第44話 あおぼし(鎧狩)
小雨の降る中、溝の底に少年が横たわっている。
泥と木の葉で汚れた頭髪はくすんだ顔にまとわりつき、棒のような両手両足は砂利の上に投げ出されている。
少年は捻れるような腹痛でまぶたを開けた。
雨粒が眼球に滑り込む。薄暗い視界に、柄の折れたすきが見えた。
土を掘り出す途中、気を失ったらしいと少年は思い至った。
春、少年は自ら城柵への移住に志願した。
城柵に行けば、自分の土地が持てる。
恨みをもった衣斐詩が襲ってくることもあり得るが、この何十年ずっと平穏のままだ。
少年は淡い期待を胸に懸命に働いたが、隠していた病を仲間に見つかってしまった。
組の長は、村内に疫病を持ち込み、隠していたことを怒り、素行不良の者として役人へ引き渡そうとした。
少年は、隠し事を謝り、病は生まれつきでうつるものではなく、役人にだけは黙っていてくれと、必死に許しを乞うた。
病の者は奴婢にもなれない。
屍の野に放逐され、弱り果てた末に生きながら獣に食われてしまう。
土下座する少年を、長は冷ややかな目で見下ろした。そして、土地の整備を命じ、村への出入りを禁じた。
それからずっと、少年は村の外で暮らしている。
明るいひなたの下、細長い田へなみなみと水が満たされ、青い苗が点々と植わっている。
その様子を横目に、切り株だらけの湿った森で鉄の刃が無いすきを突き刺し、固い石や木の根を取り除き、じっとりとした蒸し暑さの中、掘り返してひたすら土を柔らかくしていた。
病により、四肢に固く黒い肌を持った少年には、岩のぎざぎざや、木のとげなどは素手で掴んでも平気なものだった。
しかし、手足のそこらじゅうが丸くはげていた。
まだらにどす黒い肉色の円があらわになったそこを、下草の枝や岩のとがりが引っ掻いて、いつも血が滲み膿んでいた。
それでも少年は黙々と働いた。
見かねた友人が、大人の目を盗んで食べ物を差し入れてくれたが、ふと来なくなってしまった。
そのうちに、一日おきから二日に一回、三日に一度と食事の回数が減り、まったく村人は少年の前へ姿を現さず、田の端の雑木林に膳を置いては、そさくさといなくなるばかり。
勤めをおえ、ほうほうの体で田のそばへたどり着くと、狸や鳥が椀に頭を突っ込み、米粒をなめとっているのもしばしばであった。
空腹に耐えかねて、何度も村へ食べ物を乞いにいったが、激しく棒で叩かれて追い出されてしまった。
少年が切り開いている森近くに住む衣斐詩たちは、哀れむ目をしても、まるでそこにいないかのように通りすがるだけだった。
草の葉や根、土中の虫を飲み下し、小川の水で空腹をごまかしてきた。数日前から腹を下し、とうとう体力がつきて、起き上がる力もない。
(椀一杯でも、白いお米を食べたかったな…)
とうてい叶わない願いだと、かさついた唇で笑った。
村は、少年が自然に死ぬのを待っている。
病の穢れを持ち込んだものが、穢れを持ち去って外で身代わりになること。
その方が疫病を防ぎ、夏の不作の不安もいくばくかは和らぐからだ。
夏だというのに冷えた空気が満ちている。
今頃、村はずれの水路には、いくつもの人形が流されているだろう。
雨はぴちゃぴちゃと騒々しい音を立てて、溝の底にゆっくり溜まっていく。
水溜まりを避けて、身体を溝の壁におしあて、首を上に反らした。
雨雲の切れ間に、小さな星がほの青く瞬いている。
すると、誰かが溝の底を覗き込んだ。
――あのねえ、僕は病だから売れないよ。哀れに思うなら、雨をしのげる所に置いていって。ついでに水と食べ物もちょうだい
――図太い根性の坊主だなあ。
俺は人攫いではないから、ゆっくり食いながら聞いてくれや。
――俺はな、同じ病を持つもの同士で、睦槻国の宇原に住んでいるんだ。
お前も来ないか。
――飯は?
――稗飯に菜物で良ければ。
少年はかすれた声で笑った。
大木の幹みたいな胴回りの大男が、大真面目に少年を勧誘しているのが面白く思えた。
もうしがみつく力もないけれど、広くてごつごつした背中に身体を預けて、ゆらゆらと揺られていたような――
真澄は、はっと目を覚ました。
周りが暗い。
窓から差し込んだ細い月明かりに、ぼんやりと藁束が浮かび上がる。
ここは倉の中だ。
収穫した稲束の集計を確認していて、いつのまにかうたたねをしていたらしい。
真澄はぐんとのびをすると、端書きした板を集めて戸をあけた。
ひゅうと風が襟元の隙間に入り込む。
空の星々はひときわ鋭く光っていた。
その中の、ほの青い星に目を止める。しばらくして、真澄は星から目をそらした。
「おお、寒い寒い」
そう呟くと、寒空の下、背筋を震わせ、襟元をかき集めながら、同胞の待つ家へ足早に駆けていった。
ほの青い星は、はたはたとはためく衣の裾を見下ろしながら、あいも変わらず冴えざえと輝いていた。
了
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