4話
《――あれ以来、私たちはよりいっそう仲良くなりましたね。それからの日々はよく覚えています。今までの私の人生で、おそらく一番輝いていた、幸福な日々でしたから。
時折、私があなた様の屋敷へ行くこともありましたね。あれは……そう、十二歳の頃です。あの夏は私があなた様のところへ向かって、そして一緒に街中へ出かけて……宝箱を、買ってくださいました。小さな、あまり装飾の施されていない木製のもの。安物ですが、私にとっては特別なものです。今でも大切に使わせていただいています。
……とても懐かしいです。あの頃は、本当に毎日が輝いていました。今は……そうではありません。セピア色の日々は穏やかですが、同時にとても物足りないのです。
全ての転機は、そう、一年前、私が十四歳となった少しあとで――》
「レイチェル……」
二人きりの部屋に響く愛しい彼の声に、レイチェルはそっと目を伏せた。きっと彼の声を聞くことが許されるのは、もうあまりないだろう。この声とも、この熱とも、……彼自身ともお別れ。そう思うと胸が苦しくなって、思わず目の前にある白いのシャツを握りしめた。美しいシャツは、レイチェルの涙で濡れていた。
今朝、レイチェルの父である子爵が亡くなった。事故……らしい。当時の状況を説明されていないため詳しくは分からないけれども、つい先ほど、彼女自身も遺体を確認したため、亡くなったことは確かだった。
――父の遺体はベッドの上に横たえられていた。顔に白い布を被せられ、まるで眠っているようだった。だけど、体は全く動いていない。生きているのなら必ずしている呼吸をしておらず、胸はぴくりともしなかった。その光景に呆気に取られ、ただ立ちつくすことしかできなかったレイチェルとは違い、母はすぐさまベッドに駆け寄った。冷たく、重い父の手を握りながらわぁわぁと子供らしく泣く母を見たのは初めてで、あんな状況だけれどひどく驚いたのを覚えている。だけどそれくらい、取り乱してしまうほど母は父を愛していたのだと分かって、とても悲しくなった。どうしてこんなことに。ただ幸せな生活を送れれば、それで良かったのに……。
その後父の傍を離れようとしない母に代わり、レイチェルは叔父と今後のことを話し合った。だけど話し合うことなどあまりない。何せ、この国で女は爵位を継げないのだから、叔父が次の子爵になることは実質上決まっていたからだ。
叔父は喪が明け次第、相続の手続きを始めるとのこと。そうなったらおそらく、レイチェルとユリウスの婚約は破棄されるだろう。レイチェルはもう、子爵令嬢ではなくなるのだから。
それは嫌だった。彼と離れたくなんてない。だけど、貴族ではなくなるレイチェルには、彼の隣に立つ資格はなくて……。
叔父が帰って、そんなふうに自室で一人、悶々と悩んでいる頃、ユリウスがやって来た。彼は悲しげな面持ちを浮かべながらこちらへ近づいてきて、すっぽりとレイチェルを抱きしめた。全身を包む温かな熱に、決壊したかのように涙がぽろぽろとこぼれ落ちてきた。醜い泣き声が喉から溢れる。
ユリウスはずっと名前を呼んでくれていた。今も、そう。優しく、甘やかしてくれている。そんな彼が好きで、離れたくないけれど――。
「……ユリウス、様」
そっと呼びかけた。声はみっともなく震えていて、泣きながらだから、たぶんすごく聞き取りづらい。だけどユリウスは「なに?」と優しく問いかけてくれた。ぎゅっと、背中を支える腕の力が強くなり、彼の胸元に顔を押しつけられる。けれど息は苦しくない。ただ……胸の方が苦しくて、辛かった。目の奥がじんわりと熱くなり、こらえようとしたけど結局ダメで、大粒の涙が目尻からこぼれ始めた。
「レイチェル?」
突然泣き始めたからか、ユリウスが心配げな声をかけてくる。ここで、ずっと一緒にいたいって告げたら、どうなるだろう。きっと優しい彼のこと。レイチェルを攫ってでも、世間から非難の目を向けられようとも、――貴族の位を捨ててでも、望みを叶えてくれる。
だけど……だからこそ、レイチェルは望みを告げられなかった。彼にそんなことをしてほしくないから。私なんかのために、幸せを手放してほしくないから。だから――。
そっと瞼を閉じる。世界が暗闇に満ちた。とくん、という彼の心音が聞こえて、何故だかは分からないけど、どうしようもなく泣きたくなった。
――大丈夫、いけるわ。
かつて、ユリウスに謝ったときと同じように――いやそれ以上に緊張しながら、不安に囚われながら、レイチェルは〝それ〟を口にした。
「婚約破棄をしましょう」
シン、と部屋が静まり返った。まだ明るい昼間。どこからかバサバサと鳥が飛び立つ音や、階下から聞こえる使用人たちのひそひそ話が、やけに大きく鼓膜を揺らした。
重たい静寂。レイチェルはそっと彼の胸を押して、体を引き離す。熱が離れ、胸にぽっかりと穴が空いた。
ユリウスは動揺しているらしく、青い瞳を揺らしてこちらを見ていた。傷ついたような表情。……また、傷つけてしまった。だけど、これは彼のためだもの……。そう心の中で言い訳をしながらも、彼の瞳をじっと見つめるのをやめない。やめたら、そこにつけこまれてしまう。
……時間が経つ。どこからか足音が聞こえてきた。近づいてくる。この機を逃したらもう後はないかもしれない。そう思い、追い打ちをかけるように、レイチェルはもう一言付け加えた。
「それで、もう二度と関わらないようにしましょう」
レイチェルがそう言うと、ユリウスは視線を逸らした。不本意だと思っているのだろう。嫌だと思ってくれているのだろう。それが嬉しくて、胸が満たされる。だけど、レイチェルは彼の負担になどなりたくなかった。それくらいなら、この恋心を捨てる方を選ぶ。
「ユリウス様」
返事を促すように声帯を震わせた。静かな声だったが、心の中は嵐のように荒れていた。頷いてほしいという気持ちと、止めてほしいという気持ちが混ざり合って、バクバクと鼓動が体を内側から揺さぶる。微かに震える指先を隠すように、きゅ、と手を握りしめた。
……長い時間が経った。だけど、もしかしたらたった数秒かもしれない。時間の感覚は消え、彼の息遣い以外、何も聞こえなかった。耳に入らなかった。そんな余裕などない。
ユリウスが、乾燥した唇を開いた。ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「……うん、分かった」
ユリウスは頷き、優しくレイチェルの頭を撫でると、彼女の顔を見ることなく歩き出した。やがて、パタン……、という乾いた音が響く。足音が遠ざかって……いつの間にか大きくなっていた話し声に掻き消されると、レイチェルは両手で顔を覆った。涙が溢れ、ボロボロとこぼれ落ちる。悲しくて、辛くて、そして何より、ユリウスを傷つけた自分が許せなかった。
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