、昼食を共にしながら上司と親睦を深めたいのではなかろうか、と。


 そういうことならば仕方がない。

 そう思って、ランチを共にすること2週間、なのである。



 そして――。


 片岡君は、デスクの上に置いてあったワインレッドの手帳型カバーをぱかりと開いて、手のひらサイズの黒板のようなディスプレイにペンを走らせた。そしてそれをくるりとこちらに向ける。


『はい。』


 片岡君は、決してしゃべらない。


 ここ2週間、ずぅっとだ。


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